059話 衝撃のデビュー



今現在は、まだ誰も、スプリンター前原加奈の名前など知るまい。


だけど今から数分後、その姿は驚愕とともに観客の脳裏に刻まれるはずだ。

そのとき、われわれは高らかに宣言するだろう。

彼女こそ、わが絹山大学陸上部のリーサルウェポンだと…っ!


「何か…、緊張してるみたいですね」


愚かにも、その秘密兵器を金子君はそう評した。

金子君はインハイ4位の選手だが、所詮は高校レベル。

日本選手権準決6位の僕から見たら、まだまだヒヨッコだ。


インターハイは出たことないですけどね…。


「バカいえ。いくら何でも、予選の段階でそんなにガチガチにはならないだろ」


「でもほら、ガチガチですよ」


「まさか。そんなことには、普通は…」


「じゃあ、普通じゃないってことですか」


「そうだな」


僕はがっくりと肩を落とした。

 

誰が見ても分かるぐらい、加奈はガチガチになっていた。

それも尋常の硬さではない。

スターティングブロックを調整して、何もせずに後方に戻って直立不動で立っている。

どこを見ているのか、視線は斜め上空の一点で、まるでマネキンのようだった。


「どこ見てるんですかね…」


「UFOでも飛んで…、ないな」


得意のスタートで失敗しないか心配だ。

いきなりフライングで失格にならないといいが…。


「初めてだからなあ」


心配そうに聡志が言うと、金子君が納得した表情でぽんと手を叩いた。


「経験ないんですっけ」


「そそ」


「すごいなあ。初めてが関カレか。さすがだなあ」


金子君のよく分からないおべっかはともかく、だ。

初めての大会が関カレで、国立競技場の大舞台で、緊張しないほうがおかしい。

 

僕も、初めて大きな大会に出たときには、真っ白になってフォームもくそもなかった。

ある程度、緊張しないといい結果は出せない。

しかし、初めてなので緊張をコントロールする方法も知らなかったのだ。


「on your mark」


選手紹介が終わると、ぎくしゃくしながらスタートラインに付く。

本人はその気はないだろうけど、ロボットダンスを見ているよう。

 

スターティングブロックは調整したはずだが、妙に窮屈。

どうにも縮こまっている。

さすがに首を上げてゴール地点を凝視しなかったけど、どこか見覚えのある光景だ。


「set」


号砲がなった途端、加奈はぴょこんと立ち上がって、僕たちはがくっとずっこけた。

「わちゃっ」という声が聞こえてきそうだった。


電撃スタートどころか、あっという間にほかの選手に2mほど差を付けられる。

焦ったのか、ドタバタとばらばらのフォームで追いかけていく。

これはおそらく、関カレ史上、最もひどいフォームだ。

びっくり。

関カレって素人でも出れるの?っていう。

陸上をまったく知らない人でも、そりゃないよって分かるレベルの走り方だ。


だけどあれこれ心配する暇もなく、加奈は30mぐらい走ったところでぴょーんと跳ねた。

右の太ももを押さえながら片足でぴょんぴょん跳ねて、ずでんとトラックに倒れ込む。


「あっ」


「ああっ…」


「やっちゃった…」


肉離れだろうか。

タンカが運ばれてきて、加奈はそれに乗せられてトラックの外に消えていった。

こうして、前原加奈のデビュー戦は、とてつもない衝撃を与えて終わったのだった。

観客と、我々に。


「ああ。リーサルウェポンが…」


聡志がため息をつく。

 

リーサルウェポンは、不発弾だった。

すごろくでいうと、これで一回休み。

しばらくは出番がないだろう…。


「靭帯とか腱じゃないといいですけど…」


さすがに、金子君もおべっかを言っている場合ではなかった。


「肉離れかな?」


「軽いといいですね。いいですねっていうと変ですけど」


みんなで待機所に行ってみたけど、真帆ちゃんと新見と千晶さんが座っているだけだった。

加奈はまだ医務室らしい。

様子を見に行っていた詩織ちゃんが戻ってきたので聞いてみると、やはり肉離れのようだ。

よく分からないけど、緊張しすぎて筋肉まで硬くなっていたのかもしれない。

スタンドから見ても分かるぐらい、ガチガチになっていたせいだろうか。


「真っ白になってたもんなあ」


「ああいうときは、ぱっと手挙げて仕切り直せばいいんだけどね」


新見はそんなふうに言った。


「まあ、手挙げるのも勇気いるんだけど」


「ふうん。手挙げて何て言うの?」


「何って、雑音が気になるとかコンタクトがずれたとか、ひもがほどけそうとか、何でもいいんじゃない?虫がいたとか」


「なるほど。勉強になります…」


「まあ、仕切りなおしたところであれじゃあ絶対駄目だけど」


ざっくりと新見は言いました。

そのとおりです、はい。

僕のせいじゃないけど、なんかごめんなさい…。


「もうこうなったら、千晶さん、あとは頑張って!」


言ってみると、千晶さんは無言で少しはにかんだ。

何人か速い選手はいるけど、千晶さんなら優勝も十分可能だろう。


しばらく待っていると、ミキちゃんに付き添われて加奈が戻ってきた。

さすがに落ち込んでいるのか、しょぼんと肩を落としている。

目も合わさずにシートの上に腰を下ろして顔を伏せてしまったので、声をかけることもでき

なかった。


膝を抱えて小さくなっているけど、まあ、でかいです。


「具合、どうなの?」


尋ねると、ミキちゃんは髪をかきあげながら軽くため息をついた。


「大したことないわ。全治3週間ってところかしら」


「そっか」


「少し疲労がたまってたみたいね」


「いつも無理してるから」


「星島君も無理しないでね」


久しぶりに優しい言葉をかけられた気がする。

 

内心、ちょっと喜んでいると、後ろからいきなり背中をばしばしと叩かれた。

ちょんまげ頭の真帆ちゃんが膨れっ面をしている。


「あたしもまだ残ってるんですけど」


「あ。そうだっけ。走ってた?」


「走ってたでしょ」


「そっか。ちっちゃくて見えなかった」


「背のこと言うなあっ!この朴念仁!」


「ふーん。あ、こんなところに電信柱」


ぐりぐりとちょんまげを引っ張ると、真帆ちゃんは慌ててじたばたとした。


「ピョーッ!そこにミンミンゼミはとまりません!」


みんなが笑ったけど、加奈はずっと顔を伏せたままだった。

経験上、こういうときはそっとしておいたほうがいい。

みんなそれを分かっていて、誰も加奈に近付こうとしなかった。


ちなみに、男子4Kの予選は、高柳さんと石塚さんのところでバトンを落とし、失格。

僕の初めての関カレは、加奈と同様、初日であっさりと終わったのだった。

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