142話 日本選手権開幕


今年の世界陸上は、ブリスベンで行われる。

オーストラリア東岸に位置する、人口100万ほどの都市だ。


その世界陸上に参加するためには、7月25日までに標準記録を突破せねばならない。

その上で、代表に選出されなければならないのだが、これがなかなか険しい道のりだ。


そして今日から、代表選考の鍵となる、運命の日本選手権が始まる。

今年は横浜開催なので、電車でたった1時間だ。

初日の今日は、午前中に出発。

お昼前に着いて、スタンドでのんびり観戦している状況だった。


「おー。出てきた出てきた」


待ちくたびれたのか、聡志が大きく伸びをする。

女子200m予選。

今日は僕の出番はないが、短距離は各種目の予選がある。

1万mは決勝があるので、応援部隊である。


近場の開催なので、うちの大学はかなりの人数が応援かつ観戦に来ているようだ。

一緒に見ているのは、ロシア人聡志、高校の後輩の織田君。

あとはおべっか金子君、ベースマン寺崎といういつもの面々。

今回も、おなじみの顔ぶれでお届けしてまいります。


「まあ、予選は楽勝と」


女子200m、アサミACの千晶さんは余裕の1位通過。

うちの部からは佐々木陽子ほか2名が出ていて、それぞれ通過した。

まずは滑りだし順調といったところだ。


「さて」


と聡志が立ち上がる。


「サブトラ行ってみね?」


「ヨンパの予選始まるぞ」


「誰か見たいやついんの?」


「……」


ごめんなさい。予選だから許して。


織田君たちはレースを見ているというので、聡志と2人で移動。

スタンドを降りて、サブトラック手前の広場に向かう。

あまりスタンドには客が入っていなかったが、サブトラックはかなり盛況だった。

曇り空だが、たくさんのジャージの花が、オレンジ色のタータンの上に咲いている。


「充電っ」


不意打ちだった。

どすんとわき腹をタックルされて、それからぐりぐりと頭をこすりつけられる。

誰かなんて確認するまでもない。杏子さんだ。


「相変わらずですね…」


「やあやあ。久しぶり久しぶり!」


元気そうな笑顔を見てほっとする。

グランプリ関係の仕事で、疲れていないかちょっと心配だったのだ。


「このあいだ会ったでしょ」


「1ヶ月前じゃん!」


「そうだっけ。どうですか、調子は」


「絶好調さ。星島は?」


僕は、6月中旬に小さな記録会にエントリーした。

しかし、向かい風のせいもあって10秒37。標準記録の突破はならかった。

身体は、徐々に動くようになってきてはいた。

しかしその後、いくつかの試合に出たが、結果は10秒31、10秒27。

何とも微妙に惜しいレースが続いていて、僕は徐々に焦り始めてきていた。

 

いかんせん、時間がないのだ。

残す試合は、日本選手権と日本スーパーグランプリの予選会。

そしてもう一本記録会があって、あわよくばグランプリの本大会。

最大でも、4本のレースしかチャンスはない。


もっとも、男子100mより大変なのが、女子400mだ。

A標準が51秒50で、B標準が52秒30。

日本記録が小林由紀の持つ51秒81なので、はっきりいってかなり厳しい。


「ま、何とかなるよ。マジで調子いいんだって」


例によって、杏子さんは楽天的だった。

だけど本当に調子がいいみたいで、今シーズンは自己ベストを2度も更新している。

現在の自己ベストは52秒32なので、B標準まであともう一歩というところ。


「優勝インタビューでグランプリの宣伝しないと!」


「なるほどね…」


「あとは気合いだよ」


「そうですね。気合いだ」


「気合いだ」


「気合いだ!」


「気合いだあっ!ということでアップ!」


「がんば!」


ひらひらと杏子さんがサブトラックの中に入っていって、振り向いたら聡志はいなかった。

少し離れたベンチに絹大のメンバーがいて、その輪の中にいる。

マネージャーの詩織ちゃんがいて、男子200mに出場する本間君と十文字。

それから女子100mに出場する加奈と真帆ちゃんがおしゃべりをしていた。


まだ時間があるので、わりとリラックスした様子だった。


「やあやあ。どうかね、調子は」


近づいていって声をかけると、詩織ちゃんがポケットからあめ玉をとりだして僕にくれた。


「はい。ごほうび」


「え。何かしたっけ」


「遅刻しないでちゃんと来たから」


「そんなんで、もらえちゃうんだ…っ」


ちなみにあめ玉はブドウ味だった。

こう、ベーシックだがうまいのだ。


「さーて。今日はお昼にラーメンでも食べようかな」


いつかの仕返しに十文字に言うと、加奈がぱっと顔を上げた。

今にもよだれを垂らしそうな表情。


「何?何ラーメン?」


「そうだな。チャーシューメンだな」


「チャーシューメン?」


「とろけるチャーシューが5枚」


「5枚も?」


「大盛りで」


「大盛りーっ」


加奈が叫んで後ろ向きにどしーんと倒れる。

よほど食べたいらしい。


「お腹すーいたっ、お腹すーいたっ」


だらんと力を抜いて加奈が節を付けて歌い出して、真帆ちゃんがぐいっと僕を見上げた。


「ちょっと。邪魔するんなら帰ってよね、朴念仁!」


「おっと。こんなところに一本杉」


ぐりぐりとちょんまげを引っ張ると、真帆ちゃんは慌ててじたばたとした。


「ピョーッ!それは目印にはなりません!」


笑いが起きる。

毎度毎度、真帆ちゃんのリアクションは見事なのだ。


「ま、星島の財力なら、ラーメン大盛りが限界だろ」


欠伸をしながら、十文字が憎たらしいことを言った。

それは、単に僕に悪態をつきたかったのか、適当な当てずっぽうか。

それとも超能力なのか、だ。

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