115話 最後の春季トライアル


そしてまた、新しい春が訪れた。


荒川さん、千晶さん、亜由美さんらが卒業して、僕たちは4年生になった。

新キャプテンは、本間秀二。

そして、今年もまた才能溢れる新入生が入ってきた。

きっと彼ら彼女らが、伝統を紡いでいってくれることだろう。


その最初の一歩として、恒例の春季トライアルが今年も行われる。

僕たち最上級生にとっては、集大成ともなる大事な大事な初戦だ。


「よーし。アップすんぞ!」


あいにくの曇り空の下。

短距離陣が集まっているところで、付いてこいとばかりにさっと手を振ったのは、新キャプテンの本間君ではなく、前キャプテンの十文字でもなく、伝説の超絶キャプテン高柳さんだった。

今年、卒業のはずが、留年してしまったらしい…。


「おれらアップ終わりました」


前キャプテンの十文字が答えると、高柳さんは振り返って1年生のほうを見た。


「1年生は?」


「終わりました」


「おう…」


とぼとぼと、高柳さんは一人でアップに出かけていった。

彼は一体どこへ向かおうとしているのか…。


「ドイツ語落として留年したらしいぜ」


聡志が言って、僕はびくりとした。

人ごとではないのです。

僕も落としました。

4年生にもなって今年もまたドイツ語です。

ダンケシェーン…。


「なんか未来の星島が見える」


「見えねえよ。てか先生にもよるよなあ」


「うん。うちは楽だった」


「選べないのが問題だ…」


若干、未来に不安を覚えつつ、体を冷やさないように体を動かす。

もうすぐ、トライアルの開始だ。

僕はいまいち、というかかなり調子がよくない。


落ち着きなく芝生の上をウロウロしていたけど、部室のところにミキちゃんと稲森監督を見つけて近付いていった。

バインダーを見ながら何かしゃべっている。


「ミキちゃん、順番教えて」


話が一段落して、稲森監督がどこかへ歩いていったところでミキちゃんに話しかける。

ミキちゃんはバインダーの用紙をめくって、さっと僕に見えるようにしてくれた。

最初だ。

去年に引き続き今年もまた、本間君と一緒に走ることになっている。


「むう…」


何だか煽られているような気がして、僕は一人で武者震いをした。

今、名門絹山大学のエースは誰かと聞いたら、ほとんどの人が本間秀二と答えるだろう。

インターハイを制し、インカレも制して、今年の日本選手権の優勝候補の一人だ。

兄の本間隆一が日本のエースなら、弟の本間秀二は若手のホープといったところ。

 

だからこそ、負けていられない。

負けたくない。

僕はそんなふうに思ったけど、いかんせん、体が付いてきていない状況だった。


「調子、悪いんだよなあ…」


「調子が悪くてもそれなりに走れる力を付けること」


「はい…」


そろそろ始めるということなので、肩をぐるぐる回しながら100mのスタート地点へ。


スタートラインのやや後方で、その本間秀二が悠々とストレッチをしている。

今年からキャプテンにもなり、名実ともに今が一番充実している感じだ。

絹山大学陸上部の、肩口に赤いラインが入った白いジャージがよく似合っている。


「うー。2番目か」


順番が書かれた用紙を覗き込んで、3年生になった織田新一郎がうなった。

2年生では一番の実力者、おべっか使い金子光輝と一緒らしい。


その次が4年生の横井勇と十文字仁。

その次が2年生のベースマン寺崎と、新1年生の中では一番速そうな栗林裕也。

高柳さんはオープン参加なので最後に一人で走るようだ。


その他にも数名いるがまあそれはよかろう。

2年前の僕のような脇役だ。


「よっし。準備できましたんで、始めますね!」


ポニーテールの詩織ちゃんは、今日も元気いっぱいだ。

真面目そうなマネージャーが入ってきてうれしいらしい。


いや、去年もたくさん入ってきたんだけど、みんなすぐに辞めてしまったのだ。

ミキちゃんが追い出したからだという噂だけど、どうなのかは知らない。

納会で酔っ払った詩織ちゃんが、ミキちゃんにクドクドと絡んでいた。


「しおりん、まだ線つないでないよ」


「あ、ごめんちゃい」


詩織ちゃんが慌てて計測器の準備をする。

今年はミキちゃんがゴール地点で待ち構えているから、恥ずかしい走りは見せたくない。


「はい、準備できました。いいですか。じゃあ位置に付いて。用意」


しかし、集中できていないと、時間は極めて薄く流れていく。


精神統一も何も出来ないまま、スターティングブロックに付いて。

電子音とともに、僕はガシャリと飛び出した。

スタートの反応は悪くないと思ったが、やっぱりいまいち身体は付いてこなかった。

あまり調子がよくない。

そうすると精神的にも乗っていけない。

それがまた一段と身体の動きを悪くする。


ミキちゃんが言っていたのはこれのことだが、僕は悪循環に陥ってしまったようだった。

本来であれば、本間君からエースの座を奪い取るつもりだった。

しかし、ゴールしたときにはかなりの差を付けられていた。


「本間君、10秒25。星島君、10秒54」


ミキちゃんの声が聞こえる。

惰性で少し走って、息を切らしながら戻ってきて計測器のタイムを確認する。

情けない走りを見せてしまったけど、ミキちゃんは何も言わなかった。


「200mも、計ってみていいすかね」


肩で息をしながら、本間君はミキちゃんに尋ねた。

ゆらゆらと、背中から湯気のようなものが昇っているように見える。


「予定入れてなかったかしら」


ミキちゃんがバインダーをめくって確認する。


「ないわね」


「入れてないっすね」


「順番変えたくないから最後でいい?」


「いつでもいっす」


簡単に答えて、本間君はのしのしと200mのスタート地点のほうに歩いていった。

僕の目から見ても、エースとしての風格が漂っているように見えた。


実力の世界とはいえ、3年生の本間君と、4年生の僕のこの差に。

情けないやら申し訳ないやら、僕は何だか悲しくなってしまった。

今まで教わってきたことを生かし切れていない気がする。

自分にふがいなくて、ミキちゃんに申し訳ない。


「ごめんね」


つぶやくと、ミキちゃんは振り向いてまばたきをした。


「何が?」


「一生懸命頑張ってきたつもりなんだけど」


「大丈夫よ。世界陸上にはちゃんと間に合うから」


「そう?」


「大丈夫」


至極、当たり前のことのようにミキちゃんは言った。

僕は単純な男なので、そんなふうに言われるとそんなような気もしてくる。

自分に自信が持てないぶん、他人の言葉に簡単に左右されてしまうのだ。


単純王・星島たるゆえんである。


「近いうちに切れるかな?B標準。10秒26」


ミキちゃんは眉を持ち上げたけど、何も答えなかった。

そして、スタート地点のほうに手を振って合図をする。

2番目のペアだ。


やがて電子音が鳴って、織田君と金子君がスタートを切って風のように走ってきた。

金子君はスピードに乗っていたけど、織田君もそれほど負けてはいなかった。

終盤、ちょっとよれたかな、という感じで少し差を付けられる。


「金子君、10秒58。織田君、10秒87」


「おおっ」


ミキちゃんがタイムを読み上げて、負けたほうの織田君が振り返って飛び上がった。

公式記録ではないが、ほぼ正確なタイム。

織田君初の10秒台といってもいいだろう。

しかも堂々の10秒8台だ。


「おめでとう!」


「やったーっ!」


織田君がガッツポーズをして喜ぶ。


だけど、バインダーに記録を書きとめると、ミキちゃんは不機嫌そうな顔をしてみせた。

織田君と一緒に喜んでいた僕も、当の織田君も、それを見てテンションが下がった。

だって怖いんだもの。


「あの、何かご不満でも?」


恐る恐る織田君が聞くと、ミキちゃんはあからさまに眉を持ち上げた。


「後輩に負けたんだから、少しは悔しがりなさい」


その一言で、織田君がしおれてしまう。


「あう、すみません…」


「星島君は、もっと自分に自信持ちなさい。A標準切るくらい言ってみなさいよ」


「面目ない…」


「金子君、何笑ってるの?全然ベストに及ばないじゃない」


「あ、ご、ごめんなさい…」


とばっちりで金子君まで怒られる。

 

最近、ミキちゃんが柔らかくなったとか優しくなったとか丸くなったとか、そんなふうな噂が一部であるけど、それは気のせいだと思った。

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