201話 女子100m決勝


いくつかミートパイを買って、スタンドに戻る。

席に座り、試しに一個食べてみたけど、本当に美味しかった。

ただしこれ、一個2ドル75セントするのでちょっとお高い。

まあ、お金は全部杏子さんが出したんだけどね。


いつもいつもありがとうございます…。


「飽きた。もういいや」


さっき1個食べたのでお腹がいっぱいになったらしい。

杏子さんは半分食べて、残りを僕の口の押し込んでくる。

それで、今度はちゃんとハンカチで手と唇を拭いて、スポーツドリンクを飲み、腕時計を見て、それでやっと大人しくなって競技を観戦し始めた。

 

トラックの上では、男子砲丸投げと男子400mの準決勝が行われていた。


「むい…」


しばらく見ていると、後ろの席で後藤さんが唸った。

眠いのか、目がとろんとしていて、はわわと大きく欠伸をする。


「あーねむ。夕べあんま寝てねえからなあ」


「誰も聞いてないよ、そんなこと」


即座に杏子さんに言われて、後藤さんはがくっと頭を垂らした。


「そんな言い方しなくても…」


「あらごめんなさい。ゴリラの生態には興味がなくって」


「ウホッ!夕べ一緒に飲んだろ!」


「そだっけ」


騒いでいるうちに、刻々と、時間が迫ってくる。


スタジアムの雰囲気がどんどん濃密になっていく。

女子400mのファイナル、男子110mハードル決勝とプログラムは進行。

サブトラックで加奈についていた稲森監督と加納コーチが戻ってきて、僕は時計を見た。

21時35分。

あと10分だった。


「出てきましたね」


水沢さんが言って、視線を送ると決勝のメンバーが通路から出てきていた。


例によってキーパーの格好で、加奈がずんずんと歩いてくる。

いったん、ゴール地点の後ろのほうに座る。

分厚い手袋なので開けにくそうにバッグを開け、スポーツドリンクを取り出す。

ちょっとだけ飲んで、またバッグにしまう。

ここからは表情はうかがえないが、準決勝と同じくらい、リラックスしているようだ。


「うー」


杏子さんが唸ってゆさゆさと身体を揺らす。

係員が、ハードルを台車に積んでガチャガチャとトラックの外に運んでいく。

そして、ついに、女子100mのファイナリストたちがトラックの上に姿を現した。


拍手と歓声が、ブリスベングリーンヒルスタジアムを包み込む。


見ているほうが緊張してしまって、のどが張り付いてしまう感覚を覚えた。

水沢さんがぎゅっと僕のひじをつかんで、僕と視線が合うと、無言でうなずいてみせた。

場内アナウンスが、早口で女子100mの決勝が始まることをまくし立てる。

スタジアムのボルテージはいやがおうにも高まっていった。


「うむーん」


スタート地点と、電光掲示板と、僕はせわしなく視線を動かした。


いよいよ、世界一のスプリンターが決まる時がやってきた。


選手たちがそれぞれのレーンに出て、スターティングブロックの調整を始める。

4レーンに前原加奈、21歳。

そして、5レーンに女王クリスティアーネ・ベッカー、26歳。

油の乗っている女王に、突如現れたニューヒロインがどう戦うか。

決勝では一体どんな戦いを見せてくれるか、世界中が目を向けている。


ベッカーは加奈をどう見ているのか、視線は絡み合わない。

女王は淡々と、世界陸上3連覇、オリンピックも含めると世界大会4連勝に向けて準備を進めている。

今回も、磐石といったところだろうか。

しかし、隣に不気味な存在がいる。

勝負は、持ちタイムで決まるとは限らない。

加奈を意識して、硬くなってくれたら、あるいは…?


「よいしょっと」


後ろから声がして、振り向くと新見だった。

サブトラックから戻ってきたのだ。


「どう?リラックスしてる?」


「うーん。分かんないけどたぶん」


「そか。じゃあ大丈夫だね」


日本人として初めての、女子スプリントの決勝。

それに乗っかってきた選手に対して失礼かもしれないが、本当、加奈ほど見ていてハラハラする選手もいない。

しかし、ゴールキーパー風の帽子と手袋を外した加奈の表情は、ものすごく凛としていた。

もう、「わちゃっ」とか言っていた少女の面影はどこにもなかった。


「いいね」


「そうだね」


新見と小声でささやきあう。

選手が、ジャージを脱ぐ。

かごにジャージを入れて、腰にレーン番号のシールを貼る。


さあ、もう間もなくだ。

あとはただ、見守ろう。


「うー…」


杏子さんが唸っているほかは、日本チームは奇妙に無言だった。


選手紹介が始まる。

ああ、もうファイナルが始まるのだ。

早く見たいような、いつまでも見たくないような、そんな感じだった。


「カナ・メーハルルァーッ、ジャペェァーンッ!」


大歓声。

スタジアム全体が、大歓声だった。

加奈は軽く手を挙げてちょっとだけ笑ったが、すぐにきりりと顔を引き締めた。

準決勝の走りができれば、メダルに手が届く。

果たしてどうか。


「クリスティアーネ・ベッカーッ、ジャッメーイカッ!」


また大歓声。

この、大歓声と、興奮。

ファイナルなのだと思った。

もうすぐ、世界一が、決まるのだ。


選手紹介が終わり、スタジアムが徐々に静寂に包まれていく。

観客も含めた全員でつくり上げていく、興奮の中の緊張感。

その中心で、8人のファイナリストたちがその瞬間を待っていた。




「on your mark」




21時45分。


何度も繰り返されてきたコールが、ついに、女子100m決勝でも発せられた。


選手たちがゆっくりとスタートラインに歩み寄る。

加奈がまず、大柄な身体を動かして、スターティングブロックにゆったりと足を乗せる。

ベッカーは軽く肩を動かしてから、引き締まった肉体でその準備を終える。

小さな風がトラックの上に吹いて、選手たちの髪をかすかに揺らしている。


静寂に支配された、ダークブルーのタータン。


小柄な係員が選手たちの手の位置をチェックして、スターターに合図を送る。

始まる。

始まる…!



「set」




号砲。

大歓声。

花火のようなフラッシュ。

それがほぼ同時だった。


スタジアム全体が一気に燃焼する。

 

得意の、電撃スタート。

耳をつんざくような声援の中、世界一の称号に誰よりも速く近付いたのは、加奈だった。

弾丸のように前に出ると、ベッカーを置いて前に出る。


僕らはもう全員、立ち上がっていた。

杏子さんが抱き付いて何か叫んでいたけど、よく分からなかった。

圧倒的な、パワー。

ダスンとタータンを蹴り上げて、反動で巨体が前に進む。

ぐわっと腕を振ると、反作用的に反対の脚が持ち上がる。

1つの動作を行うたびに、ぐいっぐいっとスピードが上がる。


「いっけえええええっ!」


日本チームが沸く。

序盤は、完璧に加奈のレースだった。

しかし、このままいけるかと思った刹那、飛ぶように女王がやってきた。


百戦錬磨。


焦ることなく、加速区間でスピードに乗ると、加奈との差をじりじりと詰めていく。

前のほうで加納コーチが何か叫んでいた。

しかし加奈も懸命で、脚色に差はない。

ベッカーがどうのというわけではなく、前をいく加奈の走りがよかった。


それでも、1mほどあった差が徐々になくなっていく。

両者が肩を並べたのは50m過ぎだった。

10mほど、そのまま並走が続く。

トップスピードでは両者互角といってもよかった。


「まえはらああああああっ!」


「ピョーッ!!」


残り、50m。

勝敗の行方は、後半のスピード維持にあると思われた。

前半、もっとリードが奪えたらよかったかもしれない。

後半はさすがにベッカーのほうが強いか。

そんなふうに思った、そのときだった。



「…っ!」



その瞬間。

誰もが、言葉を呑んだ。

そこだけが、加奈の姿だけが、まるでスローモーションで切り取られたかのように見えた。


ほんのちょっと、加奈の身体が上下にぶれたかと思うと、右足が大きく流れた。

身体が大きく跳ねて、つんのめるようにして何歩か進む。

そしてそのまま、加奈は慣性に耐え切れなくなって、ズデンと前に倒れ込んだ。


9月の風が、加奈のふわふわの髪を静かに撫でていた。

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