120話 水沢咲希の躍進


戸田先生の何がすごいかって、金メダルもそうだけど、世界記録だ。

男子走り幅跳び、7m97。

60年前の記録だけど、今でも日本選手権なら余裕で優勝できる。


60年前っていうと、全天候トラックなんてないわけ。

スパイクなんてあったかどうか。

インターネットなんか影も形もない。

戦後すぐだから、栄養状態だって怪しいものだ。

その環境で7m97なんだから、現代に連れてきたら9mくらい跳んじゃいそう。


「8m50くらいいってもおかしくないっすよね」


と織田君。


「んー、8m30くらいは余裕だろうな」


「そんなら余裕でメダル圏内っすね」


「やっぱ普通にすごい…」


などなど、戸川先生の偉大さについて語りながら競技場へ戻る。


みんな競技が終わったので、あとはほかの選手の応援だ。

まだ400mやハードル種目が残っている。

フィールドでは、ちょうど、女子の走り高跳びが始まるところだった。


「あっちいこか」


「あ、うん」


新見に誘われて、ぞろぞろとピット前のスタンドに移動する。

例によって、藤崎グループが陣取っていた。

今年も、藤崎小春は健在。

新1年生を加えて、グループの人数が増えているように見えた。


藤崎小春が僕たちに気付いて、じろりと僕を睨んでみんなにひそひそと何か言っている。

隣にいるおっぱいの大きい子も健在。

おっぱい魔人。


「4人しかいないんだね」


新見が言って、見てみると確かに選手は4人しかいなかった。


「本当だ。少ないな」


しかも、バーは160センチから開始。

166センチで早々と2人脱落し、169センチで1人脱落した。

一回も飛んでいないうちに、水沢さんは一人になってしまった。


やっと出番が来て、水沢さんがジャージを脱ぐと男女から黄色い声援が飛んだ。

172センチから挑戦するようで、バーの高さが調節される。

日本人で170センチ以上からスタートする選手って、まずいないと思う。

191センチを跳んだこともある水沢さんにとっては、無難な高さなのか。


「なんで172センチなんだろ」


「日本選手権の参加標準記録っすね」


新見の質問に織田君が答えるのとほぼ同時に、水沢さんが助走を開始した。

ゆったりとしたスピードから、トトンと踏み切って、楽々とバーの上を超えていく。

歓声が起こり、水沢さんは軽く手を挙げてまた準備にとりかかった。


一人だけ残っている場合、バーは自由な高さに上げることができる。

今度は182センチ。

驚くべきことに、一気に10センチも上げてきた。

182センチは、かなりの高さだ。

何しろ、去年、180センチ以上を跳んだ日本人は、水沢さんと河合瞳だけなのである。


しかし、そんな182センチすら、水沢さんは楽々と超えていった。


「きゃーっ!」


黄色い声援。

軽く、笑顔を見せて水沢さんは手を挙げて応えた。

どうやら絶好調のようで、まだバーと身体の間は数センチあるように見えた。

次に、5センチ上げて187センチに挑戦。


「きゃあああーっ!」


これをなんと、また1回でクリア。

尋常ではない勢いに、スタジアム全体が異様な雰囲気になってくる。


そしてバーは、192センチ。

歴史上、192センチ以上を跳んだ日本人は、今までたった4人しかいない。


「世界選手権のB標準っすかね」


過去十数年、オリンピックや世界選手権に出場できた日本人選手はいない。

これをクリアすれば、それが現実的になってくる。


スタンドがざわめく中、水沢さんはじっとバーを見つめて集中してスタートを切った。

完璧なコンセントレーション。

ゆったりとした助走。

半円を描いてバーに迫っていき、両手を持ち上げると同時に踏み切って体が浮く。


羽がはえたように、水沢さんの長身がふわりと舞う。


ほんの一瞬、重力を無視したかのようなモーション。

背中でバーをクリアして、再び重力が発生して水沢さんはマットに着地した。

そのまま、後ろ向きに一回転して立ち上がる。

バーは、微動だにしていなかった。


「きゃーっ!」


「おおおおおおっ…!」


ぞぞぞっと背筋が寒くなった。

スタンドの中に、歓声とどよめきが同居する。


日本歴代4位タイ。

遠くからプレスが懸命に写真を撮っている。

今度は水沢さんに笑顔はなく、ある意味、神々しくさえ見えた。

その美しいジャンプは、羽根がはえた天使のようだった。

藤崎グループの女の子たちは、興奮したりうっとりしたり、水沢さんに夢中になっている。


「素敵…」


「咲希せんぱーいーっ!」


「咲希さまぁん!」


それにしても、毎度毎度、頑張って応援に来てくれるのはありがたいことだ。

さすがにおそろいのハチマキをしたりメガホンを振り回したりはしていないけど、それに近いものがある。

彼女たちにとって、水沢さんはアイドルみたいなものなのだろう。


僕は同じ陸上部だから知り合いになれたが、そうでない子は、水沢さんに近付くために大変な苦労をしているに違いない。

そう考えると、水沢さんの周りをのほほんとした顔でうろうろしている僕のことが気に食わないのも当然のような気がしてきた。


「ちょっと。何よ!」


ちらちら観察していると、藤崎小春にそれがばれてしまった。


「あ、いや、何でもない」


「何でもないならじろじろ見ないでよね!」


「すいません」


「嫌らしい!変態男!」


「すいません…」


わざわざ大きな声で言わなくてもと思うが、大人しくしていることにする。


その後、水沢さんはバーを3センチ上げ、世界陸上のA標準に挑戦した。

この高さには残念ながら成功しなかったものの、日本歴代4位タイの192センチをマーク。

一気に世界選手権の代表に近付いた。

確定ではないが、まあほぼ決まりだろう。


美人に弱いマスコミが、競技を終えた水沢さんを取り囲んでいる。

スタンドからも、望遠で狙っているカメラマンがたくさんいる。

プロもまじっているのだろうが、中には、マニアというか、盗み撮りしてインターネットで公開しているような連中もいる。


盗撮はいけません。

たぶん、あとで写真集が出ますから買ってください。

早く、出版して欲しい…。


「すごいね。充電のおかげかな?」


新見が言って、僕は唸った。


偶然だろう。

だが、ポジティブな気分のときとネガティブな気分のときでは、結果は大きく変わってくるに違いない。

そういう意味では偶然ではなかろう。


「おれも今度してもらおうかなあ。星島さんのエネルギー、分けてほしいですよ」


と、得意のおべっかを言う金子君。

本当にみんな知っているらしい。


「男でもいいですかね」


「うーん。気色は悪いけど」


「女装しましょうか?」


「せんでいい!」


バカバカしいおしゃべりをしていると、藤崎グループがさっさとスタンドを後にする。

通りがけに、藤崎小春は僕を睨んだが、何をするでもなかった。

徹底しているというか、ほかの種目にまったく興味はないらしい。

 

そして、女子もマスコミも、一斉にいなくなったところで、ロシア人橋本聡志が男子400mに登場する。

ちょっと憐れだった…。

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