114話 巡る春


卒業式の日、珍しい人が絹山大学にやってきた。


毎年恒例だが、卒業式が終わったあと、みんなでトラックに集まってセレモニーを行う。

新キャプテンの任命式と旧キャプテンの胴上げ。

それから、稲森監督からの卒部証書の授与が行われるのだ。


それが終わって、その日は解散。

卒業生が謝恩会に出かけていって、僕はミキちゃんと買い物へ向かうことにした。

今日も、うちに何人か集まって食事会をする予定だからだ。

体育会系はどこもそうかもしれないが、とりわけ、浅海軍団は縦のつながりが強い。

まあ、大学生って、ゼミつながりかサークルつながりくらいしかないんだけど。


「ん?」


春の訪れを感じる風の中。

トラックの出口のほうに歩いていくと、階段の上に、見慣れない車が走ってきて停まった。

車種はよく分からないが真っ赤な、いかにも高級そうなスポーツカーだ。

中から誰かが現れて、トラックの様子をうかがっている。


「お。あれは…」


小林由紀。

チームライテックス所属で、女子400mの日本記録保持者だ。

杏子さんのライバルである。

美人とはいえないが、個性的な顔で覚えやすい。


「おっす、ミキちゃん。星島君」


階段を上っていくと、寒そうに手をこすりながら、小林さんは話しかけてきた。

ミキちゃんの顔が広いのはともかくとして、一応、僕のことも覚えてくれていたらしい。

それがちょっぴりうれしかった。


もっとも、どんな覚え方をされているのかは分からないが…。


「どうしたんですか、こんなところで」


ミキちゃんがそう言って眉を開く。


「秀二君いるかな」


「帰ったみたいですけど。何か用でも?」


「にゃろう」


小林さんは軽く舌打ちをしたけど、質問には答えなかった。

 

僕は黙って突っ立っていたけど、コンコンコンと音がして視線をやった。

運転席に座った帽子とメガネの男が、窓を開けて車のボディを叩いていた。

たぶん、幼馴染ではないと思う…。

ミキちゃんの顔を見ると、男に気付いて少し笑顔を見せていた。

知り合いらしい。


ミキちゃんは運転席の男と、お久しぶりとかどうとかおしゃべりを始めた。

自然、僕と小林さんが向き合うことになってしまう。

人見知りの僕は緊張したけど、小林さんは気さくだった。


「どう?調子は?」


腕をさすりながら、とりあえず当たり障りのない質問。


「杏子とはいい感じ?」


いや、当たり障りあった。

僕は慌てて手をぶんぶんと振った。


「いえ、全然。杏子さんとはそういうんじゃないですから」


「あれ。夕べもデートしたんじゃないの?」


「嘘です、まるで嘘。あの人、虚言癖ありますから」


「あははは。大げさな」


小林さんが笑って、僕は肩を落とした。

これでも、控え目に言ってるんですがね…。


しばらく、小林さんとおしゃべりする。

だけどそのうち、寒いのか、腕をごしごししてぶるっと震えた。

3月とはいえまだまだ肌寒く、薄着ではちょっと厳しい。

名古屋あたりとは気候も違うだろう。


「中に入ってたらいいんじゃないですか」


言ってあげると、小林さんはちょっと手を挙げた。


「悪いね。そうする」


小林さんはぐるりと反対側へ回って、助手席のドアを開けてバタンと車の中へ。


ミキちゃんのほうに視線を戻すと、まだ運転席の男としゃべっていた。

誰かなあと思っていると、男が僕のほうを見て、にっと笑った。

知り合いだったかな。

脳みそを回転させてみたけど、さほど回ってはくれない。


(むーん?)


見覚えがあるような、ないような。

サングラスと帽子が邪魔なのだ。


「星島君は、B標準切ってるんだっけ」


その声で、やっと、気付いた。

本間隆一。

男子100mの日本記録保持者だ。


僕からしてみたら、雲の上の存在のような選手なので、思わず姿勢を正してしまった。


「まだです。おれなんか全然」


慌てて首を振る。

たったそれだけの会話だったけど、どっと疲れてしまった。


「あの子はどうしてる?」


本間さんはまたミキちゃんのほうを向いた。


「どの子かしら」


「新見沙耶」


「ああ。頑張ってやってますよ」


「そっか。また走れるようになるのかね」


ミキちゃんは何も答えなかった。

誰もが、新見の走りをまた見たいと願っている。

本人はそれ以上、強く願っているに違いない。


だけど、今のところ、本格復帰のめどはさっぱり立っていないような状況だ。

あれからもう1年もたつのに、100mを走り切るのが精いっぱい。

そのへんの小学生にも負けてしまうだろう。

正直、前のように走るのは無理かもしれない。

それも、僕のせいで…。


「ま、応援するしかないか」


「そうですね。頑張ってますから」


「世代交代にはまだ早いからな」


加奈のことを言っているのだろうか。

そう思ったけど、本間さんはじっと僕を見た。

たまたまこっちを見たのかもしれないけど、僕のことを言っているのかなとも思った。

あるいは、実弟の本間秀二も含めた、僕ら若い世代全般に対しての言葉か。


だが、それ以上は何もなかった。

本間さんはすぐに車を発進させて去ってしまったので、真意は分からないままだった。


いずれにしろ、と僕は思った。

いずれにしろ、そのときはくるだろう。

今年、シーズンが始まれば、ひとまずすべてに大きな決着を付けることができるはずだ。


「大丈夫」


車を見送っていると、ミキちゃんに背中を叩かれた。


「星島君のことは、私が保証するから」


「うん」


うなずいて、僕は大きく息を吸い込んだ。

春の、匂い。

また、新しい季節だ。

ミキちゃんの髪が、柔らかな風に大きくなびいていた。


いよいよ僕の学生陸上の戦いも、最終楽章に入ろうとしていた。

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