096話 世界との差


それから、一人で黙々とアップを始める。


レース1時間前になって、やっとクインシー・ロジャースの姿がサブトラックに現れた。

外国人選手は全部で3人。

1人は、僕と同じくらいの時間からちゃんと体を動かしていた。

しかし、もう1人とロジャースは、この時間になってサブトラックに入ってきた。


(むーん…)


何となくバカにされているような気がして、コテンパンにやっつけてやりたくなった。


逆にいうと、ベッカーは本気なのかもしれない。

女子のレースは男子より1時間も遅いのに、僕が来たときにはもうアップを初めていた。

観光気分のロジャースとは大違いだ。


「星島さん」


横目でロジャースを見ながらアップを続けていると、水沢さんが近づいてくる。

 

そろそろ出番らしい。

スパイク袋を持って、傍らに詩織ちゃんを従えて準備万端というところだ。

ちょっぴり上気した表情で、軽く首を傾ける。


「星島さん?」


「あ、はいはい」


思わず、見とれてしまった。純粋に、美しいと思った。

機能美とでもいうのだろうか。

水沢さんの肉体と精神が合致して、大空に飛び上がる戦闘機のように見えた。

全盛期の、という言い方は適切でないかもしれないが、調子のいいときの新見のようだ。


「ちょっといいですか?」


「ん。何?」


「充電させてもらいたいんですけど」


真顔だった。

思わず水沢さんを見て、視線がばっちりぶつかって、ちらりと詩織ちゃんを見る。

詩織ちゃんも真顔だったので、慌てて視線をさまよわせる。


「えと、充電って、え、今?」


「はい。時間がないので」


「え、ここで?」


「駄目ですか?」


何も言わないのに、詩織ちゃんが気を利かせて、テクテクと歩いていった。


何も言わずに、水沢さんが僕を見つめている。 

周囲の視線もあったけど、思い切って手を伸ばして水沢さんを抱き寄せる。

水沢さんの手が僕の背中を撫で、髪が僕の頬をくすぐった。

僕の中にすっぽりおさまった身体は、アスリートとは思えぬほど華奢だった。


(うー…)


僕はもう完全に雑念にやられてしまった。

雑念というか、若い男性にありがちな妄想だ。

妄想というか、要するに、水沢さんといちゃいちゃしたいと…。


だって、そんなの、こんな状況なんだから仕方ないじゃないですか!


何か瞑想でもしているのか、1分間ぐらい、水沢さんは黙って僕の腕の中にいた。

やがて顔を上げて、すっと離れて恥ずかしそうにほほ笑む。

水沢さんも、恥ずかしいことは恥ずかしいらしい。


「ありがとうございます。頑張れそうです」


「うん。よかった」


「じゃあ、行ってきます」


「頑張って」


小走りで、水沢さんは詩織ちゃんを追っていった。

背中を見送っていると水沢さんの体温が徐々に薄れていって、僕はふと我に返った。

変な妄想をしている場合じゃない。

僕も、そろそろ出番なのだ。


妄想は、帰ってからゆっくりしよう。

そんなふうに思いながら、ホームストレートに戻る。

ミキちゃんは、ぐいっと眉毛を持ち上げていた。

何だか、ご機嫌斜めらしい。

嫌な予感がいたします。

非常にいたします…。


「な、何かあったの?」


聞いてみると、ミキちゃんはぷいっとそっぽを向いた。


「別に」


「そう…」


「鼻の下伸ばしてないで、行くわよ」


見られていたらしい。ちょっと、怖かった。


涼やかな秋風の中、競技場に歩いていく。

一応、ミキちゃんは付いてきてくれた。

しかし、入り口の前まで来ると無言でどこかへ歩いていった。

相当、ご機嫌斜めらしい。

涼やかというより、背中に寒い風が吹いた。


待機場所に係員がいて、一応、形だけの招集を受ける。

いつの間にか全員そろっているようだった。


ロジャース以下、海外招待選手が3名。

日本人は、日本選手権で優勝した北海道ACの玉城豊。

インカレ3連覇を達成した鳥羽化学の後藤俊介。

今年のインカレ王者の本間秀二。

あとは関カレチャンピオン、インカレ2位の辰川体育大学の浅田次郎もいる。

 

それで、僕、と。


(うーん…)


そうそうたるメンバーに、思わず武者震いをする。

 

建物の中から通路をとおってトラックに入って、まず驚いたのは観客の数だった。

日本選手権のときも多くてびびったけど、今日はそれより入っていた。

2万人くらい、いるかもしれない。


(うー…)


はっきり言って、びびってしまった。

 

だけど、レーンに出てスタブロをセットしている間に、そんなことは忘れてしまう。

どうせ、観客は僕のことなんか見ていまい。

メンバー的にも、最下位候補なのだ。

開き直ってやるしかあるまい。



「on your mark」



選手紹介が終わって、早くもスタートだった。

頭は空っぽ。

機械的に位置に付く。



「set」



号砲が鳴って…、10秒ちょっと走ってゴール。

見せ場はまるでなかったので、詳しく語るほどではないです。

わりとリラックスして走れたと思うが、やはり実力の差はいかんともしがたい。


さくっと勝ったのはクインシー・ロジャースで、流しながら10秒15。

玉城豊が日本人トップの3位に入り、後藤俊介が4位。

僕は何とかオーストラリアの選手に競り勝ったが、10秒43で5着だった。


(うーん、さっぱりだ)


今日は、駄目だった。

反省点ばかりというか、心技体、どれもいいところがなかった。


「駄目でしたね」


本間君がジャージを着ながらつぶやく。

本間君は、10秒47で6着。

見てないけど、ちょっと硬くなってたのかな?


「駄目だったねえ」


「やっぱこのくらいのメンバーの中でも戦えるようにならないと」


「そうだ。うん、そうだ」


本間君の言葉は、大いに、思い当たるところがある。

僕は大きくうなずいた。

世界との差は、かなり大きい。

しかしこのくらいのレースでも、食らいつけるようにならないといけない。

低次安定していては、進化は見込めないのだ。


「このくらいのメンバーなら勝ち負けにならないと、話にならないな」


言っておいて、僕は首をひねった。

 

おかしいぞ。

何だか、一緒に走ったほかの選手をバカにした感じになってしまった。


「す、すいません。言葉のチョイスを間違えました…」


謝って、笑い声の中、僕は逃げるようにそそくさとサブトラックへ戻ったのだった。

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