202話 優しい雨


一瞬、音が消えてしまったかのように僕には思えた。

スタジアムが異様な雰囲気に包まれる中、ベッカーがそのまま1着で入線する。


10秒77。


これで世界陸上3連覇だったが、スタジアムは騒然としていた。

ベッカーが少し驚いたような表情で後ろを振り返り、観客の視線も加奈に向けられた。

日本人初のファイナリストになった加奈は、ゴールラインにたどり着くことなく、80m地点でうずくまったままだった。

 

何が、起こったのか。

信じたくなかった。まるで、夢でも見ているようだった。

 

「加納君」


即座に稲森監督と加納コーチが席を立ち、スタンドを下りていく。


やっと、硬直していた僕らの時間が流れ始めた。

だけど誰も何も言わずに、何ができるでもなく、ただ眼前の事実を見ているだけだった。

水沢さんがぎゅっと僕のひじをつかんでトラックを見下ろしていた。

杏子さんは呆然とした表情で頭を抱え、千晶さんは口元を手で押さえていた。


「肉離れかな…」


本間さんが言って、音が聞こえだす。

 

競技場はまだざわついている。

杏子さんがとすんと椅子に座り、すぐに立ち上がった。

担架が運ばれてきて、加奈はそれに乗せられ運ばれていった。

それを見たベッカーが、大きく両手を挙げて手を叩く。

それで雰囲気が変わって、スタンドから拍手が沸いた。


ベッカーが笑顔を見せ、記者たちが群がる。

僕たちも一応、軽くパチパチと拍手をしたけど、すぐに顔を見合わせた。


「様子、見にいこっか。邪魔かな?」


「分かんない…」


「とりあえず、下行っとこ」


僕たちはスタンドの階段を下って裏口のゲート前に向かった。

おっつけ、ミキちゃんたちも駆けつけてきたが、知香ちゃんですら神妙な面持ちだった。

誰もが言葉少なかった。


ミックスゾーンの慌ただしさとは反対に、静寂で、物悲しい雰囲気だった。

静かに、奇妙に平らな時間が流れていく。

ブリスベンの、午後10時。

しばらく待っていると、スタジアムをあとにする観客が遠くに見え始めた。


熱戦が終わり。

祭りのあとの寂しさのような、そんな感じがそこにはあった。

僕たちの熱い夏が、終わりを迎えようとしていた。


「あ…」


水沢さんがつぶやいて、僕は顔を上げた。

稲森監督やコーチ陣に付き添われて、加奈が出てきた。

松葉杖をついて、背中を丸め、大きい身体をしょんぼりと小さくしている。


「大丈夫?」


真帆ちゃんが近付いていって肩を撫でる。

加奈はちょっとだけ顔を上げて真帆ちゃんを見て、それからまたしょんぼりとした。

ケガは仕方がないところだが、相当、落ち込んでいるらしい。


「肉離れだ。すぐに治る」


加納コーチが言って、みんなほっとする。

肉離れなら、深刻になるようなケガではない。


「まあ、その程度でよかったよ」


「気にしない気にしない」


「次もあるしさ」


「頑張っていこう!」


みんな口々に、加奈に声をかける。

だけどミキちゃんだけいつもの表情で押し黙っていたので、僕はぐいぐいと背中を押した。

驚いたのか、ミキちゃんは振り返ると眉を持ち上げた。


「な、何?」


「何か言ってあげてよ」


「何かって…」


「こないだ言ってたようなこと、言ってあげて」


僕が言うと、ミキちゃんは眉をひそめた。

何かを察したのだろう。

水沢さんが細い目をますます細め、僕にならってミキちゃんの背中を押した。

新見も、笑顔でそれを真似る。

何だか分からないけど楽しそうだと杏子さんも参戦して、ミキちゃんは無理やり加奈の前に押しやられた。


全員の視線が集まり、ミキちゃんは困惑の表情だった。

だけど、何か一言、言わないといけない雰囲気だと察したらしい。

背筋を伸ばしてごほんと咳払いをした。


「えと。頑張ったわね」


それきり、黙る。

終わりらしい。


「もうちょっと、何かあるでしょ!」


杏子さんが言って笑いが起きる。

半分だけ、ミキちゃんは振り返って杏子さんを睨み付けると、また前を向いた。


「結果は、まあ、残念だったけど…」


一言一言、言葉を選びながら言う。


「でも、夢を見させてもらったわ。また世界の舞台で夢を見れるとは思わなかった。だから…、その…、感謝してるわ。ありがとう」


ミキちゃんの言葉に、涙腺が切れたらしい。

加奈は、ぼたぼたと涙を流した。

大きな目から、これでもかという大粒の涙だった。


「ごめんなさぁい…」


泣いて、袖で拭って、また泣く。


「メダルとれると思ったのに…、村上さんのぶんまで頑張ろうと思ったのに、ごめんなさぁい…」


大きな口を開けて。

鼻水まで流して。

加奈は恥も外聞もなく、子どもみたいにわんわんと泣いた。


ミキちゃんはバッグを開けて、ハンカチを取り出して加奈に手渡したけど、自分の頬を伝うものを拭おうとはしなかった。


「何よ、もう」


かすれる声で言って、ようやく、自分の涙を拭う。

ミキちゃんの表情は、憑き物が落ちたかのようだった。


「何よ。殊勝なこと言わないでよね…」


「ごめんなさぁい。村上さん、ごめんなさぁい…」


そして二人は、ぎゅっと抱きしめあった。

さまざまなものが柔らかく溶けていって、ブリスベンの夜空が、優しい涙雨を流し始めていた。

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