102話 長い雨宿り


杏子さんはよく、テンションが上がるとくるくる回っていたけど、その気分がよく分かる。


翌週の土曜日の、午後5時半。

小雨の降る絹山駅前に到着すると、ミキちゃんは既に噴水の前でたたずんでいた。

実際には回らなかったけど、心の中でくるくる回りながら、僕はそれに近づいていった。

珍しくスカートなんかはいている。

シンプルなボーターのシャツだったけど、ものすごく似合っていた。

男も女も、通り過ぎる人は必ず視線を送っていて、そのうちの半分は振り返っていた。


いつも、トラックにいる姿しか見てないけど、外に出たら見返り美人なのだ。


「ごめん。お待たせ」


近付いていって声をかける。

ミキちゃんは小さく頷いたけど、何も言わなかった。


「なんか、いつにもましてきれいだね」


「あ、あ、ありが…」


二度目のデートだ。

中学生みたいだけど、正直、僕もミキちゃんもまだちょっと緊張していた。

何しろ、もういい歳なのに、どちらもこういうことに関しては初心者なのだ。


一応、デートらしく、食事の前に、駅裏のプラネタリウムを見にいった。

プラネタリウムは小学生のころにいったきりだったけど、なかなか面白い。

立体的で迫力があるし、とにかくきれいなのだ。

宇宙好きの僕としてはすごく楽しかった。


何より、500円っていうのが安くていいじゃないですか。

だってお金なんか全然ないんだもの。


「星島君って、意外とロマンチストなのね」


「そう?」


「まあ、でも、楽しかったけど」


素直に、ミキちゃんも喜んでくれた。

退屈そうにされたらどうしようと心配していたので、僕はほっとした。


「宇宙って不思議だね」


「そうね」


宇宙には謎が多すぎる。

何もないところで爆発が起きて、それで宇宙が生まれたなんてでたらめもいいところだ。 

 

物質はどうやって生まれたのか。

宇宙の外には何があるのか。

どうして引力があるのか。

スケールが大きすぎて考え出したらきりがない。


「そういうのに比べたら、おれたちの悩みなんてちっぽけだよね」


手をつなぎたいとか、そんな小さな悩みだ。


「そうかしら」


「だから、頑張ろうって気にならない?」


「そうかもね」


人間には限界などない、などというまるで根拠のない説に僕は賛同しない。

 

何にだって限界はある。

だけど、どこまでが限界を知ることは誰にもできない。

だからこそ、先の見えぬ暗やみの中を、限界へ向かって挑戦することができるのだ。


全知全能の神様が僕の前に現れて、

「お前の限界は10秒10で、いくら努力しても決してそれ以上は速くなれないぜよ」

などと絶対的に告げられたら、僕の陸上人生はその時点で終わってしまうだろう。

チャレンジする意味がないからだ。


つまり、僕たちは、限界が見えないからこそ戦えるのである。


「ごちそうさまでした」


絹山グランドホテルで、かなり豪華な料理をいただいて、それから帰路に着く。


ミキちゃんは機嫌がよさそうだった。

サービスのワインで少し酔ったのか、頬が薄紅色で美しかった。

水分を含んだ大気がミキちゃんの横顔を映していて、僕の脳を侵食していった。

 

一度、駅前まで戻り、ティナ・ランバートンのショールームの前を通り過ぎる。

それから、チョコケーキが絶品のパブロという喫茶店でコーヒーを飲んだ。

8時過ぎなので、さすがにケーキ類は全部売り切れていたが、コーヒーも美味しかった。


「星島君、前原さんのあれ、どうにかならない?」


ふいに、ミキちゃんはそんなことを言った。


「あれって…、ガチガチになるやつ?」


「そう。あんなに緊張したことないから、アドバイスしようがなくて」


真面目に悩んでいるらしい。

至極、ミキちゃんは真剣な表情だった。


「うーん、おれもないからなあ」


「もうちょっと様子見るしかないかしら」


「何かちっとも改善されてないけど」


「そうなのよね。お客さんが多いと、どうしても視線が気になるんですって」


「自意識過剰か。どうすりゃいいんだろ」


「そうよねえ」


陸上の話だと、割合に話が弾む。


1時間ぐらいしゃべって、僕らはパブロを出た。

ミキちゃんのアパートは絹山駅のちょっと北らしい。

送っていくことにして、住宅街を一緒に歩いていく。

思い切って手を握ってみたけど、ミキちゃんは何も言わなかった。

むしろ、きゅっと握り返してくる。


(やったっ…!)


思わず、心がくるくる回ってしまう。

 

ミキちゃんの人生の一部分に、自分が一歩だけ脚を踏み入れた。

それが実感できた、幸せな一日だった。

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