081話 感涙


その後も、村上道場のメンバーで練習を続ける。


水分補給をしつつ、僕らは懸命にトラックの上で汗を流した。

すると、1時間くらいたって、千晶さんに連れられて加奈が戻ってきた。


(お…)


ミキちゃんの前まで行くと、加奈はしゅんとした表情で俯いた。

さすがに一応は反省しているらしい。

千晶さんにぽんと腰を叩かれて、丁寧に頭を下げる。


「す、すいませんでした。遅れたのと、突き飛ばしたのと、ひどいこと言ったのと」


しばらく、ミキちゃんは黙ったまま何も言わなかった。

じっと加奈を見て、千晶さんを見て、静かにため息をつく。

それからやっと、小さい声で、アップしてきなさいと言った。


安心して、僕は大きく息を吐いた。

千晶さんが、腰に手を当てたまま走っていく加奈の背を眺める。

おそらくいろいろと諭してくれたのだろう。

ありがたいことだ。


「すみません。先輩を煩わせて」


「いいよいいよ、お客さんじゃないんだし」


「ありがとうございます。私も言いすぎましたから、あとで謝っておきます」


ミキちゃんも、反省しているらしい。

確かに、ミキちゃんの言うことはいつも正しい。

だけど、正しいことを言えばいいとか、事実だから言ってもいいわけじゃないのだ。


「もっと上手に、競技に集中させてあげられればいいんですけど…」


「気が散っちゃうほうだから、なかなか難しいかも」


「調子に乗りやすいタイプですからね…」


みんなの視線が、加奈に向かう。


とにかく、11秒42は調子に乗ってしまうくらいの数字なのだ。

新見が故障中の今。

女子100mに関していえば、インカレ女王に一番近いのは加奈かもしれない。

はしゃぎたくなる気持ちも分かる。


千晶さんが戻っていって、練習再開。

やっと、ぎくしゃくした雰囲気が打ち解けてきた。


「今日のはさすがに、陸上競技ジャーナル載るかな?」


聡志が言ったけど、僕は首を傾げた。


「どうかなあ」


「日本歴代5位だからさすがに載るか」


「どちらにしても来月号だな。巻頭が星島望特集で…」


「それだけは絶対にない」


そんなこと、わざわざ言葉に出さなくても分かっている。

しかし、少しでも可能性を増やすために練習をしていると、稲森監督がやってきた。


何を言うでもなく、離れたところに立って、腕を組んでじっと村上道場の練習を眺める。

ミキちゃんと小声で何か話しているけど、別の意味で怖い。

突然、何を言われるか分からないからだ。


最近は本当、まじめに練習している。

その点に関しては怒られないとは思う。

だけどきっと、また誰かが何か言われるに違いない。

僕じゃないといいな。

転向するとか言ってる聡志だといいな。

そう思いながら口をつぐんで練習していると、突然、監督に呼ばれた。


「おい、星島」


そらきた、僕は思った。

小走りで近寄ると、稲森監督は軽く帽子を脱いで、またかぶった。

額に汗がにじんでいる。


「お前、調子はどうだ」


「調子ですか」


監督の横で、ミキちゃんが何か僕に目くばせしている。

しかし、何のことか分からない。

困っていると、バインダーの紙にさらさらと何か書いて、こっそり見せてくれた。

絶好調、と書いてあった。

よく分からないけど、漠然と分かった。


「絶好調です」


「絶好調か」


「今までにないくらいだと思います」


さすがにちょっと言い過ぎたかも。

そう思ったけど、監督はあごひげを軽く撫でただけだった。


「インカレ、いけるか」


ドキンとした。

まったく答えを用意していなかったので、僕はぶんぶんと頭を縦に振るだけだった。


「いくか」


「はい。いきます」


いかせてください、僕は付け加えた。

監督はしばらく真剣な目で僕を見ていたけど、やがて半分だけ後ろを向いた。


「村上、100mはそれでエントリーしておけ」


「はい」


「100mは、高柳、星島、本間」


「はい」


「それと、余計な知恵を付けるな」


「あ…、すみません」


「知恵付けた責任は取れよ」


ミキちゃんに言って監督は戻っていった。

僕はぼんやりとその背中を見送った。


夢じゃないかしらと思った。

ミキちゃんはバインダーに何か書いていたけど、やがて顔を上げて僕を見た。

瞬きを2つ。

それからちょっとだけ微笑んで、おめでとうと言った。

 

その言葉で、やっと実感がわいてくる。

一気に、この3年間の思いが一気に甦ってきて、恥ずかしい話だが涙をこぼしてしまった。

関カレ、インカレを通じて初の個人種目なのだ。


「ありがとう、ミキちゃん」


今までのことすべてに礼を言って、ジャージの袖で涙を拭く。

ミキちゃんは困った表情を浮かべて、それから恥ずかしそうにぷいっとそっぽを向いた。


「ちゃんと結果出さないと、次に声かからないわよ」


「うん。分かってる、ありがとう」


僕はただ、繰り返した。

この感慨は何なのか、自分でもよく分からなかった。

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