089話 男子100m決勝


観戦モードに入って、自分のレースがあることを忘れてしまってはいけない。

ほんのちょっとだけ盛り上がった女子100mに続いて、いよいよ、男子100mだ。


僕は大きく呼吸をして自分を落ち着かせた。

係員の案内でトラックに出る。

王者の5レーン。

歩いていって、まず、スパイクをはく。

丁寧に紐を結び、立ち上がり、風を感じる。


ほぼ、無風だ。悪くない。


どこからか聞こえてくるフィールド種目の手拍手を聞きながら、レーンに出る。

スターティングブロックを合わせ、軽くぽんと飛び出る。

ジャージを脱いで、ランニングシューズと一緒にかごに入れると準備完了だ。

スタッフのIDを付けた女の子たちが、かごを運んでいく。


少し、競技場が落ち着くのを待ってから、男子100mの選手紹介。

腰ナンバーを付けると同時に僕の名前が呼ばれ、小さく手を挙げて応える。

本間秀二が3レーン、僕が5レーン、浅田次郎が6レーンだ。

選手紹介が終わると、もう後戻りはできない。

 

さあ。

いよいよ。

いよいよ決勝だ。

日本一の大学生が決まるのだ。


(よし)


鼓動が速くなる。

体内の血液が沸騰する。

視界が急速に狭くなり、まるで夢幻の中にいるように感じられる。

手足の痺れを解消するために、無意味に身体を動かしパチパチと手の平で叩く。

五感が散漫になって、意識が空気をとがらせていく。

無意識のうちに鼓動が高鳴り、身体の隅々に酸素を供給してはさらに速度をあげていく。



「on your mark」



スターターが発声し、8人の選手がスタートラインに歩み寄る。

1つ、ふっと、息を吐く。

はるか前方を見据えて、大きく深呼吸をする。

のめるように身体を前に倒すと指先でトラックを触る。


茶色の全天候型タータントラックに白のライン。


ざらりとした感触が指先に残り、直ぐに消えて静かに意識と同化していく。

一度、手を放してゴール地点を見る。

もう1つ、息を吐いて、ラインに手をそえる。

軽く肩を動かして、すべて、戦闘準備完了。

ほんのわずかなざわめきを残して競技場が静寂に包まれ、8人のアスリートが固唾を飲む。

 

頭の中は完全に真っ白。

 

全感覚が聴力に集められる。




「set」




乾いた電子音の号砲が鳴り、8人のスプリンターは弾丸のようにはじけ飛んだ。

 

ほぼ、横一線のスタートだった。

低い体勢から力強く大地を蹴りあげる。

小さく速く力強く、加速性能を重視したスプリントで一気にスピードをあげていく。

 

ギアは、ローからセカンド。

そして爆ぜるようにぶわっとドライブフェイズへ。

 

前傾姿勢だった身体が徐々に垂直になっていく。

軸をつくり、身体の真下に着地する。

反発力を生かし、跳ねるように再び猛スピードで脚を振り上げる。

両足の踵が目まぐるしく円運動を繰り返す。

力強くタータンを蹴り上げて、重心を前へ前へと進めていく。


(…っ!)


空間が無になっていく。

時間が無限大になっていく。


音が聞こえているのか、息をしているのかも分からない。

逆巻く風が前方から流星雨のように降り注ぎ、頬をかすめては遥か後方へと消えていく。

運動エネルギーが連鎖的に爆発して、体内に乳酸を残し発散していく。


「5レーンの…、…が…」


場内実況が何かしゃべっているが、ほとんど聞き取れない。

たぶん、僕が先頭だ。

恐るべきスピードで、しかしゆっくりとゴールラインが近づいてくる。



時間が、あたかも時間としての機能を無視したかのようなスローモーション。



もう少しだ、もう少し…。


(いける、このまま)


だが、そのときすっと内側に選手の影が見えた。

ぎくりとした瞬間、反対側の選手も前に出た。

ほとんど差はない。

しかしもう距離がない。

息苦しさと筋肉の限界とを覚えながら、スプリントはフィニッシュの体勢に入った。


(…っ!)


感覚的には、3着だった。

外側、2着に入ったのがおそらく浅田次郎。

そして、堂々10秒23の好タイムで優勝したのは、221番、本間秀二だった。


(…っ)


スピードを緩めて、やがて運動を停止する。

大きく、呼吸をしてゴール地点に戻る。

少し息が乱れて僕はひざに手を付いた。


何人かと握手をして、しばらく待っていると電光掲示板にレース結果が現れた。

1着が本間君で、正式記録が10秒22に訂正されている。

2着が浅田次郎で10秒288、僕はやはり3着で10秒33だった。

 

優勝してもおかしくないタイムだが…。


「おつかれっす」


「あ、お疲れ。おめでとう」


本間君と言葉を交わす。

スパイクを脱ぎ、ジャージを着ると、インタビューを受ける本間君を残してトラックの外に出る。


空気が、乾いていた。

何となく、音が遠くに聞こえていた。

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