146話 でも実際は船酔いしそう


1時間ほどたって、真帆ちゃんと加奈がアップに出かけていく。

女子100mは、今日、最終種目で決勝が行われる。

どうにか頑張ってほしいところだ。


しばらく見ていると、トラック上に女子400mの選手が現れる。

決勝だ。

世界選手権の代表を決める、重要な一戦である。


「杏子さーん」


新見と知香ちゃんがそろって声援を送る。

選手紹介が始まって、杏子さんはいつものようにスタンドに投げキッスをした。

足をにゅっと伸ばし、ユニフォームのパンツをちらっとまくる仕種をしてみせる。

実際はまくっていないんだけど、セクシーなファンサービスに大いにスタンドが沸いた。


「まったくもう…」


ミキちゃんがあきれたようにつぶやく。


ライバルは、ライテックス所属の小林由紀。

現日本記録保持者だ。

それから、辰川体育大学の須田果歩。

ミキちゃんの中学時代の知り合いで、成長著しい。

ベテランの小林由紀に対して、中堅の杏子さん、若手の須田果歩といった構図だ。


大事なのは、ここで勝つことだ。

そうすれば杏子さんも世界に近付く。


 

「on your mark」



すぐに時間が来て、スターターの合図で選手がいっせいにスタートラインに付く。

今さらだけど、大きな大会ではスタートの合図は英語で統一されている。

世界的に、そう。

アジアでもアフリカでも中東でも、英語での合図となる。


「set」



号砲と同時に、杏子さんはものすごいスピードで飛び出した。

 

100mと間違えてるんじゃないかという勢いで、一気にコーナーを抜けていく。

第1コーナーで早くもリードを奪って、第2コーナーからバックストレート。

向こう正面に入ったときには、早くも大きくリードを奪っていた。


大きな歓声。


そのまま突っ走って、バックストレートを快走する。

小林由紀が後ろに置き去りにされて、6レーン選手に並びかける。

もう、杏子さんが一人で走っているような状況になった。


「あらららら、あららあ…」


今までも同じようなパターンだったけど、今日は、いくら何でも速すぎる。

残り200mの時点で、杏子さんの前には誰もいなかった。


だけど、カーブでインコーナーを利して小林由紀が迫ってくる。

さらにはその内側から、辰川体育大学の須田果歩も追ってきた。

内に小林、外に須田。

どうか、3人の争いか。

最終コーナー、抜けてきた。

いや、まだ杏子さんが先頭だ。


「果歩がんばーっ!」


辰川体育大学のチームメイトから声がかかる。


杏子さんが先頭で直線を向いて、残り100m。

インの小林由紀との差はまだ5mある。

スタンドから拍手が起こり、その中を杏子さんは駆け抜けた。

小林由紀が徐々に詰めてくるが、杏子さんの粘りがいい。

外側から、後半型の須田果歩が一気に追い込んでくる。

小林由紀を抜いた。

残り50m、その勢いで先頭をうかがうが、これはもう届きそうにない。


さすがに最後の10mはちょっとばてたけど、杏子さんが悠々と逃げ切り勝ち。

タイムも、52秒11だから完勝だった。


「やったーっ!」


「やった!」


僕たちも喜んで拍手をする。


大きく、天を仰いで息を整えると、杏子さんはスタンドに向かって手を振った。

それから調子に乗って何度も投げキスをして、小林由紀に背中を叩かれて笑った。


しばらくたって、勝利者インタビューが始まる。

何をしゃべるのかなと思っていたんだけど、枕詞のように、次の試合は日本スーパーグランプリなので、次の試合は日本スーパーグランプリなのでと連呼する。

そして最後には、写真集もうすぐ発売なので買ってくださあい、と堂々と宣伝をした。

生中継なので、カットするわけにもいかない。


僕の前の席で、知香ちゃんが変なポーズをして喜んでいた。

ナニワのあきんどの指示らしかった。




「やー。怒られた怒られた」


しばらくして。

スタンドに現れた杏子さんは、みんなに祝福を受けながら、開口一番そんなことを言った。


「さすがに国営放送で写真集はまずかった。グランプリの宣伝だけにしとけばよかった」


言いながら、聡志を押し退けて僕の横に座り、頭をぐりぐりとこすりつけてくる。

周囲の視線をものともせず、まるでマーキングみたいだ。


「んー、充電!」


「世界陸上、出れそうですね」


「出るさ。星島は出れそう?」


「うー…」


一応、状況を説明する。

聞いているのか聞いていないのか。

杏子さんはずっとぐりぐりしていたけど、最後にぱっと顔を上げた。


「ま、あと1カ月あるんだから、何とかなるでしょ。いっこでも上狙ってきな」


「おお」


異口同音、ミキちゃんと同じことを言う。

ミキちゃんを見ると、当然といわんばかりの顔でうなずいている。

そんなふうに言われると、そうだよなあと思ってしまうのが単純王星島のいいところだ。


「オーストラリア、楽しみだなあ。まだ行ったことないんだよね。ブリスベンって、ゴールドコーストのすぐ近くだし。世界陸上終わってから、何日かゆっくり過ごそうっと」


と、杏子さん。


「ほほう。でも向こうって、冬じゃない…?」


「全然寒くないし、泳がないからいいの。でっかいクルーザーに乗ってぴゃーっと沖に出て釣りをする」


ぴゃーっと、のセリフのところで、杏子さんは指を目の前から天へと指し示してみせた。

高い空にきれいな海。

その中で釣りなんかしたら気分壮快に違いない。

僕も何か、日本では釣れそうもないでっかい魚を釣ってみたい。

釣れなくてもいろいろ楽しそうだ。

僕は海外なんか行ったことがないので、想像しただけでものすごくわくわくする。


「おれも、ゴールドコーストで遊びたい!」


「みーんな同じこと考えてると思うけどね」


杏子さんが際限なく頭を撫でてくる。

激励のつもりだろうか。


「おれもクルーザー乗りたい…」


「川下りもいいね。でっかいボートで」


「おお。楽しそう」


「朝早く起きてさ、こう、天気いい日に運河沿いでも散歩してさ」


「おお」


ぼんやりとイメージする。


カメラも観光地も要らぬ。

異国の空気と町並みを、肌で感じながら散歩するのだ。


「そんで、帰ってきて朝ごはん食べて。サンドイッチにアボガドとか挟んでさ。フルーツいっぱい並べて、キンキンに冷えたアイスコーヒー飲んで」


「おお…」


「あとは、日光浴しながらビールだね。そんで、日のあたるソファーかなんかで、ぐでーっと昼寝」


「おお…!」


想像しただけで、魂が解放されてどこかに行ってしまいそうだ。

これは是が非でも、世界陸上への切符を手に入れねばらぬと思った。


何日かゆっくり過ごすためのお金は、まあ、どうにかしないといけませんけどね…。


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