079話 加奈の反乱


部室で着替えて聡志と一緒にアップをする。


日が陰ってきて、若干、涼しくなったような気もするけど汗は止まらない。

夏は暑いし冬は寒いし、屋外のスポーツは大変だ。

でも、もちろんそんなことは言っていられない。

気合だ。


「あちーな」


しかし、気合が緩むようなことを聡志は言った。


「ロシア人は大変だな」


「おうよ。カキ氷おごってくり」


確かに、冷たいのが食べたい。

さっさと練習を切り上げて、学生協に行ってアイスを食べよう。

それがいい。それしかない。


普段ならそう思っていただろうが、今日の僕は違う。

びしっと練習をして、それからアイスを食べるのだ!

それまでは、アイスのことなど一切考えない。

どのアイスにしようだとか、そんなことはこれっぽっちも考えないようにする。

冷たいアイスコーヒーのこととか、脳裏から追い出してしまおう。


ずっとそんなことばかり考えながらアップをして、いつものように全体練習へ。

明日がオフなので、今日はわりとハードなメニューだった。

反復ドリルが大変で、途中で音をあげそうになった。

でも、1年生も黙々とやっているのに、3年生の僕がだらしなかったらしょうがない。

びしっとやってやったつもり。


「うー、もうやだ、疲れた」


弱音を吐いて、真っ先にやめようとしたのは、4年生の高柳さんだった。


「黙ってやれよ」


「ちょっと休憩して、学生協行ってアイス食わね?」


「ふざけんな!」


荒川さんに蹴飛ばされて不承不承続けるが、どうにも情けない。

そういうことは、思っていても口に出してはいけないのだ!


ドリルを終えて、少し休んで、今度は村上道場のメンバーでトレーニング。

僕と聡志と真帆ちゃんしかいない。

とりあえず、3人で1500mを1本走ることになった。


「ちぇっ。けだものと一緒かあ」


真帆ちゃんに毒づかれる。

あの夏合宿以来、そういうふうに呼ばれている。


例の件は、とりあえず、あれだ。

僕と杏子さんと水沢さんが酔っ払ってキスごっこをしたということになっている。

事実とはちょっと違うけど、客観的に見ればまあそんなようなものだろう。


それにしても、あれはよかった。

ときどき、思い出しては反芻している。


「そんな口を聞く悪い子は…」


「触らないでくださーい。ちょっとでも触ったら、セクハラで訴えまーす」


「くっ…、この、侍娘!」


「朴念仁トレパンフェチ!」


「ち、ちょんまげスプリンター!」


「変態!女の敵!最低男っ!」


「くっ、ええと、ええと…」


罵り合っていると、記録会に行っていたメンバーが帰ってきていた。

ミキちゃんがこっちに向かって歩いてきて、途中、詩織ちゃんと一言二言話した。

いつも以上に仏頂面。

あまり機嫌がよくないのかなと思ったけど、そうではないようだった。


「暑いわね」


「あ、うん」


長髪なだけ、他人より暑いのかもしれない。

バインダーで自分を仰ぎながら、僕たちを見回した。


「練習は?」


「今から1500m走るとこ」


「そう。みんな来るまで待っててくれる?」


「了解」


記録会に行っていた、宝生さんと織田君、ベースマンが部室から出てくる。

一応、軽めのアップでトラックを2周回ってきたので、ストレッチを手伝ってあげた。

真帆ちゃんは宝生さんを担当したが、僕の悪口をわざと聞こえるように言っていた。


半ば冗談だと思っていたんだけど、実は本気で怒っているらしい。

別に、僕だけが悪いわけじゃないと思うんだけど。

そもそも、僕と水沢さんがキスしたところで、誰に迷惑かけてるわけでもないし。

悪いわけでもないし…。


ちなみに、織田君は今日、11秒03だったようだ。

惜しいというか微妙に10秒台が遠い。


「でも、着実に力付いてるっす」


「そうだな。シーズン中にいきたいな」


「10秒台出したら何かお祝いしてくださいね」


「お、おう…」


アイスクリームって言ったら怒るだろうか。

中学生じゃないもんな…。


それから、しばらく待っていたんだけど、加奈が出てこない。

手持ち無沙汰になって、織田君はベースマンと、僕は聡志と。

宝生さんは真帆ちゃんとペアになって腹筋100回を始めた。

最近は、体幹を鍛えるために、暇さえあればひたすら腹筋をやっている感じだ。

 

毎日、かなりの回数をこなすので、女性陣までお腹の筋肉がかなり割れている。

いや、別に僕から覗き見たわけじゃなくてね。

前に、真帆ちゃんが自分から見せてくれたんだからね。

変態じゃないですからね。


それも終わって、ついでに腕立て。

それが終わりかけたころ、ようやく、加奈が1年生の女子とおしゃべりしながら出てきた。

何か楽しそうにキャッキャと笑っている。


(嫌な予感…)


チラリと見ると、予想どおり、ミキちゃんの眉毛が派手に持ち上がっていた。


腕組みをしてじっと加奈を睨みつけていて、気付いた加奈の顔から笑顔が消える。

1年生の女の子は、あっという間に霧散。

加奈は小走りで駆け寄ってきたけどおっかなびっくりだった。


「すぐに出てきてって言わなかった?」


ミキちゃん、久々に本気で怖い。


「あ、あの」


「言わなかった?」


「い、言いました。言われました」


「先輩たち待たせて何してたの?」


「ご、ごめんなさい」


「何してたのって聞いてるの」


加奈は何も言わなかった。

何も言えなかった、というべきかもしれない。

顔を真っ赤にして、じっと立ち尽くしている。


「練習中は集中しなさいって、何度も言わなかった?」


「…」


「何回、同じこと言えば分かるわけ?」


「…」


「学習能力ないのかしら。何遍言っても走り方は直らないし」


毎日毎日、加奈がミキちゃんにあれこれちくちく怒られていたのは知っていた。


この2人は、出会いからして問題があったのかもしれない。

加奈は最初からミキちゃんが嫌いだった。

今までずっと我慢はしていたようだが、今日、ここでそれが限界点に達した。

いきなり、加奈がどしんとミキちゃんの肩を突き飛ばしたのだ。


「それならっ、自分で走ればいいじゃないですかっ!」


ミキちゃんがよろけて、尻もちをつく。


「…っ」


その場の空気が、一瞬で凍り付いた。


血の雨が降ると思って、僕は慌てて立ち上がった。

真帆ちゃんは驚いた表情で口を開け、宝生さんは慌ててその後ろに隠れた。

ベースマンが珍しく狼狽してキョロキョロし、織田君はうつむいて耳をふさぐ。

聡志にいたっては、そうっとこの場を去ろうとした。


しかし、当のミキちゃんは、無表情に黙って加奈を見上げているだけだった。


沈黙が訪れる。

数歩、近付いて手を伸ばしたけど、ミキちゃんは黙って一人で立ち上がった。

ジャージに付いた草を小さく払う。

怒っているのかと思ったら、眉毛は真っすぐのままで、瞳はどこか哀しげだった。


「私だって…、走れるならそうしたいわよ」


静かに言う。

誰も、何も言えなかった。


しばらく、加奈は顔を真っ赤にしてその場に突っ立っていた。

しかしやがて、目に涙を浮かべ、その場を走り去った。

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