143話 挑戦者たち


しばらくおしゃべりをして、あとは邪魔をしないようにスタンドに戻ることにする。


何か飲み物を買おうかなと思って無意味にふらふらしていると、水沢さんを発見した。

サブトラックの手前、フェンスのところでキョロキョロと誰かを探している。


「あ」


「あ」


お互いが、同時に気付いた。


微笑を浮かべながら、水沢さんは軽く駆けてきた。

背負っていたバッグをアスファルトの上に置き、僕の胸にそっと手を添える。

ドクンと脈打った心音が伝わったかもしれない。


「よかった。いなくなったのかと思った」


「あ、うん。何か飲み物買おうと思って」


「ごめんなさい、時間がないので、お願いします」


木陰に移動して、例によって充電。


アップをしていたからか、水沢さんの身体はいつもより温かくて柔らかく思えた。

風になびく髪が軽く僕の鼻をくすぐって、僕は大きく呼吸をした。

気のせいか、呼吸と鼓動が水沢さんと一つになっているように感じられた。

しばらくの間、いつものように水沢さんは精神を集中させていた。


1分か2分か、そのくらいたってふっと顔を上げる。

凛とした表情だった。

もうあのころとは違う、自信に満ちあふれた表情だった。


「これで、大丈夫」


「うん。頑張って」


「はい。いってきます」


「いってらっしゃい」


「いってらっしゃい…」


水沢さんが僕の後ろに視線をやって、微笑を浮かべて会釈してから歩いていく。


声が聞こえたし、見たくはなかった。

そのままどこかに消えたかったけど、そうもいかないので、僕はギギギと振り返った。

ミキちゃんが、それはそれはとても不機嫌そうな表情で、ずーんと仁王立ちしていた。


「いつもいつも、仲がよろしくてうらやましいわ」


「いや…」


トイレから戻ってきた聡志が向こうから歩いてきて、僕らを見てぴたりと止まった。

反対側なので、ミキちゃんの顔は見えないはずなのだが、何かを感じたらしい。


半円を描くように、すすすとカニみたいに横歩きする。

斜め後ろからミキちゃんの表情を確認。

眉毛の角度を見ると、くるりと背を向けてスタンドに逃げていった。

なかなかに素晴らしい危機管理能力だった。


「来なさい」


「ハイ…」


首根っこをつかまれるようなイメージで、ミキちゃんと一緒にスタンドに戻る。


聡志たちのところに戻ると、女子110mハードルの予選が終わったところだった。

すぐに女子400mの選手が出てきて、杏子さんの姿も見える。

アサミACの白いジャージが眩しかった。


すぐに、スタート。

予選だが、杏子さんは前半から積極的に飛ばしていく。


「おお。がんがん行くなあ」


聡志が手を叩いた。

女子400m予選は3組2着プラス2だが、杏子さんにとっては楽勝だ。

しかし、中盤で勝負が決したあとも、杏子さんはタイム狙いで走りきった。

結果は、B標準を突破する52秒09の自己ベスト。

人数こそ少ないが、陸上をよく知っている観客で埋まるスタンドが大きく沸いた。


杏子さんはタイムを確認して、軽くガッツポーズをするとスタンドに大きく手を振った。

会心の笑みだった。


「すげ。さすが!」


織田君が感嘆の声を上げて、おべっか金子がうなずいた。


「さすがだなあ。決めるとこ、きっちり決めてきますねえ」


「だよな」


「普段はちゃらんぽらんな人なのに」


「うん…」


織田君と金子君が解説してくれたけど、面倒くさがりなんだと思う。


料理だって得意だし、グランプリ関係でも一生懸命動いている。

僕には考えられないくらいの行動力があるくせに、普段は人に任せっぱなしだ。

要するに、必要がなければ自分では何もしない人なのだ。


「さあ、今度は走り高跳びだ」


聡志が立ち上がってミキちゃんを見る。


「移動しますよね…?」


敬語だった。

戻ってきてから、目隠しされた鳥みたいになっている僕に気付いたらしい。

素晴らしい、危機管理能力だった。


みんなでぞろぞろ、高跳びのピットの前に移動する。

金曜日なのでスタンドは空いていたけど、高跳びの前はかなり混雑していた。

最前列には、例によって藤崎グループが並んでいる。

その中にはもちろん藤崎小春もいたけど、僕の顔を見てちょっとだけ頭を下げてくれた。


何だか、うれしい。

ちょっとだけ、元気が回復したぞ。

調子に乗って手を振ってみると、藤崎小春は変な顔をしてぷいっとそっぽを向いた。

思わず隣を見て、ミキちゃんと目が合って気付く。

僕じゃなくて、ミキちゃんに頭を下げたらしい。

あまりにも恥ずかしくて、まさしく、穴があったら入りたかった。


「よーしっ」


女子走り高跳びは水沢さんの圧勝だった。


183センチで、早々に日本選手権初優勝を決める。

次に188センチ、193センチとクリアした。

まさに、独り舞台。

ステージで、水沢さんは美しく輝いていた。

素晴らしいパフォーマンスに、スタジアムのボルテージも上がっていく。

次の高さに注目が集まる中、バーの高さが発表されて、それだけで観客は大きく沸いた。


日本記録の197センチを上回る、2m。

これは、男子100mの9秒台、女子100mの10秒台と同じくらいに大きな壁だ。

2mを超えると、あとはもう世界記録まで9センチしかない。

常時、2mを跳べるジャンパーになれば世界のトップと言えるだろう。

そのくらいの高さだ。


「あーっ…」


結果だけいえば、水沢さんはクリアできなかった。

しかし、3回とも惜しい跳躍だった。

特に3回目は、ふくらはぎが引っかかっただけであと一歩のところだった。


だけど本人は、満足そうな顔で手を振った。

スタンドの観客たちは、黄色い声援と大きな拍手で水沢さんのチャレンジを讃えた。

たぶん、今日のスポーツニュースで大きく取り上げられるだろう。


「さあ、今度は男子200mだ」


聡志が立ち上がってミキちゃんを見る。


「移動は、どうします…?」


「なんでいちいち私に聞くのよ」


「す、すいません…」


すまん、聡志…。


男子200mは、本間君と十文字が予選突破。

そして、女子100mの選手が出てきて、会場の雰囲気ががらりと変わった。

今、日本の陸上シーンで一番面白いのは、なんだかんだいって女子100mだからだ。


「おー、出てきた出てきた」


当たり前のことを聡志が言ったけど、第1組に加奈が姿を現した。


一応、去年のインカレチャンピオン。

春先に記録会で11秒37をマークしており、B標準は突破している。

ライバル不在で運良くインカレチャンプにはなったが、実績としてはそれだけだ。

そのほかの大会では、メンタルの問題で惨敗街道まっしぐら中。

今回はどうかというところ。


今年は世界選手権だし、来年はオリンピックイヤーだ。

ここ2年が、加奈にとって大きな年になるだろう。


「加奈ちゃん、大丈夫かなあ。大丈夫かな?」


「予選は大丈夫だと思うけど…」


聡志に聞かれて、ミキちゃんが珍しく言葉を濁す。


「あの性格で、どうして緊張するのかしら」


「そうなんだよねえ」


女子100m予選、3組で2着プラス2。

スタートリストによると、加奈は1組、千晶さんが2組。

去年の覇者ライテックスの山本幸恵と真帆ちゃんが3組に登場する。


新見沙耶は、残念ながら、日本選手権の参加標準記録を突破できなかった。

戸田記念のあと2本のレースにエントリーしたのだが、片方は向かい風3.3m。

もう片方は、なんと向かい風6.2m。

誰かが呪いをかけたかのように大風が吹いて、タイムが出なかった。

これで、新見が今年の世界陸上に出場できる可能性はゼロになってしまった…。


「とにかく、前原さんと宮本さんに頑張ってもらわないと」


レースはまあ、ほぼ予想通りだった。

例によってガチガチの加奈は、わちゃっと立ち上がってばたばたと走っていく。

それでも何とか12秒11で2着に入り、予選通過。

何というかもう、まったく成長していなかった。


残りの組は、千晶さんが1位。

真帆ちゃんも、余裕残しの2着で通過。


そして初日のハイライトは、最終種目に訪れた。


女子1万メートル決勝。

亜由美さんが堂々、A標準を突破する記録で、見事に初優勝を飾った。

おととし、世界陸上の代表に選ばれなかったことで切歯扼腕したらしい。

今度は誰にも文句を言わせないぞといわんばかりに、ガッツポーズ。

記者がわらわらと群がった。


これで、世界陸上代表が内定。

いよいよ、亜由美さんが世界に挑戦することが決定した。


「かっこいい…」


「素敵…」


織田君とおべっか金子がつぶやく。


将来はマラソンに転向し、金メダルを目指すとこのあいだこっそり教えてくれた。

もしそうなれば、アサミACとしては万々歳だろう。

今のうち、サインをもらっておこうかなと思った。

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