155話 フィジカルモンスター


ノックをして、ドアを開けて加奈が顔を出す。

その後ろから、にゅっと顔を出したのは、前キャプテンの十文字だった。

珍しい組み合わせだ。


「前原に、幅跳びやらせてみていい?」


十文字が言う。

許可を取りにきたらしい。

十文字はかつて跳躍系もたしなんでいた男なのだ。


「許可とらないとダメだって言うからさ」


「ダメですよね?」


恐る恐る加奈が尋ねる。


「前原さ、タッパあるし向いてると思うんだよ」


「ケガしたら大変だし」


「パワーもスピードもあるしさ」


「もうすぐグランプリもあるんですけど」


「ちょっとだけやらせていい?」


「ちょっとだけやってみていいですか?」


なかなかいいコンビネーションだ。

ミキちゃんは、少し考えているふうだった。


「監督には?」


「聞いたら、村上に聞けって言われた」


「ふうん…」


ずいぶん、信頼されているものだ。

しばらく、ミキちゃんは思案顔だったけど、十分注意してやるぶんには幅跳びぐらいならいいだろう、そんなふうに考えたのか、条件付けで許した。


「きっちりアップをして、ケガに注意してやること」


「はい!」


「了解!」


十文字と加奈がばたばたと戻っていく。

静寂が戻ると、くりんと新見が振り向いた。

ものすごく目がきらきらしていた。


「見に行かない?」


気になるらしい。

新見はミキちゃんにひざで詰め寄った。


「ちゃんと見ててあげないと、ケガするかも!」


「フォームチェックは?」


「練習終わって…、あ、ミキちゃんちでご飯食べてから!」


途中で思い付いて、新見は満面の笑みを浮かべた。

ミキちゃんは呆れた表情をして、それから僕を見て、また新見を見て突き放した。


「また?」


「いいじゃん、ねえ、ねえ、ねえ!」


「今晩はカップラーメンの予定だけど」


「あーん。そんなこと言わないでよう」


やいやい言いながら、3人で階段を下りていってアップに合流する。


すぐに始めるのかと思ったら、加奈はちゃんと短距離ブロックの全体練習をこなした。

しかも、いたって真面目な顔で。

最近は、練習に集中できているみたい。

何というか、ミキちゃんの教育が行き届いていると思った。

十分、後輩の手本になれてる感じ。


「よーし、やろやろ」


その後、十文字の号令で走り幅跳びのピットに移動。


当然、専門的な技術が簡単に身に付くはずもない。

とりあえず、助走から踏み切るところまでの練習を何本かしただけだ。

見物人が何人も集まってくる。

自分の専門分野だけに、稲森監督も腕組みをして見守っていた。


「じゃ、いきまーす」


軽く手を上げて、加奈が助走を切る。

 

短距離と幅跳びの助走とは、大差ないのか似て非なるものか。

僕にはよく分からないけど、とにかくスピードはすごかった。

イノシシのように走ってきて、踏み切り板のだいぶ前でばすんと踏み切る。

びゅーんと低い弾道で跳んでいって、中腰で着地して最後にべちゃっと前に倒れ込む。

 

まるでヘッドスライディングしたみたいになって、加奈はがばっと顔を上げた。


「うえーっ。ぺっぺっぺっ」


砂が口の中に入ったらしい。


「アサリみたいになったあ」


笑いが起こったけど、それは、詩織ちゃんと悠子ちゃんが記録を計るまでだった。


「6m55ですかね」


詩織ちゃんが言って、周囲の笑いがとまった。

本人は何も気付かずにまだぺっぺとやっている。

これは明らかに、幅跳びのほうが世界に近かった。

この場合の世界というのは、つまり、金メダル争いという意味だ。


「あ、悠子ちゃん、そこからじゃない」


しかし、すぐに十文字が訂正する。

どうやら、踏み切った場所から計っていたらしい。

跳躍種目は、踏切バーから計るのだ。


「踏み切り板の前から。そう、そこ、垂直に」


十文字が手で左を示して、きちんと、正確な位置から計り直す。


「6m02」


「そうだろ。いきなりそんな跳べるわけねえよ」


なぜか、勝ち誇るように十文字が笑った。

女子走幅跳の現在の日本記録は6m80だ。

7m跳べば、世界大会で金メダルが狙える。

初心者がいきなり6m55も跳べるわけがないのだ。

だけどすぐに、十文字が首をひねった。


「うん?でも跳んだことは跳んだ?」


正式に計れば6m02だ。それは間違いない。

だけど、実測で6m55の跳躍をしたことも確かなのだ。

踏み切りが合っていれば…。


「前原、もっぺん跳べ、もっぺん!」


それに気付いて、慌てて右手で助走路を示す。


「そんで、もうちょい高く跳んでみろ!」


「高く?」


「気持ち、高く!」


「気持ち高く?」


「そうだ!」


「ハイテンションでってこと?」


「いや…、気持ち…、えーい、そうだ!ハイテンションでぶわーっといけ!」


「イエーイ!」


踊りながらバタバタとジャージの砂を落とし、加奈が助走路に戻っていく。

それから、またものすごい勢いで走ってくる。

注目の踏み切りは、板の15センチぐらい手前。

今度は少し高い跳躍か、しかしまた中腰で着地する。


つんのめりながらも、加奈はうさぎ跳びをするみたいに前にびよんと跳んだ。

踏切が甘い。

それに、無駄の多過ぎる着地だ。


「あはは。今度はべちゃってならなかった」


笑っているのは、加奈だけだった。

悠子ちゃんと詩織ちゃんがメジャーで計測する。

気になったのか、十文字が砂場まで歩いていって詩織ちゃんの手元を覗き込んだ。


「6m52です」


いたって冷静に詩織ちゃんが読み上げる。

ちなみに、今年の日本選手権の優勝記録が6m50くらいだったはずだ。


「うおーい!うおい!幅跳びやろうぜ幅跳び!」


十文字が興奮気味に肩を揺さぶって、加奈の頭ががくがくと揺れた。


「はわわ!」


「金とれるぞ、オリンピックで金!」


「はわわわっ」


「ちょっと練習したら7mいけるぞ!」


「はにわわわわわわわわ…」


十文字が興奮するのも無理はない。

誰が見たって、潜在能力が高過ぎるのだ。


見ていたギャラリーは驚くやら呆れるやらだったが、稲森監督は無言だった。

軽く帽子をかぶりなおすと、ミキちゃんにひそひそ耳打ちをする。・

それで、何も言わずにくるりと背を向けて戻っていった。


「はい。今日はここまで」


ミキちゃんが手を叩いて、十文字が悲しそうな顔をする。


「え、なんで?」


「今シーズンは100m一本。いいわね」


「でも…」


「でも?」


「いえ。何でもありません…」


ミキちゃんににらまれて、十文字の心は折れた。

だがとにかく、加奈はまた新たな可能性を示してくれた。

それがものすごく楽しみであり、一方では無性に悔しかった。

僕がもがいている泥沼の中で、一見、のろまそうな亀が優雅にすいすいと泳いでいる。そんな悔しさだった。

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