116話 新見沙耶のチャレンジ


入ったばかりのマネージャー、市岡悠子ちゃんがジャージを持ってきてくれる。


それを着て、タイムトライアルを見学する。

男子100mがすべて終わって、一番時計は本間秀二の10秒25だった。

未公認だが、これは世界陸上のB標準を突破する記録。

本間君のベストは10秒22のはずだから、かなりのタイムだ。


2番目が、前キャプテンの十文字仁の10秒38。

生意気にも、これもかなりのタイムだ。


この2人が抜けていて、あとは横井勇が10秒47、僕が10秒54。

2年生になったおべっか使い金子君が10秒58。

この5人が代表争いだと思われる。

というか、代表が危うい。

純粋にタイムだけ見たら4番目だ。


「ま、あとはじゃんけんで決めてくれ」


十文字はうれしそうに言った。

10秒38だからおそらく当確だ。

空気みたいなキャプテンだったくせに偉そうに…。


本間君はもちろん選ばれるとして、残りは横井か僕か。


「星島、今回は譲ってくれ」


横井に肩を叩かれる。


「どうせもう1年大学残るんだろ」


「残んねーよ!たぶん!」


笑いが起きたけど、僕の場合、しゃれにならない。

しゃれにならないのだ。

ドイツ語はもちろん、経済学部の専門もたくさん残っている。

間に合うように、カリキュラムを多めにとっているのでたぶん大丈夫だとは思うが…。


「お、女子始まるぜ」


十文字が言って、みんな一斉にスタート地点のほうを見た。

女子の一番手は、加奈と真帆ちゃんのようだった。


加奈はまだまだ技術的な面で甘いところが多いが、それよりも精神面だ。

今シーズンは、どうにかメンタル面での不安を払拭したいところである。


ミキちゃんが手を振って合図を出して、2人のスタートに遅れて電子音が聞こえてくる。

ちょんまげ頭の真帆ちゃんも、力のあるスプリンターだ。

向こうっ気の強い性格で、僕とは正反対。

少々のことではへこたれないから、プレッシャーには強そうだ。

今が伸び盛りで、去年の日本選手権では4位に入った。

今年は、関カレやインカレでも活躍できるだろう。


その真帆ちゃんでも、加奈には圧倒的なリードを許してしまう。

加奈はダイナミックかつ柔らかい走りでゆったりと走ってきて、最後はちゃんと胸を出してフィニッシュをした。

いつの間にか、スプリントというものをだいぶ手の中に入れていた。


「前原さん、11秒28、宮本さん、11秒71」


ミキちゃんの声に、一同、大きくどよめいた。

風はほぼ無風だった。


「おおおっ」


「すげえっ」


「11秒28っ…」


「いいよな、でかいやつは…」


本人は、うれしいのかうれしくないのか、腰に手を当てて大きく息をしている。

真帆ちゃんと何かしゃべって、それでやっとえへへと笑った。

ミキちゃんにぺこりと頭を下げて、ジャージを着る。


「まあまあよかったわよ。70点」


「えへへ。頑張りました」


加奈の最大の弱点はメンタルだ。

最大の武器は、結果が出るかどうかも分からないのに毎朝5時に起きてトレーニングを続けられる、その根性だ。

才能を、生かすのも殺すのも本人次第ということである。


「すげーな、前原」


「うん…」


十文字が感嘆の声を上げ、横井が複雑な表情をする。

彼女のような新星アスリートに与えられるのは、感嘆か羨望かのいずれかでしかない。


「あれで、試合でもリラックスして走れればなあ」


「うん…」


一同、がくりと肩を落とす。

そうなのだ。

本当、誰かどうにかしてほしい…。


「お。新見」


「む」


続いては、新見と、金髪の宝生亜美のペアだった。

しばらく、新見の走る姿を見ていないがどうだろう。

太ももから左ひざにかけて、真っ白いテーピングが巻かれている。

オレンジのタータンの上では、痛々しい。

 

じっと見ていると、号砲が鳴って二人が飛び出した。

新見の表情を伺うことはできないが、宝生さんに並んだ状態で懸命のスプリントだ。

まったくスピードに乗っていないぶん、見ているほうにもぐぐっと力が入る。


「ガンバーッ!」


真帆ちゃんの檄が飛ぶ。

だけど徐々に離されていって、最後は宝生さんにかなりの差を付けられてしまった。


「宝生さん、12秒13、新見さん、12秒71」


ミキちゃんが淡々と読み上げる。


全盛期の新見なら、鼻うたを歌いながら後ろ向きで走っても出せるようなタイムだ。

現実はなかなかに厳しい。


だけど新見は、芝生のほうに歩いてくると、計測器を覗いて笑顔を見せた。

相変わらず、眩しい笑顔だった。


「本当?ちゃんと計った?」


「計ったわよ」


前に見たような光景。

相変わらず、ミキちゃんは無愛想だった。


「本当に?」


「うん」


「そっかあ。もうちょっといけると思ったけどなあ」


「またそこから始めなさい」


「はい、先生!」


新見がかかとをそろえてびしっと敬礼して、ミキちゃんが珍しく唇の端を持ち上げた。

静かな風が、二人の髪を優しく撫でていた。

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