134話 新見沙耶復帰


まあ、記録が出なかったのは仕方ない。


さっさと気持ちを切り替えながら、スポーツドリンクを飲む。

ランニングシューズを履き、リュックの中にスパイクをしまってジャージを着る。


トラックでは、女子100mが始まろうとしていた。

これだけ見てダウンに出よう。

B組に出場する新見沙耶がトラックに現れる。

選手たちがレーンに出て準備をし始め、しばらく見ていると場内に選手が紹介される。


新見は7レーンで、今日も左ひざにテーピングをしていた。

まだまだ全盛期には及ばないけど、どのくらいまで上げてきたか、それに注目だ。



「on your mark」



選手紹介が終わると、例によって、徐々にスタジアムが静寂に満ちていく。

いよいよスタートだ。



「set」



やがて号砲が鳴り、選手が一斉に飛び出した。

電光掲示板で確認すると、新見は序盤からかなり遅れていた。

レースは5レーンの選手が先頭で進んでいく。

B組なのでさほど速い選手はいないはずなのだが、置いていかれてしまう。


「うーん…」


本間君が唸った。

新見はいまいち、スピードに乗り切れていない。

それでも、前を向いたまま懸命に足を伸ばしていく。

それぞれの動きが重い感じがする。

技術的には問題ないのだが、まだまだ体がついてこない、そんな感じだ。


最後、ちょっと疲れたという感じで力を抜いてゴール。

やれやれといった表情だった。


「ふーっ…」


戻ってきて、ぺこりとトラックに一礼をして、とことこと僕たちのところにくる。

すぐにジャージを着て、立ち上がると軽く左足を動かして状態を確認する。

表情を見る限り、そんなに悲観している顔でもないのだが…。


「お疲れさま」


「うん」


ペタンと座り込んだところで、結果が表示される。

新見は3着で、12秒01だった。


「お」


「ん?」


「いや、もうちょいで11秒だと思って」


新見はあくまでも笑顔を見せる。


「あ、タイム?」


「うん」


「充電の効果、あったかも!」


太陽みたいな笑顔で言われて、思わず照れてしまった。


「そ、そっか。そりゃよかった…」


「全然、加速できないねー」


「まだよくないの?」


「よくなくはないけど、まだまだ。いろいろ改造中」


「そか」


「あと、疲れてるのもあるのかなあ。春からちょっと無理してきたから」


そう言って、ぱたんと倒れると、新見はタータンの上に「の」の字を書いた。


「出たいのになあ…」


「出たいよねえ。世界陸上…」


「いや、日本スーパーグランプリ」


おや。

ちょっと話が違ってきたぞ。


「副賞もらったら、それ売って、ごちそういっぱい食べるつもりだったのに」


「そっちか!」


周囲に笑いが起こる。


すると、何となく雰囲気が柔らかくなったところに、スーツを着た好々爺が登場した。

戸川先生だった。

戸川記念陸上なのだから、おそらく招待されてどこかで見ているに違いない。

そうは思っていたが、いきなり現場に現れたので、さすがにちょっと驚いてしまった。


その場の雰囲気が一瞬でざわっと変わり、それが奇妙に平らになっていく。

怖い人じゃないけど、ちょっとした緊張感。


「お疲れさまです」


慌てて、誰かが立ち上がってあいさつした。

それにつられてみんな立ちあがりそうになったけど、戸川先生はそれを手で制した。


「そのまま、そのまま」


「お疲れさまです」「お疲れさまです」


皆が一斉にあいさつをする。


戸川先生はにこやかに何度かうなずき、僕たちのほうに近付いてきた。

ドキドキびくびくしながら見ていると、新見の前にしゃがみこむ。

だらしないかっこうをしていた新見が、さすがにぱっとたたずまいを直す。


「沙耶さん、まだよくありませんか」


「あ、はい。まだまだです」


「ふむ。ライバルは順調だし、なかなかじれったいところですねえ」


「はい」


新見が素直にうなずくと、戸川先生は僕を見てにこっと笑った。


「ライバルはいいですよ。自分自身を成長させてくれる」


「はい」


「星島君のライバルは、誰ですか」


「僕は…」


少し考えて、僕は正直に答えた。


「あまりにも多過ぎて、もう誰が誰だか」


「はっは、それはいいことだ。頑張りなさい」


「はい」


「さて。沙耶さん、ちょっといいですか」


「あ、はい」


よいしょと立ち上がり、戸川先生は新見を伴って建物の奥のほうに消えていった。


緊張が解けて雰囲気が柔らかくなって、空気が流れ出す。

なんだろう。

よく分からないけど、新見クラスの選手にもなると、お偉いさんも心配なようだった。

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