131話 木々のざわめきの中で


少しおしゃべりをしてから、すぐにアップに出る。

一発決勝だが、男女の100mはA組とB組に分かれている。

速い選手はA組に集められる。

まあまあの選手はB組に振り分けられる。

もちろん、音速の貴公子星島は堂々のA組だ。


男子の100mは2時からなので、あまりのんびりしている時間がない。

サブトラックにも、どことなく慌ただしい雰囲気が漂っている。

遠くの隅っこのほうで、本間君と詩織ちゃんがストレッチをしている。

何だかちょっぴり羨ましい。


「スパイクも、慣らしといたほうがいいんじゃない?」


「あ」


新見に言われて、スパイクに7ミリのピンを付けてみた。


丁寧にひもを結んで立ち上がってみると、こちらも非常に軽い。

よく分からないけど、最新のテクノロジーというやつなのだろう。

何本か、ダッシュをして戻ってくる。


スパイクを替えただけでそんなに速くなるわけではない。

1秒も2秒も変わらない。

だけど、とにかく軽いし、フィット感がある。

気分的にも大きく違う感じだ。


「どう?」


「軽い軽い。タイム縮まるかな?」


「縮まる縮まる」


笑顔で新見に言われるとそんな気がしてくる。


もう一度、ひもを締め直してまた何本か走る。

そして、少し息が上がったところで戻ってきてスパイクを脱いだ。

荷物のところに持っていって、バッグの中に入れる。

古いほうのスパイクを箱に入れておく。

古いのは…、捨ててもいいんだけど、とっておくか。


それから、すっかり温くなったスポーツドリンクを飲んでいると、どこかに出かけていた水沢さんが戻ってきた。

いつものように、首を傾げて二枚目な微笑を浮かべる。

逆光で、表情を読み取るのは少し難しかった。


「星島さん、ちょっといいですか」


「ん?」


「ちょっと」


新見が意味ありげに笑う。


立ち上がると、水沢さんにそっとひじに手をかけられた。

引っ張られたというわけじゃないんだけど、引力があるみたいに吸い寄せられた。

サブトラックを出て、競技場の周囲を半分回って、給水設備のコンクリート壁の裏へ。

死角になっていて、誰の目にも触れないようなところだった。


「な、何かな」


「充電、お願いしてもいいですか」


「あ、うん」


まあ、そうだろうとは思っていたけど。

こんなところまで引っ張ってきたのは、あれかな。

つまり、僕に余計な迷惑をかけないようにという配慮なのかな。

それはわりとありがたいです。


いつもと同じように、水沢さんを腕に抱く。

1分か2分、いつもと同じようにその儀式は続く。

それで、終わりかなと思ったら今日はそうではなかった。

ぎゅっと、水沢さんは華奢な身体を押し付けてきて、僕の耳元で静かに息を吐いた。


大きく、木々の枝がざわめく。


まるで永遠と同じくらい長く、それは続いた。

やがて、静まり返ったとき水沢さんは唇を動かした。


「好きです」


一瞬、僕の魂はかすかに揺らめいた。

それから、本震がきて徐々に大きく揺れ動いていった。

水沢さんの顔は、僕の肩のところにあった。

表情は分からなかったけど、冗談ではなさそうだった。


「好きです」


真剣な声で、水沢さんは繰り返した。

あまりにも突然すぎて、僕は何も返事ができなかった。

こんなことは初めての経験で、どう返事をすればいいのか分からなかったからだ。


水沢さんは肩から顔を動かして、切れ長の目でじっと僕を見つめた。

そして、また首をちょっとだけ斜めにして、少し照れたような顔をしてみせた。

相変わらず、二枚目だった。


「そんな困った顔しなくても」


「え、別に困ってはないよ。驚いたけど」


「そうですか。よかった」


「女の子にそんなこと言われたの初めてだから」


「私も、言ったの初めてです」


「そう…」


どこか薄っぺらい会話。

徐々に顔が近付いていって、まさに唇が重なろうとした瞬間、どこか遠くから歓声が聞こえてきて、僕ははっと現実に帰った。


「あ、いや、駄目だ駄目だ」


慌てて顔をそらす。


「ごめん。その、水沢さんのことは好きだけど…」


謝りかけると、水沢さんは僕の唇を人さし指でぴっと塞いだ。

少し恥ずかしそうに、微笑を浮かべる。


「分かってます。伝えたかっただけ」


「あ、うん…」


正直言えば、水沢さんとキスしたかった。

それ以上のあれもあれであれなんだけど、やっぱり、できなかった。


怒られるならまだいい。

でも、ミキちゃんに泣かれたくはない。

ミキちゃんの泣いている姿を想像すると、きゅっと胸が締め付けられる気がする。


「でも、充電は絶対にやめませんよ」


水沢さんはそう言ってふふふと笑った。


「とにかく、星島さんは私の力の源ですから」


「う。たまたまだと思うけど」


「いえ、絶対、違います」


水沢さんは断言した。


「だって。このあいだの関カレもそうだったじゃないですか」


「そ、そうだよね…」


「駄目ですよ、そばにいてくれないと」


「ごめん…」


どこか遠くから吹いてきた風が、僕たちをまたアスリートの世界へと引き戻す。


お互い、ちょっと照れながら戻ると、サブトラックの手前で、どこからか杏子さんが爆撃機のように走ってきて、どすんと僕にぶつかった。

油断していたので、わき腹がすごく痛かった。

普通の女の子が走ってくるのとは違う。

日本トップクラスのアスリートが突進してくるのだから、衝撃もけた違いだ。

10トントラック10杯ぶんぐらいはある。


「杏子さん、痛い…」


「充電っ」


水沢さんが、笑いながら会釈をして、サブトラックに戻っていく。

それを見送ってから、杏子さんはじっと僕の顔を見上げた。

その顔が徐々に近くなってくる。


「な、何?」


「いや、たまにはね、接吻などを」


「駄目ですよ。駄目ですからね」


「いいじゃん、ちょっとぐらい。エッチまでした仲なんだし」


「ちゃっ、ちょっ、声大きい!」


「あたしたちは、エッチしましたよお」


手で口をふさごうとしたけど、杏子さんはウヒヒと笑って僕の手をはねのけた。

 

じたばたと争っているうちに、徐々にどちらも本気になってくる。

カンフー映画のようにびしばしと激しい攻防が繰り広げられる。

やはりどうしてもあごが前に出てきてしまうが、それは仕方ない。


「ホワチャーッ!」


「フョーッ!」


最近、2人ともカンフーの腕前が上がってきたような気がする。

 

いつの間にか数名のギャラリーができて、杏子さんが僕を足払いで倒して勝利のポーズを決めると、期せずして拍手が起こったのだった。


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