088話 女子100m決勝


東京体育館のトラックは、緑のタータンが鮮やかだ。

 

400mハードルの予選があるので、たくさんの選手がアップしていてやや混雑している。

それを眺めながら、僕は一人、隅っこのほうでストレッチをした。


やがて、800mの選手たちが順々に出ていって、少し空いてくる。

僕は邪魔にならないように外側を軽く走り、それから歩きながら休憩。

途中で加奈が来てアップを始めたけど、本間君の姿は見えなかった。

コンコースのほうでアップしているのかもしれない。


「うー、駄目だ、緊張してきた」


例によって、アップの段階から加奈の表情が硬い。


「もうちょっとリラックスしろよ」


「言われて、できるなら、楽じゃない。字余り」


「それもそうだけど」


字は余ってないけど、まあスルーだね。


しばらくやっていると、詩織ちゃんが飲み物を持ってきてくれた。

加奈の緊張が移ったわけじゃないけど、こっちもだんだん緊張してくる。

この感覚は、別に嫌いじゃない。

多少の緊張感がないと力は出せないし、どちらかと言えば心地よい緊張感だ。

よし、やったるぞという気分に近いかもしれない。


緊張というより、集中というべきか。


「どう?」


ミキちゃんが様子を見にきて、僕はただうなずいた。

強めにダッシュをして、軽いドリルをする。

時間をたっぷりかけて、徐々に体を温めていく感じだ。

ものすごく長くも感じられるし、短くも感じられる。

 

ぎゅっと凝縮された、不可思議な時間。

誰にも侵害されない、僕だけの時間だ。


スポーツドリンクをあおると、ぽたりと汗がこぼれる。

身体はもう完全に準備を整えたようだった。

もちろん、心もだ。


「時間?」


時計を見ずとも、分かった。

ミキちゃんが腕時計を見て、それから軽くうなずいた。


「そうね」


「いこうか」


加奈が出ていってから数分後、僕もサブトラックを後にした。

そばに付いてくれているミキちゃんが、ものすごく力強かった。

一度、待機場所に戻ってバッグを背負う。

とにかく体を冷やさないように、こまめに体を動かす。

本間君がいたけど、軽く目でうなずきあっただけだった。


「頑張って」


「うん」


ミキちゃん送り出されて招集所へ。

本間君と2人、定刻どおり、きちんと招集を受けて腰ナンバーをもらう。


女子が先にトラックに出ていって、僕はモニターを見た。

土曜日ということもあって、昨日よりもスタンドが埋まっているようだった。

100mは注目される種目だからなおさらだ。


ゆっくり、呼吸を整えながら紫のスパイクのピンを締め直す。

女子の選手が場内にアナウンスされていた。

加奈が4レーンに入っている。

日本一の大学生を決めるレース加奈がいることが、何だか場違いに思えた。

相変わらず、緊張してガチガチになっている。

予選、準決勝もそうだったが、これで11秒台で走れるのが逆にすごい。


「何かこう、物足りないよなあ」


と、浅田次郎が何か偉そうに語る。


「あれだ、失格になったちょんまげだろ。それとあのでかい変なやつ。やっぱ何かこう、絹山は新見がいないと締まんないよな。浅海杏子も卒業したし、黄金時代は終わったなって感じかな」


前向きに解釈しよう。

ほかの選手には悪いけど、新見がいてくれないとちょっと物足りないね、と。

だから早く復帰してくれないかなあ、ということだ。

きっとそう。そうだよね…。


「男子もさ——」


「おい」


まだ何か浅田が言いかけたところで、本間君が低い声で言ってのけた。


「少し、黙れ」


ジロリと浅田が本間君を睨んだ。

だけど周囲の目もあるので、それ以上の騒動には発展しなかった。

何か、後輩に言わせちゃって申し訳ないです…。


そして女子100mの決勝が始まった。



「on your mark」



その瞬間だけは、僕らは自分たちの準備の手をとめ、モニターに注目する。

その時間だけは、彼女たちに独占権が与えられている。

今のところはまだ、ほぼ平等に。



「set」



号砲と同時に、8人がスターティングブロックをガシャンと蹴って飛び出した。


うわあっと各校の応援が始まり、一気にスタジアムは歓声に包まれる。

加奈は例によってわちゃっとスタートしたが、ほかの選手もいいスタートではなかった。

ときどきある、100mなのにそろりとしたスタート。

そこから、全員がだだだだだっとスピードを上げていく。


新見沙耶がいない。

山田千晶もいない。

おそらく全員が思ったのだろう、大学チャンピオンになるチャンスだと。

とにかく、総じて、硬かった。


ごちゃっと固まったまま、序盤から中盤へと突入していく。

混戦もいいところで、スタジアムが盛り上がる。

誰一人、抜け出すことなく、6人ぐらいが一団となって後半に突入していった。


(あら、あら、あらら…)


加奈はもうあごが上がっているような感じで、ガチガチで、ギクシャクした走りだった。

先頭集団から数名が失速し、3名ぐらいの争いになる。

しかし、最後の最後、5mくらいのところで加奈がちょっとだけ出た。

大きな肉体だけでアドバンテージを奪い、2位の選手を10センチほど退けてゴールする。


「おーっ…」


見ているほうも、微妙な反応。

向かい風0.6m、速報タイムで11秒95と平凡で、そりゃ、反応も微妙になる。

それみたことかという浅田次郎の顔にはイラっとしたけど、まあ、ぐうの音も出ない。


しかしともかく、加奈が公式戦初優勝。

一応、全国にちょびっとだけ名前を轟かせたのだった。

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