084話 浅田次郎との初対決


体を冷やさないように、適度に動かしながら時間をつぶす。


やがて係員に呼ばれ、ミキちゃんと別れて場内へ。

最終コールを行うと、間もなく出番だ。


スタート地点後方へ移動。

紫のスパイクに履きかえて、丁寧にひもを結んで軽くストレッチをする。

気のせいか、湿度が高い。

タータンの上はもやっとしていて、水分が肌にまとわりつくような感じがした。


「新見沙耶って男いんの?」


浅田がどこまでも馴れ馴れしく話しかけてくる。


「さあ」


「へへへ。おれ、狙ってみようかなあ」


「ご自由に」


そうは言ったものの、若干不安になってくる。

まさかと思うが、こんな男だけはやめてほしいと思った。


電子ピストルが鳴って前の組がスタートする。

真っ先にトラックに出て、スターティングブロックを調整した。

軽くダッシュして戻ってくる。

体は軽い。

初参加なので緊張するかなと思ったけど、レーンに出てみるとそうでもないかなと思った。


(そうだよ。そうだよな)


関カレ優勝がどうした。

中学時代の話だけど、僕だって全国を制覇したじゃないか。

中学歴代8位の記録だって出した。

関カレで優勝したからって、どうだっていうんだ。


(ふん…)


そう思ったら、何だか気が楽になった。

何だかんだいって、浅田のことが気になっていたらしい。

関カレ優勝がどうした。


僕だって、仲浜の戻りガツオって呼ばれてたんだぞ…。



「on your mark」



選手紹介が終わると、もうスタートだった。


気のせいか、いつもよりもゴールラインが近く見えた。

風はややフォロー。

願ってもない状況だ。

まだ、音が聞こえている。

 

大きく二度、深呼吸をしてスタートラインにつく。

集中しているので視界が狭い。

そして、だんだん何も聞こえなくなってくる。

外の世界と内の世界が結びついて、張り詰めて、弾ける瞬間を待っている…。



「set」



電子音に、僕はほぼ無意識に反応した。


それはかつてない反応速度だった。

一瞬、フライングじゃないかと思ったがそうではないようだった。

低い姿勢のまま飛び出した瞬間、もう隣には誰もいなかった。

身体が思うように動いているのが自分でも分かった。

全身がすべて鋭敏な指先のようになり、今なら何でもできそうな気がした。


徐々に体を起こしていって、加速区間へ移行する。


足の裏全体で着地して、タータンの反発を利用して弾むように足を振り上げる。

支持脚は伸ばしすぎず、早めに前に出すようにする。

頭で理解し、何度も何度も繰り返してきた練習が、具現化できているような気がした。


軸は、どうか。ぶれていないか。


大丈夫、いける、自分に言い聞かせながらリラックスして終盤へ。

ハムストリングスにはまだまだ余裕があった。

しかし、追いすがる選手はいないようなので、僕は力を残してゴールラインを駆け抜けた。


速報で、10秒29が出ていた。追い風は0.2mだった。


(10秒…、29!)


全身が震えた。


大きく、何度か深呼吸する。

ふくらはぎが少し硬くなっているのが分かった。

新見の声が聞こえたような気がしてスタンドを見ると、最前列で大きく手を振っていた。


正直、まだ、信じられない。

力は入っていなかった。

むしろ楽に走っているような感じだった。

背中に羽がはえていて、スピードを上げれば空も飛べそうな気がする、そんな感じだった。


しかも後半、少し流してこの10秒29だ。


「速いっすね」


「あ、ども」


一緒に走った選手から握手を求められる。

歩きながら適当に何人かと握手をして、またスタンドに手を振った。

相当、舞い上がっているのが自分でも分かった。


スパイクを脱いでジャージを着ていると、一瞬、浅田と目が合った。

まだ予選だし、向こうも全力というわけではないだろうが、侮れぬやつと思ったのだろう。

浅田は無言で辰川体育大学の赤いジャージを着て、さっさと引き上げていった。


「やったな」


「お疲れっす」


ゴール地点の後方で、ジャージを着た高柳さんと本間君が待っていてくれた。

このときばかりは、さすがに、伝統の白と赤のジャージが誇らしかった。

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