103話 女王の城


国体が終わり。

多田記念陸上が終わって11月、絹山大学のトラックに杏子さんがやってきた。


日本選手権のときに会ったし、夏には一緒に海に行ったので、久々という感じはしない。

だけど、まあ、数カ月ぶりだ。

杏子さんはものすごくうれしそうな顔で走ってきて、どすんと僕に体当たりをした。

相変わらずラフな格好だけど、珍しく、胸元にシルバーのネックレスなんかしている。


「あーん。星島、久しぶり!」


「あ、う、うん」


ぐりぐりと頭をこすりつけられる。

薄着で、さすがに寒かったのか杏子さんの体は冷たかった。


ついさっき、スプリントチームの全体練習が終わったところ。

ミキちゃんと二人で白黒のハードルを片付けている最中だった。

僕と杏子さんを見ると、ミキちゃんは眉を動かして一気に不機嫌モードに突入する。


「杏子さん、それ、もう駄目」


慌てて、僕はポンポンと杏子さんの肩を叩いた。


「え?」


「そういうの、もう駄目」


「えーっ。じゃあ、ミキにする!」


言うと、杏子さんはたたっと近寄って、がばっとミキちゃんに抱きついた。

よほど、驚いたらしい。

3年間、ミキちゃんとは顔をつき合わせているけど、目を丸くしたのは初めて見た。

さすがに想定外だったようだ。


「ちょ、ちょっと、浅海さん」


「シーッ。心臓の音聞いてるんだから」


まるで意図が分からない。

それに何の説得力もないのだが、心臓の音と言われると高尚なことのように聞こえる。

困った表情で、ミキちゃんは僕を見た。

だけどどうすることもできないので黙っていると、杏子さんはふっと顔を上げた。

ものすごく顔が近くて、ミキちゃんは眉を斜めにしてのけぞった。


「近いですよ」


「ミキって、心拍数少ない?」


「知りません。普通じゃないですか」


「そっか。おっぱい大きいなあ…」


心底、羨ましそうに言う。

まあ、仕方ないですね…。


「ね。相談があるんだけど」


「とにかく、離してください」


「そ。じゃあ、話すけどさ」


「そうじゃなくて、離して」


「だから、話すってば」


「浅海さん」


「はっ」


ミキちゃんの語気が変わると、杏子さんはパっと離れた。

くるくる回りながら、僕にシュタっとしがみつく。

セミか、あんたは…。


「そんな怒んなくたっていいじゃん。ねえ?」


「うーん…」


何というか、もう、怒る気にもなれない。


「今日、デートの予定とかあんの?」


「や。特にはないですけど…」


「じゃさ、みんなでご飯食べよ。話したいこともあるし」


「うん…?」


「あ、ちあきーっ」


たたたっと杏子さんは走っていって、今度はびしーっと千晶さんにしがみついた。

何か一言二言しゃべって、僕のほうにまっしぐらに戻ってくる。

しかし、急転直下、角度を変えてミキちゃんにどすんと体当たりをしてぐりぐりした。

 

ミキちゃんももう、諦め顔だった。


「なんなんですか…」


「引っ付いてないと寒いの!」


「コート貸すから着てください」


「すぐ行くからいいや。練習終わったらうち来てよ」


よく分からない。

よく分からないまま、練習後、杏子さんのマンションへ。


卒業して、杏子さんはライテックスの本拠地がある名古屋に引っ越した。

当然、引き払ったと思っていたのだが、実は、賃貸ではなく持ち家だったらしい。

何というか、杏子さんの家がいくら金持ちでも驚かないけど、さすがに驚いた。

学生の身分で持ち家に住んでいたとは…。


「言っとくけど、毎月ローンで払ってるんだからね」


「あ、そうなんだ」


「きっちり利子までとられてさあ」


杏子さんが不満げに言って、千晶さんが笑った。


「それ、普通です」


「うぬん?」


「みんなそうやって家を買うんです」


「まあ、そうかもしんないけど」


「まったく、これだからお嬢は!」


亜由美さんが言って、杏子さんはぷくーっとほっぺたを膨らませた。


今日、集まったメンバーはいつもとちょっと違っていた。

僕とミキちゃんのほか、千晶さんと水沢さんと新見。

それに珍しく亜由美さんと、亜由美さんの飼い猫のマンチカンのモモちゃん。

水沢さんが、見てみたいとねだったらしい。


「モモちゃん、モモちゃん」


水沢さんはでれでれとモモちゃんを撫で回した。

どっちが猫なのか分からないくらいだ。


でも、耳がぺたんとしてて足が短くてふわふわトロトロで、確かに可愛い。

思わず、僕も触りたくなって、ぺたぺたと撫でた。

猫って、どうしたって触りたくなるのだ。


「可愛いね」


「可愛いですぅぅ」


性格が変わっている水沢さんと、愛猫を褒められて満足そうな亜由美さん。

千晶さんも新見も、モモちゃんを覗き込んで、でれっと鼻の下を伸ばしている。


「はい、ここ座って」


まったく興味がないのだろうか。

杏子さんはドスンとソファーに座り、僕を見てパシパシと横を叩いた。

猫がどうのというより、自分が主役じゃないと面白くないのかもしれない。

仕方なしに、30センチほど離れて座ろうと思ったんだけど、ぐいっと横に押しやられた。


「星島じゃない。ミキ」


「あう」


ミキちゃんが隣に座ると、杏子さんは指で合図をした。

千晶さんが慌ててカバンから書類を取り出して、差し出す。

ミキちゃんは眉を持ち上げて周りを見回して、それからやっと書類に目を落とした。


僕も覗き込んでみたけど、それはフルカラーのパンフレットだった。

えーと、「アサミAC(株)会社案内」と記されている。

ミキちゃんは、顔を上げてちらりと杏子さんを見た。


「アサミAC?」


「そ」


ACは、アスリートクラブの略だろうか。

資本金3千万。

主な事業は陸上競技の普及とアスリートの養成、それに伴うメディア戦略。

パンフレットはかなり本格的で、会社に関する説明がいろいろ書かれている。

ミキちゃんは真剣な表情で、ぱらぱらとめくっていった。


「こないだ立ち上げた。あたしが社長」


「ふうん…」


興味がないのか、ミキちゃんの相づちは適当だった。


「ま、あたしはお飾りみたいなもんで、経営陣はちゃんとアサミグループのほうからきてもらってるけど。まあ、ぶっちゃけていえば子会社なんだけどね」


「そうですか」


「前に言ったと思うけどさ、絹大いくとき親とすごいもめたわけ。一人娘だから、適当にお嬢様学校行かせて、そんで婿とらせようと思ってたらしくて」


「初耳ですけど」


「そだっけ?」


ミキちゃんに言われて、杏子さんが首を傾げる。


「まあとにかくさ、無理やり絹大に進学したんだけど、日本一になったら認めてやるっていうわけよ。そしたらお前の言うこと何でも聞いてやるって。そんなの絶対無理だと思ったんだろうね」


それで、日本一になって、言うことを聞いてもらったらしい。

まさか約束を盾に会社をつくらされるとは思わなかっただろう。

親御さんも、とんでもない約束をしてしまったものだ。


だけど、あなたたちの教育にも問題があると思いますよ!


「まあとにかく」


杏子さんがコーヒーを飲みながらまとめる。


「小さいけど、一応はちゃんとした会社だから。万が一つぶれても、親会社のほうで引き受けてもらえるし」


「やっと話が見えてきましたけど…」


「そ。ミキにも入社してほしいわけ」


「にも?」


「みんなもう内定出てるから」


ミキちゃんが僕を見て、僕は慌てて首を振った。


「初耳、初耳」


「へい、千晶!」


杏子さんがパチンと指を鳴らすと、千晶さんがバッグから書類の束を取り出した。

それを受け取って、杏子さんはテーブルの上に適当にばさばさと並べていった。


「一応、今動いてること説明するね。まずこれが、ユーエイ食品との広告の契約書。ほんで、こっちがライテックスと交わした浅海杏子モデルのスパイクとシューズの専属契約書。あとこれが、北栄住宅とのCMの契約書」


「全部、浅海さんじゃないですか」


「だって、みんなまだ学生なんだもん。来年はあゆと千晶が卒業するからばんばんやってもらう予定。特にあゆ!あんたマラソンでメダル取るんだよ!」


「はーい」


モモちゃんと猫じゃらしで遊びながら、亜由美さんが返事をする。

今のうち、サインもらっておこうかしら…。


「それでこっちが写真集関連の契約書で、これが写真集に載る写真」


ぱらりと大判の写真がテーブルの上に並んだ。

ばっちりメイクを決めた、超美人バージョンの杏子さん。

真っ白いシーツのベッドの上で、セミヌードを披露している。


夕方は、くるくる回ってミンミンゼミみたいだったのに、これはあれですよ。

いいですよ。

非常にいい。


「咲希も写真集出すから」


「あ、欲しい」


思わず口に出してしまって、ミキちゃんにジロリと睨まれた。


「ま、結局、あたしはあれこれ言うだけで、動くのは全部社員なんだけどね。一応、コンサルタントも法律関係の人も付いてるし、実務のほうはプロがそろってるから」


「ふうん…」


要するに、末端とはいえ、アサミグループからのお誘いというわけだ。

いわゆる、新興の実業団ということになる。

だけど、かなり突然のことだったので、ミキちゃんは困惑しているようだった。

 

千晶さんがコーヒーを入れてきてくれる。

僕はそれを飲みながら、チラチラと杏子さんのセミヌード写真を盗み見た。

見えそう…、で見えないのが何ともいまいましい。

ええい、ネガを全部見せろ、ネガを。


「終身雇用って言えないかもしれないけど、少なくともみんなが現役で頑張ってるうちは、競技に集中できるように応援したいなと思ってさ」


恥ずかしそうに、杏子さんはゆさゆさと身体を揺さぶった。

琴線に触れるようなことを言ったわりに、珍しくオチはない。

不覚にも、ちょっと感動してしまった。

こんな人の言うことに。


「それで、私に何をさせようと?」


ミキちゃんは書類を丁寧にまとめて杏子さんに差し出した。

杏子さんはそれを受け取って、千晶さんに手渡すと肩をすくめた。


「写真集、出す気ないよね?」


「ありません」


「じゃあトレーナー兼マネージャー。経理とか営業とかは実務のプロがいるからさ。ミキに営業やれったって無理だし。競技のほうの、選手のサポートとかしてほしいわけよ」


「ふうん…」


「絹大のトラックを使わせてもらえないか交渉するつもりだけど、たぶんOKもらえると思うんだよね。監督は、兼任で稲森監督にお願いする予定」


「ふうん…」


「給料はさ、よく分かんないけど、まあほかのとこと同じぐらいは頑張るのかな。もちろんレース出るときとか経費は負担するけど…、あと何かあったっけ」


「ご飯!」


杏子さんの言葉に、新見が満面の笑顔で言った。

お腹が空いたのかと思ったらそうではなくて、杏子さんはぽんと手を叩いた。


「そだ。食事の面でもサポートしてほしいんだよね」


はい。

新見の笑顔の理由が、分かりました。


「当面はあれだけど、そのうち寮とかつくるから、おさんどんもやってもらえるとうれしいかな。栄養士の資格取るの、短大とか行かないと駄目らしいから、取るなら取るでサポートするし」


進路としては、ミキちゃんが目指している方向性と合致しているのではないか。

しばらく、ミキちゃんは固まったまま返事をしなかった。

ちょっと気になって、僕はわざとらしくゴホンとせき払いをした。


「んと。おれは?」


「ん?星島は誘ってないよ?」


あっさりと言われて、僕はがくりと肩を落とした。

亜由美さんが噴き出して、つられて新見も笑って僕に耳打ちした。


「嘘、嘘」


「え、そうなの?」


「杏子さんが、星島君を仲間外れにするわけないじゃない」


見ると、杏子さんがウヒヒと笑う。


「星島は、総務兼あたしの愛人!」


「総務かあ」


「パシリとも言うけどね」


「ふむふむ」


「あと愛人ね!」


「いいから」


普通に就職するより楽しそうだ、僕は素直にそう思った。

今のままでは、どこの実業団からも声がかかりそうにないし。

卒業後もみんなと一緒というのはうれしいし。

ミキちゃんも同じことを思ったのかどうか、ちらりと僕を見て、杏子さんのほうを見た。


「少し考えさせてください」


「ゆっくり考えていいよ。でも卒業しても星島と一緒がいいっしょ?」


女子の視線が一斉に僕たちに集まる。

ミキちゃんの耳が真っ赤になったのが分かった。

どうにも、こういう話には免疫がないようだった。

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