055話 ちょんまげ娘と巨娘



寝坊した。南関東大学記録会の日だ。


レースが11時15分なのに、起きたのが10時15分。

レースが11時15分なのに、起きたのが10時15分。

10時15分。

10時15分!


携帯を見ると聡志からの着信履歴が大量にあった。

数え切れないほどのメールが入っている。


「ひいいいい」


慌てて準備をして、曇り空の下、駅までダッシュで走っていって地下鉄に飛び乗る。

東西線に乗って3駅。

絹山競技場前で降りて走っていくと、サブトラックの手前で絹大のジャージを見つけた。

マネージャーの詩織ちゃんだった。


「ね、ね、寝坊したああっ」


「もう招集終わってますよっ!」


詩織ちゃんも慌てていて、急げ急げと手招きをした。


「ひいいいい」


「はいっ、目覚ましっ」


「あ、ありがと」


そんなの食べてる暇はないけど、ハッカ飴をもらって、急いで一緒に招集場所に向かう。

もう招集時間をだいぶ過ぎていたけど、ぎりぎりで何とかおまけしてもらった。

競技会だったら招集に遅れたらアウトだが、ゆるい記録会なので助かった。

うちの部が毎年参加している記録会なので、大目に見てもらえたのかもしれない。


「た、た、助かった…」


「早いとこアップしてください!」


サブトラックに向かうと、聡志と織田君がいた。

金子君と真帆ちゃんもいて、そろって呆れ顔だった。


「寝坊したーっ」


「何回電話しても起きねえんだもん」


「深夜にロシア映画が…」


「そういうのはいいから!」


聡志にまで怒られて、慌ててアップをする。

僕は第3組で、スタート直前に最終コールがあるので、実質あと10分ぐらいしかない。

とにかく体を温めて、ストレッチをしたらもう出番だ。


「あわわわわ」


「何やってんだか」


ぶつぶつ言いながらも聡志がストレッチを手伝ってくれた。

こんなに急いでアップしたことなど過去にない。

ともかく、どたばたとサブトラックを走り回った。


時間になって、競技場に向かう。

スタートライン後方で最終コールを行って、ほっと息を吐く。

ドタバタしていて、だいぶ準備不足の感は否めないが、とにかくレースだ。


「set…」


あっという間に号砲が鳴って、走って、ゴール。

記録会だから順位は関係ないけどとにかく1着で、速報タイムが10秒52。

向かい風0.5m。


何か、いろいろこう…。

どうだろう。

ああもう、どうなんだろうという感じだ。


慌てて挑んだわりにはいいような気もする。

1年間練習して自己ベスト出せないのもあれだ。

でも、向かい風を考えたらこんなもののような気もする。

とにかく、すっきりしないなあという…。


「お疲れ」


先に走っていた聡志に迎えられる。


「つ、疲れた…」


「だろうな」


たぶん、あとからミキちゃんにしかられるだろう。

憂うつだったけど、最近説教もしてくれないので、久々にされたいような気もする。


「あとでたっぷり、叱られろ。ビシビシってムチで打たれるぞ」


聡志はそんなふうに言った。


「誰に?」


「ミキちゃんにだよ」


「え、ミキちゃんって怒るとムチで打つの?」


「打つ打つ。鬼のような顔をして打つ。女王様だもん」


「女王様だったんだ」


「SMクラブでバイトしてるからな」


「ふーん」


言質、とりました。あとで密告してやろう。

織田君と金子君が走り終わるのを待って、サブトラックで一緒にダウンをする。

タイムはみんな、あまりいいものとはいえなかった。

やや肌寒くて、コンディションがいまいちだったせいもあるかもしれない。

そういうことにしておこう。


気のせいか、少し空気が湿っているなと思っていたら、ぽつぽつと雨が降ってきた。

空を見上げると、黒い雲が徐々に西から流れてきていた。


「わ。降ってきた」


「戻るか」


本降りになってきたので慌てて競技場に戻り、屋根つきのスタンドに避難する。

女子の100mが始まっていて、やがてちょんまげ頭の真帆ちゃんが出てきた。

大粒の雨に打たれて大変そう。

でも、全天候トラックなので、ちょっとやそっとの雨では中断にはならない。


「風も巻いてるなあ」


「よかった。走ったあとで」


真帆ちゃんは雨の中を疾走し、先頭でゴールして堂々の11秒95だった。

このコンディションでこのタイムだったら満点だ。

 

インターハイで3位。

先輩方をさしおいて、100mと4Kで関カレの代表にも選ばれた。

なんか、畑に植えられたネギみたいなちょんまげ頭で、どこにいても目立つ。

きっと、将来的には絹山大学のエースとなっていくだろう。

ちょんまげは関係ないか…。


「お、加奈ちゃん出てきた」


聡志の言葉にスタート地点に視線を戻すと、女子の最終6組が始まるところだった。

いよいよ、レースデビューだ。

スタンドから見ても加奈の体躯は堂々たるもので、凡百のスプリンターに比肩する者はなさそうだった。

真帆ちゃんが未来のエース候補なら、加奈は絹大の秘密兵器といったところである。


(うぬ)


それはそれとして、降りすぎだ。

雨勢はどんどん強くなっていた。

観客席のいすがバタバタと大きな音を立てている。

係員が何人か集まって相談していたけど、すぐに戻ってきてスタートの準備を始めた。

最終組が終わったら、一時中断するとのアナウンスが流れる。

ともかく女子100mまではやってしまおうということだろう。


「うひ。冷て」


聡志が奇声を上げる。

横殴りの雨が屋根の下に退避している人間にも襲ってきて、僕たちはずりずりと後退した。

雨というより、これはもう春の嵐だった。


「set」


そんな最悪のコンディションの中、号砲が鳴って選手が一斉に飛び出す。

この状況でも、加奈のスタートは抜群だった。

そして加速性能もほかの選手とは段違い。

一気に先頭に立つとぐいぐい後続を引き離していった。

技術的にはまだまだ不完全だけど、とにかくもうフィジカルがすごいのだ。


「こりゃ、本物だなあ」


つぶやくように聡志が評して、加奈は初の公認レースを悠々の勝利で飾った。

この雨と向かい風1.0mの中、11秒62と素晴らしいタイムだった。


「おおおおおっ…!」


後から記録を見たら、11秒62、向かい風1.0mと残るだけだ。

しかし、現場にいてこそ分かるこのコンディション。

この記録は驚異といってもいい。


「すげえっ…!」


「すごいな。誰だ?」


「絹大だ」


周囲の見知らぬ人からも、称賛の声が漏れる。

おそらく、来月号の月刊陸上競技ジャーナルのランキングには載るだろう。

見慣れぬ名前が突然ランキングの上位に現れたら、ぼつぼつ注目されはじめるに違いない。

11秒62で走ることのできる選手は、今現在、日本には何人もいないのだ。


「加奈さんって、高校どこだったんですか」


1年生の金子君が不思議そうに聞いた。

このくらいのタイムで走れる選手を、今まで知らなかったことが不思議だったのだろう。


「知らない。たぶん、チュニジアの高校」


「ははは。星島さん、面白いなあ」


愛想笑いをされた上におべっかを言われる。

冗談だと思ったらしい。

いくら僕でも、そんなつまらない冗談は言わないのだ。

少なくとも本人はそう思っている。

もうちょっと面白いことを言います。


みんながどう思ってるかは知らないけど…。


「去年、インカレ出てないですよね」


「うん。陸上始めたの去年だから」


「ははは。またまた、星島さんってば冗談ばっかりぃ」


金子君、将来、出世すると思う。

おべっかを使わせたら絹大ナンバーワンだ。


「チュニジアからの帰国子女なんだよね」


「ははは…、え、マジでですか?」


「マジなんだな、これが」


「ふやーっ!」


金子君が変な声を上げる。どこに感心したのかは分からない。


「すごいなあ。こんな秘密兵器がいたんですね」


金子君がそんなふうに言って、聡志は大きく頷いた。


「うむ。秘密兵器と書いてリーサルウェポンと読む」


「ロシアの秘密組織の人間もいるけどな」


「いっねーからっ!」


相変わらず、聡志はへたくそだった。

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