144話 男子100m予選


日本選手権2日目の土曜日。

夕べ、どうにかミキちゃんの機嫌が直って安心した僕は、誰よりも早くアップを始めた。


曇り空の、どんよりとしたサブトラック。

涼しくていいけど、雨が心配だ。

昼過ぎから、男子100mの予選がある。

それまでは降らないで欲しいところだ。


あとから来た本間君は、また一人でアップをしていた。

男子400mの予選に出る聡志と一緒に、僕は丹念にストレッチをした。


「400m終わったら、女子800mがあるから、それ見てから飯行こうぜ」


聡志はうれしそうに言う。

まだ、女子800mの若き女王、本多由佳里に未練があるらしい。

もっともまだ出会ってもいないけど。


「思い切って声かけてみればいいのに」


「うるさいな。いいんだよ、本多由佳里の太ももが見れれば!」


「変態だな」


「何がだよ!」


聡志がぷんぷんと怒る。


「好きな子の太もも見て興奮して、おかしいか?おかしいのか?」


「そう言われてみると…、確かに、別におかしくはない」


「だろ?おれは、正しい!」


「でも、気持ち悪いのは間違いない」


「くーっ…!」


男子100m予選は、3組で、2着プラス2。

今年は、参加人数が少ないので準決勝が行われない。

予選と決勝だけ。

メンバーもそろったし、世界陸上どころか、決勝に進出するのも難しそうだ。


1組に、インカレ4連覇の同世代最強スプリンター、後藤俊介。

後藤俊介は既にA標準を突破している。

それと、世界ジュニア銅メダルの若きホープ、本間秀二。

さらには、世界大会の常連、土井恒星。


2組には、日本歴代2位の記録を持つ玉城豊。

玉城豊は戸田記念で、今期日本最高の10秒08をマークした。

さらには関カレを連覇した浅田次郎もいる。

絹大の元キャプテンの柏木和文、おまけで高柳智之。


僕の入っている3組には、日本記録保持者の本間隆一がいる。

加えて注目なのが、東都大学に入った武藤清春。

名門、埼玉星明高校出身で、スーパー高校生と騒がれていた選手だ。

絹大の先輩、荒川陽次もいる。


こう見ると、3組が一番楽なのかもしれないが、レコードホルダーと一緒。

厳しいレースになるのは間違いない。

2着プラス2なので、全員本気で来るだろう。


とにかく、日本のトップとガチンコ勝負だ。


「予選から、B標準狙いでばんばん行くしかないなあ」


僕が言うと、聡志が大きくうなずいた。


「おれもいくぜ。ばんばん!」


「え。聡志も世界陸上狙ってんの?」


「当然だろ。一緒に代表チームに入れたら、何が起こるか分からないじゃん!」


聡志は鼻息を荒くして言った。

みんな、バカにするかもしれないけど立派だと思う。

信じていないと、夢はかなわないのだ!


ま、だからといって、人間は空を飛べませんけどね。


「いいかしら」


「うん」


時間が来て、ミキちゃんと一緒に招集所に向かう。

招集を完了して、荒川さんと柏木さん、高柳さんと少しだけしゃべった。

それでまたサブトラックに戻る。

最終組なので、出番までまだ30分くらいある。


「調子どう?」


身体を温めていると、ミキちゃんがスポーツドリンクをくれた。

もちろん常温のスポーツドリンクだ。


「悪くないかな。いい感じで動いてると思う」


「それならまあ予定どおりね」


あのメンバーの中から、最大で3人しか、世界陸上の代表には選ばれない。

正直、かなりきついと思う。

だけど、最後の最後まで何があるかは分からない。

とりあえず、この日本選手権はきっちりびしっと走りきりたい。


まずは、決勝進出。

A標準か、B標準を出しての3位以内。

どちらか、ばしっと決めたいところだ。


「そろそろ、時間じゃない」


「うん。行こう」


ミキちゃんと一緒に行って、ぱしんと背中を叩かれて戦いの舞台へ。


体を動かしながら、少しその場で待機する。

係員に誘導されてトラックの中に入る。

ちょうど、2組が終わったところだった。

シューズを脱いでスパイクをはき、ひもを締める。


電光掲示板に、2組の結果が表示されていく。

1着が玉城豊で10秒11。やっぱり速い。

2着が浅田次郎。

柏木さんが3着、高柳さんは5着だった。

タイム的に、玉城豊は決勝で3着に入れば代表は間違いなさそう。


(よし)


出番だ。


4レーンに出て、スターティングブロックを調整する。

3レーンに武藤清春。

荒川さんが7レーン。

そして5レーンが、初対戦、日本記録保持者の本間隆一。


意識していたわけではないけど、何となく気になって何度かちらちらと盗み見た。

だけど、本間隆一はひょうひょうとした様子で、僕のほうなど一度も見ようとしなかった。



「on your mark」



選手紹介も終わり、あっという間に、時間だった。


曇り空、微風。

コンディションはまずまずだ。

明日、雨が降るかもしれないし、向かい風に悩まされるかもしれない。

ラストチャンスと思って一本一本大事にいきたいところだ。



「set」



電子音と同時に飛び出して、僕はぎょっとした。

スタートはほぼ同時だったが、本間隆一が、ものすごい勢いで加速していったからだ。


あっという間に差が広がって、2mほどの差がついてしまう。

足にエンジンでも付いているんじゃないかと思った。

そのぐらいの速さで、とてもじゃないけどついていけなかった。


しかし、50m付近からは差が開くこともなく、逆にじりじりと差が狭まってくる。

もともと僕は後半型だし、悪くない走りだと自分でも思った。

身体もまずまず動いてくれる。

落ち着いて差を詰めていきたいところだったが、逆転するまでには至らず。

結果、1m弱の差が空いた状態でゴールした。


息を整えながらゴール地点に戻ってくると、本間隆一が僕に手を伸ばしてきた。

速報タイムは10秒14。


「お疲れさん」


「あ、どうも」


軽く握手をする。

カメラを避けて戻っていって、僕はスパイクを脱ぎながら電光掲示板に注目した。


「あー、4着かなあ」


荒川さんがぼやく。


「ちゃー、武藤はともかく星島ごときにやられたか」


ちらりと武藤を見ると、不満そうな顔だった。

ま、星島ごときに負けてるんだから、大したことないな、スーパー高校生!


少し待っていると、電光掲示板に結果が出る。

荒川さんが4着で、武藤清春が3着。

僕は2着で、タイムは10秒24だった。

 

2度目の10秒2台。そして自己ベストだ。

同時にB標準も突破したので、状況がより明確になった。

つまり、この日本選手権で3着以内。

それで、100mの代表に選ばれる可能性が見えてきた。


ただ、ライバルがいる中での話なので、そう簡単に図面どおりにはいくまい。

相変わらず、非常に厳しい状況には変わりがないのだった。

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