097話 覚醒


サブトラックでは、加奈と千晶さんがアップをしていた。

しかし、いつもみたくミキちゃんが出迎えてくれなかった。

まだ怒っているようだ。


別にミキちゃんと付き合っているわけじゃないんだし、怒られる筋合いはないと思う。

ひょっとしたらやきもちだろうか。

自分のことを好きだと言った人間が、ほかの子とベタベタしていたら、頭に来るのかも。

僕だって、杏子さんが誰かといちゃいちゃしてたらジェラシーだもの。


とにかく、だ。

少なくとも、僕に無関心というわけではなさそうだけど。


(もっかいアタックしてみようかな…?)


そんなことを考えながらダウンとストレッチを終えると、競技場のほうに向かう。

スポーツドリンクがうまい。

このあと女子800mがあり、男女400mハードルのあと、最終種目の女子100mだ。

混雑しているスタンドにのぼり、空いている席を探していると誰かに名前を呼ばれた。


「星島さーん!」


詩織ちゃんがぶんぶんと手とポニーテールを振っている。

右のほう、走高跳のピットの前だった。

通路を歩いていって、チャンスとばかりに詩織ちゃんの隣のミキちゃんの横へ。

ミキちゃんはちらりと見ただけで何も言わなかった。


例によって、水沢さんのファンクラブの女の子が最前列にずらりと並んでいる。

藤崎小春にじろりと睨まれてしまった。

あと、例の、おっぱいのでかい子もいる。

おっぱい魔人。

名前は知らない。


「すごい、すごいんです!」


興奮ぎみの詩織ちゃんは、両手をぶんぶんと振り回した。


「何だか知らないけどとりあえず落ち着いて」


「だって、咲希ちゃんがすごいのっ!」


詩織ちゃんはボードを指差す。

そのときまさに、水沢さんが助走に入って鮮やかにバーを通過した。

スタジアム全体が大きくどよめく。

ボードには1m85の数字が輝いていた。


「おおおっ…!」


今年、日本人で190センチを跳んだ選手はいない。


去年も一昨年も、その前もその前もその前も、とにかくずっとだ。

13年間、190センチ以上を跳んだ日本人はいないのだ。

そもそも、190センチを跳んだ日本人はまだ6人しかいない。

日本記録は196センチだが、これはもう20年前の記録。


180センチを跳ぶ選手が年に1人か2人という情勢の中での、185センチ一発クリア。

喝采を送るスタジアムの観客は、さすがに目が肥えていた。


「すごいすごい!ノーミスですよ!」


「え、マジで?」


ピットにはもう水沢さんとロシアのイリナ・スペンサーしか残っていなかった。

 

世界記録まであと1センチ、208センチを跳んだこともあるロシアのイリナ・スペンサーが185センチを楽々と越えていく。

オリンピック銀メダリスト。

先の世界陸上は金の選手で、さすがにものが違う。


「ひゃーっ、すごいね」


「すごいですね…」


続く188センチ。

大きな手拍子の中、水沢さんは一回目を失敗した。

一方のスペンサーは涼しげな表情でクリアしていく。


「はーっ…」


スタンドから、思わず拍手とため息が漏れる。

まだまだバーと身体の間には余裕があって、さすがは世界のトップジャンパーだ。

クリアして当然と言わんばかりの、クールな表情が若干憎い。

ミキちゃんみたいだ。

どうにか、一泡吹かせてほしいものである。


いやミキちゃんがどうこうではないけれども…。


「あー…」


しかし、水沢さんは2回目も失敗。

スタンドからため息が漏れた。


「3回目、3回目」


すぐに気をとりなおして、詩織ちゃんが拳を握り締めて応援する。


「大丈夫、絶対跳べる」


「ん。その自信の根拠は?」


「充電!」


無邪気に詩織ちゃんが言って、僕はそっとミキちゃんを見た。

視線が合うと、意味が分かっていないのか、ミキちゃんはパチパチとまばたきをした。


「何?」


「いや、何でもないです」


あとで、詩織ちゃんにはこっそり言っておこう…。


「さあ、3回目3回目」


適当にごまかすと、いぶかしい顔をしたけど、ミキちゃんはそれ以上何も言わなかった。


188センチは日本歴代8位タイに当たる。

さすがに厳しいかな。

そう思っていたら、水沢さんはタイマーがカウントを始めるとすぐに助走に入った。

ばらばらの手拍子。

長い脚での、リズミカルな助走。

軽やかに踏み切って、いけると思ったが、おしりが当たってバーが大きく跳ねてしまった。


20センチほど、白いバーが跳び上がって、再び支柱の上に着地する。

スタジアムが大きくどよめいて、どよめきが歓声に変わり、水沢さんが眉を開いて笑った。

何度かバウンドしたバーは、支柱の上にとどまったまま。

審判が白い旗を上げていたのだった。

この場合は、成功になるのである。


「おおおーっ!」


どよめきのあと、スタンドが大きな拍手を送る。

この、188センチクリアは奇跡といってもいい。

水沢さんがスタンドに手を振って、観客はさらに大きな拍手と歓声を送った。


既に人気は一流選手のそれになりつつある。

黄色い声を上げる女子のほか、カメラや携帯で写真を撮る男子の姿も少なくない。


「すごいなあ…」


今、跳んだばかりだが、順番が先の水沢さんが次の191センチの準備に入る。

 

日本記録は196センチ。

191センチは、世界大会でも決勝に残れるくらいの記録だ。

相手にもよるが、もしかするとベスト8も狙えるかもしれない。


「うおーっ!」


その、世界レベルともいえる高さを。

188センチで苦労した水沢さんが一発でクリアしたとき、競技場全員が一つになった。


「やった!」


「やったああっ!」


「咲希さまーっ!」


「咲希せんぱーいっ!」


水沢咲希は、まさに今、覚醒しようとしていた。


今まで結果が出なかったのは仕方がない。

彼女が伸びるのは、これからだったのだ。

そしてそれを、僕たちは、目の前で目撃しているのだ。


「すげーっ!」


クールな本間君も、思わず大きな声を上げる。

 

この、一体感。

言葉では表現できない感覚。

これこそがスポーツのだいご味であり、スポーツでしか実現できないものなのだ。


「きゃーっ!」


珍しく感情を爆発させて右腕をあげる水沢さんに、観客が煽られて黄色い声援が乱れ飛ぶ。

水沢さんは二枚目すぎる笑顔を見せたけど、すぐに手を下に向けて観客を制止した。

イリナ・スペンサーの試技がまだ残っていたからだ。


「しーっ」


徐々にスタジアムが静まっていって、緊張感が漂う。

身長184センチ。

モデルもこなしているというこのロシア美女の表情を読み取ることは、難しい。

だが、おそらく、無名の日本人選手が相手で楽勝だとたかをくくっていたのだろう。

先に191センチを一発で跳ばれて動揺したのか、立て続けに2本失敗した。


そこで、女子800mがスタートの体制に入り、ハイジャンプがいったん中断する。

号砲が鳴り、高校を卒業して鳥羽化学に入社した本多由佳里が積極的なレースを展開する。

前半から飛ばしていって、五輪銅メダリストと接戦を演じる。

最後、ちょっとだけ差されて2着になったものの、見ごたえのあるレースだった。


「しーっ」


それが、いい間になったのか。


再開後、イリナ・スペンサーは191センチを3本目で成功した。

世界チャンピオンに笑顔はなかった。

この日本人、侮れないと思ったのかもしれない。


「咲希せんぱーいーっ!」


「咲希さまーっ!」


大声援の中、水沢さんは194センチに挑戦したが、さすがに無理だった。


だけど、若干20歳、水沢咲希の奮闘にスタジアムは大きな歓声に包まれた。

自分でも満足しているのか、水沢さんはカメラマンに囲まれながら笑顔を見せていた。


「いやあ、カッコいいな」


僕は正直な感想を言った。


「女の子がキャーキャー騒ぐのも分かる気がする」


他意はまったくない。

ただ、素直な感想を言ったまでなのだが、藤崎小春がぐりっと振り返った。


「何よ。バカにしてんの?」


一瞬、意味が分からなかったけど、僕のことだと気付いて慌てて手を振る。


「いやいや、全然。普通にカッコいいなって思って」


「フン!ヘンタイのくせに!」


「まあ、まあ、まあ…」


おっぱい魔人になだめられて、藤崎小春はぷいっと前を向いた。


キャーキャー騒いでいる自分たちを皮肉られたと思って、頭に来たのだろうか。

もちろん、そんなつもりは全然ない。

むしろ、競技場に足を運んでくれるファンなのでありがたいのだ。

でも、どうしても悪意に満ちた目で見られてしまう。

困ったものだ。


それより、変態って、誰が広めてるんでしょうね。

困ったものだ…。

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