091話 戸川正晴


ミキちゃんと肩を並べて待機場所まで戻ると、シートの横に稲森監督が立っていた。


誰か、初老の男性と話し込んでいる。

髪の毛は真っ白。

70歳は超えていそうだが、ピンと背筋が伸びていてスーツがびしっと決まっている。

なかなかにダンディーなおじいちゃんだ。


「おう。星島君だな、君が」


声をかけられて、とりあえず軽く会釈をする。


首からコーチのパスを下げているので、どこかの監督とかだろう。

すると、突然横からにゅうっと手が伸びてきて、頭をぐいっと下げさせられた。

ミキちゃんの手だった。

何だかよく分からないけど、目上の人にはちゃんとあいさつ?


「チャレンジ陸上の枠が空いたそうなんだが、お前、出てみるか」


稲森監督がひげを触りながら僕を見た。

横浜国際チャレンジ陸上といえば、世界大会のメダリストが多数参加する国際大会だ。

もちろん、一度たりとも出たことなどない。


「え、マジですか」


「柏木が欠場するから、その代わりだが」


「出ます出ます。出れるんなら出ます」


「いいですか?」


稲森監督がおじいちゃんに言って、おじいちゃんは笑顔でこくりとうなずいた。

もしかすると、大会役員の人なのかもしれない。

陸連のお偉いさんとか?


「星島君、頼みましたよ」


「はあ」


「よし。じゃあ稲森君、ちょっと来てもらえるかな」


おじいちゃんが軽く手を振って、稲森監督とどこかへ歩いていく。

その背中が小さくなると、ミキちゃんにぎゅっと腕をつねられた。

驚いて横を見ると、眉毛が持ち上がっていた。


「え。何?」


「何、じゃないわよ。誰だと思ってるの」


「陸連のお偉いさん?」


「戸川先生よ!戸川正晴先生!」


「え。戸川…、え、わーっ!」


「えっ、戸川先生っ!?」


僕だけじゃなくて、シートに座っていた金子君と織田君も驚いたようだった。

戸川正晴。

絹山大学のOBで、現役引退後、絹山大学の監督に就任して短距離王国の基礎を築き、その後はライテックスを日本トップの実業団にした人物である。

 

男子走り幅跳びの五輪金メダリスト。

柔道とか水泳とか他競技も含めて、オリンピックにおける日本人最初の金メダリストだ。

陸上競技の世界記録を樹立したことのある唯一の日本人でもあり、戸川の前に戸川なし、戸川の後に戸川なし、というのはよく言われるセリフだ。

世界記録ですよ、世界記録!


「何が、出れるんなら出ます、よ」


ミキちゃんが僕を睨む。

そう言われると、恥ずかしくて顔から火が出そうになる。


「だだだだって、知らなかったんだもん」


「まったく。こっちまで恥ずかしかったわ」


「ごめんなさい…」


若いころの戸川先生の顔なら、すぐに分かったんだけど。

何しろ今では、すっかりおじいちゃんだし…。


「でも、やったじゃないすか。チャレンジ陸上」


織田君が言って、僕はこくんとうなずいた。

何だかよく分からないけど、出れるらしい。


「いつだっけ?」


呆れ顔のミキちゃんに聞くと、変わりに織田君が答えた。


「再来週っすよ」


「すぐじゃん。誰来るの?」


「誰ですっけ。ロジャース来るのは知ってたんすけど」


クインシー・ロジャースは、世界選手権銅メダリストだ。

いつもビデオで走り方を参考にしているだけに、何となく親近感を感じる。

ナンバーワンではないが、もちろん、世界的なトップアスリートといえよう。


「女子はクリスティアーネ・ベッカーですかね」


「おお。女子は本物のナンバーワンか」


「まあ、本気で走ってくれるか怪しいっすけど」


「サインもらおうっと」


だらだらしゃべっていると、くいくいとミキちゃんにひじを引っ張られる。


「ん?」


「ご飯」


「あ、うん。そうだった」


「何か用意してるの?」


「ううん」


そういえば、詩織ちゃんからお握りを1個もらったんだった。

そう言おうと思ったけど、ミキちゃんがしゃがんでバッグの中をごそごそ。

何だろう。

何かつくってきてくれたのかな…?


「はい。ごちそう」


カロリーメイトと、バナナ2本だった。

 

やはりそう美味しい話はないものだなあ、僕はカロリーメイトをかじりながら思った。

いや、美味しかったけどね。

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