095話 接近遭遇



数週間後。

日本人初の金メダリスト、戸川大先生の声かけで出場することになったチャレンジ陸上。


その当日、また、やってしまった。

いきなり部屋のチャイムが鳴って、その瞬間に嫌な予感がしてドキリとした。

不思議なもので、時計を見なくても、寝坊したと分かった。

時計を見ると、案の定、11時半。

飛び起きてズボンをはいて玄関のドアを開けると、ミキちゃんが立っていた。


眉毛が、すごい。

角度がこう…。


「ご、ご、ごめん!夕べなかなか寝付けなくて」


「黙って。殴りたくなるから」


ぎろりと睨まれる。


「10分で準備して」


「はい。あ、汚いけどよかったら上がって…」


「黙って」


そっとドアを閉める。

怖かった…。


急いで準備をして外に出ると、ミキちゃんの姿はなかった。

鍵を閉めて階段を降りていくと、大通りのほうからスーパーの袋を持って歩いてくる。

買い物に行っていたらしい。

相変わらず、怖い顔だ。


鎖につながれた近所の犬が、尻尾を丸めて小屋の中に逃げ込む。

僕を見ていつも吠えるくせに…。


「行くわよ」


「はい…」


歩きながら、大変ありがたいお説教をいただいた。

僕の、普段のそういう日常生活のだらしなさがいけない。

ギリギリの勝負の局面になったとき、実力が同じなら、だらしない人間のほうが負ける。

自分に甘い人間は、勝負どころになると必ずその甘さが出るからだ。


僕がもう一人いて、向こうが800mの適切な練習を1年続けてきたとしたらどうか。

800mで勝負して勝てるか。


「勝てない」


「どうして?」


「え、だって、ずっと練習してるから…」


「そうでしょ。普段、8割の力で練習してるのに、本番だけ10割の力出せる?」


「出せない」


「普段、まあいいやまあいいやと思って適当にやってるのに、本番だけ都合よく、まあいいやを排除できるわけ?」


泣きそうになった。

もっともな言葉だったし、十分すぎるほど欠点は自覚していたけど、それをぐりぐりされるとやはり痛かったからだ。


絹山駅まで歩いていって、2人で電車に乗り込む。

すっかりしょげてしょぼんとしていると、ミキちゃんがスーパーの袋を差し出した。

顔を上げて、おそるおそる横顔を見ると、まだ少し不機嫌そうだった。


「食べなさい」


「ハイ」


受け取って、袋の中を覗き込み、僕は中身を取り出した。

やっぱりというか、バナナとカロリーメイトだった。

競技場に付いたのは、14時だった。

ミキちゃんのおかげで、レースにはじゅうぶん間に合う時間だ。


ちょうど、オープニングセレモニーが終わったところらしい。

観客席で監督の姿を探して謝ったけど、あきれ顔でバカ野郎と言われただけだった。


「軽くアップ行ってきます」


逃げるようにスタンドを降りる。


サブトラックの人影はまばらだった。

短距離種目とフィールド種目がちょこちょこあるだけなので、参加人数自体は少ない。

うちから出場するのは、僕と本間君と千晶さんと加奈、水沢さんの計5人。

だが、誰もサブトラックにはいないようだった。


「ドリンクは?」


「あ、まだいい」


軽く周回して、ミキちゃんにストレッチを手伝ってもらう。

やっと機嫌が直ってきたようで、ほっとした。


一応は国際レースなので、外人選手の姿も多い。

トレッチをしながらクインシー・ロジャースらの姿を探したが、見つからなかった。

その代わり、目の前を100mの女王が一人でぽつねんと歩いていた。


10mほど先。

クリスティアーネ・ベッカーだった。


生まれて初めて目にする、世界的な有名人。

僕は思わず興奮してしまった。


(すげえ。本物だ)


褐色の弾丸と呼ばれているクリスティアーネ・ベッカーだが、意外と背が低い。

170センチそこそこだろう。

 

だけど、さすがに女王は違うというか、自信に満ちあふれている。

自分の家の庭のように堂々と歩いていて、周囲の視線を意に介さない豪胆さがあった。

ものすごくリラックスした表情。

クキクキと首の関節をほぐしながら、ゆっくりと目の前を通り過ぎていく。

まるで、ジャングルの中のトラのようだ。


いや、見たことはないんだけども…。


「あれよ、あれ」


ミキちゃんに囁かれる。


「ん?」


「早めに試合場にきて環境や雰囲気に慣れておくだけでも、ぜんぜん違うでしょ」


「うん。確かに」


そのときだった。

一瞬、通り過ぎるかに見えたベッカーが、僕のほうを見て立ちどまった。

もしかして幼なじみだろうか、とはさすがに思わなかった。

後ろを振り返ると、ミキちゃんが軽く手を挙げてほほ笑んでいた。


「Miki?」


「hi, Chris」


「wow! long time no see!」


「It sure has been」


前に出ていって、外国式に抱き合ってあいさつをする。

最初のほうは聞き取れていたんだけど、ベッカーが早口で、いかにも外国人らしい滑舌でまくし立て始めたので、何を言っているのかあまり分からなかった。

ミキちゃんのほうの受け答えで、何となく会話の流れが分かるだけだった。


しかしまあ、ミキちゃんの英語はものすごく流暢だ。

本当、ミキちゃん、性格以外は完璧超人だ。

感心しながら眺めていると、バックストレートのほうから本間君が歩いてきた。

何気なく僕たちのほうに向かって歩いてきたんだけど、少し手前でベッカーに気付く。


「うおっ…」


びくっと驚く声が聞こえて、何となく面白かった。


立ち止まり、目瞬きをして、慌てて大きく迂回して離れていく。

何度も振り返っているけど、それはそうだ。

とてもじゃないが、近寄る気にはなれないだろう。

僕もただぼんやりと2人を見ているだけだった。


3分ほど、話していただろうか。

ベッカーは誰かに呼ばれて軽く振り向き、またこちらを見た。

二言、三言、しゃべって白い歯を見せて笑ったけど、何と言ったのかは分からない。

今日はちゃんと真面目に走ってよね、みたいなこと(多分)をミキちゃんが言う。

ベッカーは笑顔で何かつぶやき、ミキちゃんと握手をして手を振って歩いていった。


ベッカーの姿が遠ざかった後、僕はミキちゃんを見上げた。

ミキちゃんは素知らぬ顔をして髪の毛を束ねていた。


「何だって?」


「何が?」


オウム返しに聞き返されて、ちょっと困った。


「いや…、最後?」


「どんなレースでも全力は尽くすって」


もっと長々としゃべっていたけど、ミキちゃんは簡潔にまとめた。

社交辞令だろうか。

手を抜いて走るとは言えないだろうから、建前かもしれない。


はっきり言って、チャレンジ陸上に大会としての権威はない。

一応は国際大会だが、優勝したからどうだというわけではない。

外国の選手は観光がてら日本に来て、出場料をもらって適当に走って帰っていく。

それだけのことなのかもしれない。

プロ野球のオープン戦みたいなものだ。


「知り合い?」


一応、聞いてみると、ミキちゃんは素直にうなずいた。


「うん」


「どこで知り合ったの?」


「昔ね」


ミキちゃんはそれだけ答えて僕の背中を押した。

あまり言いたくないのかもしれないので、それ以上、僕は言葉を重ねなかった。

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