053話 春の珍事


4年生が卒業して、4月になり、大方の予想を裏切って僕は無事に3年生になった。

入学式が終わり、新入生向けのオリエンテーションや新歓などの学部ごとの行事も終わって、落ちついたころになると今度はサークルの勧誘が活発になってくる。

わが陸上部にも期待の新入生が入ってきて、短距離ブロックは7名増えた。


今年も精鋭ぞろいで、僕も負けていられない。

ちなみに、新キャプテンには十文字仁が選ばれた。

200mが専門だが100mでも10秒3台のベストタイムを持つスプリンターだ。


ただし陸上部内では影が薄い。

噂では、高柳さんがあみだくじで決めたとかどうとか…。


「なあなあ。あれどうなんだよ」


練習前、着替えてトラックに出るなり、憮然とした表情の聡志に袖を引っ張られた。

 

2年生に進級した、ポニーテールのマネージャー、詩織ちゃんが困惑している。

目の前に、ずらりと女の子が並んでいたからだ。

あれが全部マネージャー志望らしい。

13人…、14人いるだろうか。


「多すぎね?」


聡志は言って首をひねった。

確かに、あれは多過ぎる。


「でもまあ、ここはロシアとは違うからなあ…」


「ロシアでもベラルーシでも山梨でも、多いものは多いんだよ!」


聡志が地団太を踏み、例によってバカ話をしながらアップを始める。

季節は春。

今年は世界陸上もオリンピックも開催されないので少し寂しいが、待ちに待ったシーズンの開幕だ。

今日はいよいよ、伝統の部内春季トライアルが開催されることになっている。


「おはようございます」


第2コーナーを抜けていったところで、ピットにいた水沢さんにあいさつされた。

例によって二枚目で、ぐるりと女子に囲まれている。

例年、入部してくるフィールド専門の選手は男女合わせても2、3人だ。


しかし今年は、女子走高跳だけで6名もいる。

経験者なのか、ちゃんと跳べるかどうかは知らない。

おそらく水沢さん目当てなのだろう。

マネージャーもたぶんそうだ。


「いいなあ、女の子に囲まれて」


心底、羨ましそうに聡志が呟いた。

僕たちがああいうふうにちやほやされることは、おそらく一生ないだろう。


「で、本多は?」


いきなり聡志が半泣き顔でゆさゆさと僕の肩を揺らす。


「ホンダ?」


誰だっけ。

僕は首を捻ったが、もちろん僕の記憶力では誰のことなのかさっぱり思い出せない。


「本多由佳里!女子800mの若き女王!」


「ああ」


言われて、やっと思い出した。


「あのきれいな子ね。高校卒業したんだっけ」


「うちに入ったんじゃねえの?そういう流れだったじゃん!」


「どういう流れかは知らんけど、鳥羽化学かどっかに入社したんじゃなかったっけ?」


「何だよもう!期待してたのに!」


そもそも、中・長距離が強いわけでもない絹大など選択肢に入っていなかったはずだ。

亜由美さんじゃあるまいし。

それに、いくら期待しても、聡志の思うような展開にはならないと思う。


「せっかく付き合おうと思ってたのに!」


「ははは。日本語で付き合うの意味、まだ理解してないんだな」


「しとるわいっ!」


わめく聡志と一緒にアップを終えて、体を動かしながらトライアルの開始を待つ。


久しくタイムは計っていないが、調子は悪くない。

まだまだ、自分でも技術的に足りないところは多いと思う。

だけど、去年のトライアルよりはいいタイムで。

できれば10秒40前後で走りたいと思った。

そのくらいならいけるかもしれない。

自己ベストが10秒49、セカンドベストが10558から、妥当な目標だといえよう。


(2年生はともかく、1年生には負けたくないなあ…)


今年の新入生は、全体的に小粒のような気がする。

顆粒程度の僕が言うことではないが、去年は本間秀二がいたので、どうしてもそれと比較してしまうのかもしれない。


本間君は今、自己ベストが10秒28。

むろん、新2年生としてはかなりの速さで、今年は世界ジュニアに出るとか燃えている。

頭が上がらないが、本間君で耐性が付いたので、多少速い1年生ではもう驚かない。


「はあ。みんな速いんだろうなあ…」


ぼんやりと呟いたのは、仲浜高校の後輩、織田君だった。

サッカー部から名門の絹山大学に入ってきた変り種。

頑張ってはいるが、生え抜きにはなかなか追い付けないようだ。


「でも、10秒台で走れたら自慢できるっすよね」


動機は人それぞれだが、聡志が自信満々に大きくうなずいたのが気になった。

お前もそうだったのか…。


「飲み屋のお姉ちゃんにもバッチリ自慢できるな」


「ロシアの飲み屋ってウォッカばっかりすか?」


「ロシアじゃなくてベラルーシ!じゃなくて山梨!」


そんな聡志のベストは確か10秒58ぐらい。

ちなみに、一番速い1年生でも自己ベストが10秒53だ。

埼玉星明の金子光輝君。去年のインハイで4位だったらしい。

勝ってる!とか思ったけど、気休めだ。


世界との戦いではなく、日本のトップとの争いでもなく。

全国の大学生との切磋琢磨でもなく。

部内で2つも下の後輩と小競り合いしているというのは、あまりにもレベルが低いかも。

そりゃ、うちのスプリントはレベルが高いけど、ここで抜け出さないとどうにもならない。


「よーし。今日は11秒台出しますよ」


真帆ちゃんが、ちょんまげ頭を揺らし、きりっとした表情で力強く宣言する。

後ろから、女の子にちょんまげをさわさわ撫でられているけど、お構いなしの表情だ。


「目標は、11秒50!」


「おお」


11秒50は、新見不在の今、日本のトップを争える記録だ。

実現できるかどうかは別問題として、それを目標にして、口に出せるということはすごい。


「よーし」


僕も、と思ってぎゅっと拳を握る。


「では、そろそろ始めます」


だけど、僕が目標を口にする前に、無表情のミキちゃんが宣言した。

 

100mのタイムをとるのは男女合わせて14人だ。

タイムの近い者同士でペアを組み、2人ずつ走る。

ほかの種目もあるし、スムーズに行わなければならないので、マネージャーの腕の見せどころだ。


「最初が高柳さんと荒川さん、次が石塚さんと小原さん。あとはこの組み合わせを」


スピーカーの上に、ミキちゃんがポンとバインダーを置いた。

みんなそれを覗き込んで、順番を確認して離れる。

少し待ってから僕も確認してみると、4番目で、本間君と一緒だった。


(うーむ…)


誰が決めたのか知らないが、これはプレッシャーをかけてくれる組み合わせだ。

持ちタイムで負けているのは分かっていても、後輩に直接対決で負けるのは嫌である。

陸上は勝ち負けがはっきりしているスポーツだからなおさらだ。


(むーん…)


悶々としながら準備をする。

スパイクをはいている間にどんどんと順番が進んで、すぐに僕たちの番がやってきた。


「よろしくっす」


「うん」


本間君はかなりリラックスしているようだ。

僕のほうがちょっと気負いすぎているかもしれない。

背筋を伸ばしながら大きく深呼吸して、僕はミキちゃんを見た。

一瞬、視線が合ったけどミキちゃんは何も言わなかった。


「位置に付いて」


軽く息を吐いてスターティングブロックにつく。

 

何だか心がざわめいて安定しない。

こんなんじゃ駄目かな、などとのんきなことを考えているうちに、そのときは迫ってきた。


「用意」


電子音が鳴って、本間君と同時に飛び出す。

 

スタートは本間君に遅れをとった。

反応が鈍すぎる。

だけど、リアクションタイムの重要性はせいぜい5%だ。

それより、加速のほうが何倍も重要だ。

去年の僕だったらここで、出遅れたことに慌てて、ばたばたと力んでしまっていただろう。

だから、そんなふうに思えただけでも素晴らしい進歩だった。


前方から大気の壁が襲ってくる。

本間君より少し遅れているけど、まだほとんど差がない。

体を徐々に起こしていって、やっとドライブフェイズに突入する。

ひざの角度とか、蹴り足のこととか、そんな細かいことを考えている余裕はない。

練習で繰り返してきたスプリントができているかできていないか。

走っている最中の僕に判断できるのは、せいぜいそのぐらいだ。


(できてる…?)


半分くらいしか、できていないような気がする。

いつの間にか、少し自分のほうが前に出ているのは分かった。

だけどそこには何の感情もなくて、ずっとフラットだった。

ただ何となく、ミキちゃんのいろいろな言葉だけが思い出された。


(まだだ)


まだまだ、練習が足りない。

走りながら僕はそれに気が付いた。

やっと、スプリントというものに対して片目が開いたような気がした。


「星島さん、10秒36、秀二くん、10秒41」


ゴールラインを駆け抜けると、詩織ちゃんがタイムを読み上げた。

かなりの好タイム。

走り終えていた選手からどよめきが起こる。


「おーっ!星島すげえじゃん、ドーピング?ドーピングだろ?」


例によって高柳さんが大騒ぎしたけど、僕は適当にあしらった。

未公認とはいえ、10秒36で走ったのだから少しは喜んでもいいのかもしれない。

だけど、うれしいことはうれしいけど、去年の10秒49のほうがうれしかった。


(あれじゃあなあ…)


タイムはよろしい。

公認はされないけど初めての10秒3台だ。

これは万歳をしてもいいだろう。


だけど、内容は決して褒められたものじゃない気がする。

いくら苦手といってもスタートは遅れすぎだし、フォームもまだまだ。

いまいちスピードに乗り切れなかった。

それに後半、だいぶばてて腰が浮いてしまった。

それが、自分でも分かった。


稲森監督が言ったように。

人任せではなく、課題が自分でも理解できると、面白くなってくる。

体を起こして、スタート地点にいるミキちゃんを見る。

こんなところで満足するわけにはいかない。

ビデオを撮っているから、あとでミキちゃんに見せていろいろ聞いてみようと思った。

ミキちゃんの力を借りて、2人でハードルをクリアしていきたいと思った。


(うむ)


ふられて以降、まだぎくしゃくした関係だけど、この際、ふられたことは忘れよう。

忘れたい。

忘れさせてください…。


また思い出して、ウジウジと悩んでいる間に、どんどんと選手が走ってくる。

聡志は10秒58。

織田君は11秒03で、10秒台まであとちょっと。本人も悔しそうだった。


「お。千晶だ」


高柳さんの言葉に、僕はスタート地点を見たけど遠過ぎてよく見えなかった。

だけど、右のレーンに立っているどでかい選手が誰なのかはすぐに分かった。

そもそも、女子100mで185センチもある選手なんて、日本には何人もいまい。


「加奈ちゃんと走るの?なんで?」


「知らん」


高柳さんの荒川さんのやりとりを聞きながら、僕も同じことを思った。


(あ)


何となくぼんやり見ていたけど、僕は立ち上がってトラックの中央へ向かって走った。

加奈の電撃スタートが、日本トップクラスの選手にどれだけ通用するのか。

横方向からしっかり見たいと思ったからだ。


やがて、電子音が鳴って2人が飛び出す。

スタートは完全に、加奈の勝ちだった。

リアクションタイムの平均だけを比べたら、世界トップクラスかもしれない。


(すげ)


思わず感心したけど、それは間違いだった。

素晴らしいのは、リアクションタイムだけではなかったからだ。

スタートからの加速も申し分ない。

10mを走るうちに50センチも差をつけて、そのままの勢いで体を前方に運んでいく。

大きくて回転の速いストライドはまったく衰えない。

中盤を過ぎても、じりじりと千晶さんを引き離していった。


「おいおい…」


思わず声に出してしまった。

春先で、千晶さんの調子がいまいちなのかもしれないが、そういう問題ではない。

結局、1mほどの差を付けて加奈が先着したのだ。


「加奈ちゃん、11秒73、千晶さん、11秒84」


大きなどよめきが、そこにいた全員から起こった。

千晶さんは、ひざに手を置いてしばらく顔をあげようとしなかった。

反対に、加奈は空を見上げて、その頬は鮮やかに紅潮していた。

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