最終話 対角線に薫る風


朝、二度寝していると、ミキちゃんがやってきて耳元でごにょごにょ言ってきた。

もうちょっと寝たいので、寝返りを打って顔をそむけたけど、まだ何かつぶやいている。


いつまでも何か言っていて、それでも我慢して寝ていると、ペチンとおでこを叩かれた。

手が出るのは、怒り始めてきた証拠だ。

仕方なく、僕は大きく伸びをした。


「はうーん…。キスしてくれたら起きる」


「はい」


キスされる。

ぎこちないキスだ。

何かいつもと違う。

あれっと思って、目をごしごしして見ると、ミキちゃんではなく水沢さんだった。

笑顔で僕を見下ろしている。


「あ、ごめん、ミキちゃんと間違った…!」


「起きてくださいね」


「起きました起きました」


「うふふ」


水沢さんは優しく笑って寝室を出ていった。

僕はもう、完全にノックアウトされて、ばたんとベッドの上に倒れこんでしまった。


しばらくしてから、おそるおそるリビングに顔を出すと、いつものメンバーがいた。

新見に知香ちゃんに聡志、それと水沢さんと真帆ちゃんだ。


「うはよう」


「おはーっ」


「おはようございます」


キッチンではミキちゃんが何かつくっていて、加奈がそれを覗き込んでいる。


「ミキさん、あたし大盛り…、いや特盛りで!」


「分かってるわよ。座ってていいから」


「えへへ。待ちきれなくてお腹がぐーって!」


「いいわね、いつも快食で」


今日は、卒業式だ。

ミキちゃんがつくってくれたパスタを食べて、準備をする。

女性陣が着物を着ないので、準備は比較的早いはず。

ミキちゃんと新見と知香ちゃんと、3人で寝室にこもってちょっと化粧をするぐらい。


1時間…、2時間くらい?


「星島さん、引っ越しはいつなんですか?」


待っている間、水沢さんに聞かれた。


「え。おれ?ここ?」


「星島さんのアパート」


「あ、一応、あさってに寮に入る予定」


「私、お手伝いしますね」


「いや、平気だよ。そんな荷物ないし」


アサミACの練習拠点として、今年から、絹山大学を使えることになった。

それで、杏子さんが名古屋のマンションを引き上げて絹山に戻ってくる。

ミキちゃんはここを出て、アサミACの寮に引っ越すことになったのだ。


僕も、そこに入る。

千晶さんも亜由美さんも一緒だ。

ここからすぐ近くだし、絹山大学にも近いし、便利だと思う。


「私も早く、寮に入りたいなあ」


水沢さんがそんなふうに言った。


「うん…?」


「公私ともに、星島さんと一緒にいたいです」


「あーもうっ、いちゃいちゃすんなっ!」


聡志がティッシュをちぎっては投げ、ちぎっては投げ。

まあ、気持ちは分からなくもないです。


そうそう。

僕の近況をちょっとだけ。

世界陸上が終わったあと。

最後のインカレにて、僕は当然、決勝進出。

そして鮮やかに、14秒56の8着と大活躍した。


いや。

夏場の疲労がたたってレース後半に足を痛め、歩くようにゴールしたんだけど、8着の1点のために頑張ってゴールしたのだから、そこは褒めてほしいところだ。


幸い、加奈と同じく軽度の肉離れ。

それから数週間で競技に復帰できたのだが、そのころには調子を落としてしまっていた。

シーズン後半は、散々だった。

来年はオリンピックなので、うまく来シーズンにつなげたかったんだけど、仕方ない。


ちなみに、今年のインカレの覇者は本間秀二で、10秒22だった。

これでインカレ連覇。

国体では、向かい風0.4mなのに10秒08の自己ベストをマークした。

来年以降のライバルになってくるのは間違いない。


新見は、ダイアモンドリーグに初参戦して11秒16で4位。

その後、危なげなくインカレを制覇し、国体でも優勝を飾った。

シーズン最終戦の静岡では11秒09の日本記録を樹立。

来シーズン、加奈との勝負が白熱することは間違いない。

もちろん、オリンピックも楽しみだ。


千晶さんは、オリンピックは200mを中心に狙っていくそう。

100mでスピードがついたので、本業のほうも期待が持てる感じだ。


それと、これが世界陸上以後の最大のニュース。

なんと!

水沢さんが写真集を出しました!

むろん、僕も買いました。


「何か、引っ越し祝い贈りますね」


水沢さんが言ったけど、僕は慌てて手を振った。


「いやいいよ、そんなの」


「でも、いつもお世話になってますし、私が頑張れるのは星島さんがいてこそですから」


「だからそれは、水沢さんの実力だってば」


「いいえ。違います」


水沢さんは断言して僕の手をぎゅっと握り、目を覗き込んだ。


「絶対、星島さんのおかげです」


「は、はい…」


いつもの、無限ループだった。


「お待たせ。いきましょう」


しばらく待っていると、寝室から3人が出てきた。


普段、3人とも化粧などほとんどしないのに、今日はばっちり決まっていた。

知香ちゃんも新見もかわいくて素晴らしかったんだけど、やっぱり、こんなふうにいうのはあれだが、ミキちゃんが最高だった。


「わー。村上さん、すごいきれい…」


素直な感想を真帆ちゃんが言って、知香ちゃんにちょんまげをつかまれる。


「あたしらはスルーなわけ?」


知香ちゃんがぐりぐりとちょんまげを引っ張ると、真帆ちゃんは慌ててじたばたとした。


「ピョーッ!お、お二人はわんこ系です!」


「にゃんこと言えば」


水沢さんが表情を明るくする。

誰もにゃんことは言ってないぞ。


「寮に入ったら、毎日、モモちゃんに会えますね」


「自分で飼えばいいのに。にゃんこ」


「うーん。それも考えてるんですけど…」


水沢さんは言葉を濁したけど、きっと飼うことになるだろう。

最近、絹山駅前にできた猫カフェに通っているらしいし。


「さて。行こか」


「はーい」


女性陣の1時間半に対して、僕は5分でぱぱっとスーツに着替えて準備完了。

みんなでマンションを出た。


3月末。

春の風がかすかにミキちゃんの髪をなびかせて、草木の匂いがどこからか漂ってきていた。

なだらかな坂を歩いていって、絹山大学に到着。


駅のほうから続々と人が歩いてくるのが見えた。

時々、見知った顔が見えて、声を掛け合いながら移動。

水沢さん、真帆ちゃん、加奈と学生協前の広場で別れて、僕ら4年生は体育館へ向かった。


卒業式だ。

偉い人の、どうでもいい話を聞く。

それが終わって広場に戻ると、カーテンコールだ。

陸上部の後輩がみんな集まっている。


「卒業おめでとうございます!」


「おめでとうございまーす!」


キャプテンの本間君が一人一人に記念品を手渡す。

ちょんまげ真帆ちゃんも二枚目水沢さんも、ポニーのマネージャー詩織ちゃんも。

高校の後輩織田君も、おべっか金子君も。

金髪宝生さんもそのほかのみんなも、陸上部はみんな笑顔だった。


不思議と涙はなかった。

ほかのサークルには大泣きしている子がいっぱいいるのに。

邪魔なやつらがいなくなると思って、喜んでいるのかもしれない。

まあそういうのは、昨日の納会で発散したしね。


「星島さん、写真一緒に撮ってもらっていいですか」


どこぞの、見たことがない子に言われる。

世界陸上以降、たまにそんなことがあったので、ちょっぴり慣れていた僕は快諾した。

それがまずかったのか、どどっとたくさんの人が集まってくる。


「星島さん、あたしもお願いします!」


「世界陸上、しびれました!」


「サインください!」


「あ、あたしもお願いしとこっと」


「売れるかもしれないしね」


「えー、でも色紙代のほうが高そう」


「だよね、新見さんにしとこ」


「星島のくせに生意気だ!」


「ぶっちゃけ、運がよかっただけだろ」


「死ねばいいのに」


「誰あれ?」


まあ言うほどではない。

全部で20人くらいだったのだが、ちょっとだけ有名人気分を満喫する。


サッカーの日本代表だったら、こんなもんじゃないんだろうなあ。

そう思いながらも大きな花束を2つもらって。

そのほかにもプレゼントをもらって、僕の両手はいっぱいになってしまった。

うれしくて頬を緩めていると、水沢咲希ファンクラブ初代会長、藤崎小春がやってきてネクタイをくれた。


「卒業できるんだ。おめでと」


「あ、ありがと」


実は、冬にみんなで一緒に温泉に行って、何となく和解。

その流れで、ちょっとだけ仲良くなったのだ。


「夏、夏はあれでしょ」


ひそひそと、藤崎小春が密談を持ちかけてくる。


「夏は浅海さんの別荘に行くんでしょ」


「うん。行くと思う」


「あたしも、あたしも!」


「OK。ゴールデンウィークも何かやると思うけど」


「く、詳しく決まったら教えて!」


「了解!」


ぐっと親指を差し出しあう。

何だか妙な関係だが、これはこれでとにかくよかった。

 

しばらくだらだらとしてから、みんなでトラックへ。

新見は僕の10倍ほどのプレゼントをもらっていて、とても一人では持てないので、後輩たちがせっせと運んでいる。

どうやって持って帰るつもりだろう。


「卒業しても、そのへんうろうろすると思うけど」


てくてく歩きながら、新見が笑った。


「なんだ、卒業したと思ったのにまだいるよ、とか思われないかなあ」


「確かに。それはちょっと嫌だ」


「だよね」


「今後はひっそりと生きていこう…」


「あははは。アサミACでもよろしくね」


「あ、うん。こちらこそ」


にこにこしていると、後ろから頭をごつんとやられた。


「ふんっ。調子に乗りやがって」


「ペッ。とにかく腹立つ」


振り返ってみると、後ろで、聡志と十文字が毒づいている。

どちらに殴られたのか分からないが、新しいコンビを結成したようだ。


「お前ら、さっきも何か言ってなかったか」


「知らん」「黙れアホ」


「まあまあ。2人とも、陸上続けるんでしょ」


振り返って新見が言うと、聡志と十文字は顔を見合わせた。


「うん」「まあ一応…」


「じゃあきっとどこかのレースで会えるよ」


「うん」「だといいな」


「あ、2人にも渡しておくね、もう名刺できたから」


「おお、名刺!」「携帯番号とメルアド書いてあるぞ!」


2人は大きく万歳をした。

もっとも、携帯の番号とメールアドレスを知ったからといって、新見とどうにかなるわけでもないだろう。

そんな根性があるなら、チームメイトだった4年間でどうにかしようとしているはず。


「これからもよろしくね」


「よろしく!」「よろしく!」


まあ、夢だけは見させておこう。


「あ、星島君には私用の携帯教えておくね」


「あ?」「え?」「う?」


「そっちは仕事用だから、緊急の用事があるとき以外は連絡しないように」


半分冗談だと思うけど、新見がそういって、聡志と十文字はがっくりと肩を落とした。

夢、終了。


「ミキちゃん、星島がまた浮気しようとしてるよ!」


聡志が注進して、ミキちゃんは振り返って眉を持ち上げた。


「そう…。この際、私も誰かと浮気しようかしら?」


ミキちゃんが言ってぐるりと周りを見回したけど、男性陣は一斉に下を向いた。

残念ながら、立候補者はいないようだった。


「無理無理。村上さんみたいに面倒な人と付き合えるの、日本中で星島さんぐらいです」


詩織ちゃんが言って、ミキちゃんは眉を持ち上げた。


「どういう意味?」


「そのままの意味です。大事にしなきゃ駄目ですよ。大事にしてあげてます?」


「まあ、大事には、してる、つもりだけど…」


珍しくミキちゃんが口ごもる。

そうだ、いいぞ、詩織ちゃん、もっと言ってあげて。


「村上さんは、星島さんに捨てられたらおしまいなんですからね」


「そんなこと、ないと思うけど…」


「そんなことありますよ。誰が好き好んで大魔王なんかと…」


「…なんですって?」


「ひゃっ!」


慌てて宝生さんが水沢さんの後ろに隠れる。

なぜか知香ちゃんもその後ろに隠れる。

その後ろに新見が隠れる。


「何よ。人を危険人物みたいに…」


「村上さん、素晴らしい女性じゃないですか」


と、おべっか金子君。


「ピュアだし美人だし、最高だと思いますよ」


露骨に褒められて、みんなのほうを振り返ったときのミキちゃんのドヤ顔。

まさか、ミキちゃんの顔芸でみんなが笑う日が来るとは思いませんでした。


笑いながら、僕らは陸上競技場のトラックに下りていった。

ホームストレートの中央付近に稲森監督が立っている。

その前に3人の女の子の姿が見えて、誰だろうと思ったけどすぐに分かった。

杏子さんと、千晶さんと、亜由美さんだ。

その中の一人が、僕たちのほうに向かって、ててててっとまっしぐらに駆けてきた。


「きーん」


どすんとぶつかってきてぐりぐりする。

誰なのかは言うまでもないでしょう。


「んー、久々の充電!」


「はいはい。おととい会ったでしょ」


「ご飯いこ!お腹空いた!」


「あいさつ終わってからね」


「早くして。中華がいいかな?中華食べたいよネ?」


「うん…、同意の求め方がおかしくない?」


「じゃ、じゃあ焼き肉でもいいよ。寿司でもイタリアンでもいいけど中華がいいよネ?」


ばたばたと戻っていく。

まったくもう、毎度毎度騒々しいと僕らは苦笑した。


「ま、明日以降もここで練習することにはなるんだろうけど」


さっきの続きを言いながら、新見は芝生の上をかみ締めるように歩いていった。

スーツ姿なので誰もタータンの上は歩かない。

タータンの上を走っていいのは、ジャージ姿のアスリートだけだ。

僕たちにとって、トラックの上はそういうものだ。

聖地みたいなものだと思ってもらっていい。


「気持ちは、ちょっと違うのかな?」


「どうだろ。そうなのかな」


「なんか、複雑…」


新見が、ちょっとだけ泣きそうな顔で笑った。


「あーん。なんかいまさら泣きそう」


「いまさらだなあ。新見は、笑顔がいいと思うよ」


「あ。何それ、告白?」


「いや、違うけど…、違うからね、違うからね!」


慌ててミキちゃんに弁解すると笑いが起きる。

何だか、久々のお約束だった。


「でもあたし、絹山大学に入ってよかった。憧れだったミキちゃんにも会えたし」


新見に告白されて、ミキちゃんはちょっと驚いて、それからすぐに恥ずかしそうにそっぽを向いた。


「うそばっかり」


「ほんとだよ。最初はさ、なんかあれだったけど、今はミキちゃんのこと大好きだし!」


「はっきり言えば。嫌いだったって」


「あははは。だから、今は大好きだってば」


「新見さんが好きなのはご飯でしょう」


「それも、あるけどね!」


「うう…」


黙っていた加奈が苦しそうにお腹を押さえると、ミキちゃんがびしっと指を差した。


「ちょっと。さっき食べたばかりでしょ」


「え、え、ミキさんなんで分かるの?超能力?」


「あははは」


新見沙耶は、太陽のように笑った。

前原加奈は、お腹を押さえたままきょとんとした顔をした。

村上美樹は、わずかに唇を持ち上げて髪を風になびかせた。


3人の、天才スプリンター。


きっと彼女たちが、これからもスプリントの歴史をつむいでいくに違いない。

バトンを受け継ぐ次世代のスプリンターは誰なのか、今はまだようとして知れない。

しかし、少なくともあとしばらくは、僕たちの出番は続いていくだろう。


さあ、いこう。

これからは、延長戦だ。


「やっぱさ、相談したんだけど、焼き肉じゃなくて、中華だよネ?」


歩いていくと、杏子さんが言って、僕らは顔を見合わせて笑った。


「え、何?何笑ってんのさ」


「お祝いしてくれるんでしょ」


「そんで杏子さんは中華が食べたいんでしょ!」


「今日ばかりは、さすがに自分が食べたいのゴリ押しできないみたい」


「すごい!杏子さんでもそんな遠慮するんだ!」


「だけど、どうしても中華が食べたいから、さりげなく中華に誘導しているつもり」


「全然さりげなくないけど」


「ぎこちない女王」


「う、うるさいうるさいうるさーいっ!」


「中華でいいよ。社長のおごりだよね?」


「いえーっ!社長のおごりーっ!」


「社長って言うな!」


「あはははは!」


いつものように。

僕らの笑い声は、絹山大学のトラックの空へと消えていった。


そして、いつものように。

トラックの向こうから、ホームストレートの手前へ。

対角線に薫る風が、僕らを撫でて無限の空へと駆け上がっていった。



                  (完)


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