050話 浅海杏子


次の日、部活に行くのが本当に嫌だった。


昨日までは、なんだかんだいって、毎日練習するのが楽しかった。

それがたった1日で逆転してしまっていて、もう何日か休んでしまおうかとも思った。

だけど、休んだらきっとミキちゃんが余計に気にするだろう。

そう思って、寒い中、少し遅い時間に重い足を引きずるようにしてトラックへ向かった。

しかし、何てことはない、ミキちゃんの姿がなかった。


ミキちゃんには悪いけど、ほっとして部室に向かう。

一人、着替えて出てくると、杏子さんが真面目な顔で僕のほうに歩いてきた。

別に、杏子さんには何も悪いことはしていないのに、ちょっとどきりとした。


「遅かったじゃん。何してたの」


「あ、いえ、別に」


「今日はちょっと早めに終わってさ。みんなで沙耶のお見舞い行こ」


「ああ…」


お昼にもう行ってきたと言おうかな。

でもそんなのすぐにばれると気が付いて、僕は黙った。


杏子さんは、何度かまばたきをして不審そうな顔をした。

ぶるりと震えてから腕をごしごしと擦る。

雪は少し残っているぐらいだったが、曇り空で、寒い日だった。


「どしたの。何かあった?」


「いえ、何もないです。行きますよ」


「そっか。そのあとご飯行こ」


「うん。ミキちゃんはまだ来てない?」


「ん、さっきまでいたよ。えっと…」


「あ、いや、探さなくていいです」


「ん?」


杏子さんはじっと僕の顔を覗きこんだ。


「ケンカでもした?」


「そういうわけじゃないけど…」


「けど?」


「いや、別に用事ないんで」


「ふうん…」


疑わしい顔をしていたけど何とかごまかせたらしい。

何やら監督に呼ばれて、杏子さんは練習に戻っていった。


だけど、ほっとしてアップを始めたところで部室からミキちゃんが出てくるのが見えた。

決して悪いことはしてないんだけど、やっぱりちゃんと顔を見ることができなかった。

もちろん、顔を合わせづらいのはミキちゃんも同じだろう。

一瞬、目線が合ったけどミキちゃんは何も言わなかった。


心臓が締めつけられるようだった。

前みたいに…。

今までどおりにというわけにはいかないだろうけど、僕は思い切って声をかけた。


「ミキちゃん、おはよ」


「うん」


ちょっとだけ僕のほうを見たけど、ミキちゃんはすぐ僕に背を向けて歩いていった。

とにかく、僕は、昨日一日で、いろいろなものを失った。

 

その代わりに与えられた、巨大な罪悪感。

新見にもみんなにも申し訳ない気持ち。

居場所がない、いたたまれない感じ。

ミキちゃんにフラれて悲しい気分。

何だかもう、あれこれミックスされすぎて自分でもよく分からなかった。


とにかく、どん底の中、トボトボと一人でアップをする。

力なく、ぼんやりと体操をして、芝生の上に座り込んで一人でストレッチ。

もういいや。

顔も出したし帰ろうかなと思っていると、誰かがそっと背中を押してくれた。

織田君だった。


「あ。あんがと…」


「星島さん、大丈夫っすか」


「うん。大丈夫」


話してみる前は、軽薄そうで、高柳さんみたいで何となく気に要らないと思っていた。

でも、織田君は意外といいやつだ。

いつも場を和ませようと口数が多いから、軽薄そうに見える。

しかし実はものすごくナイーブで、誰よりも空気を読んでいる。

高柳さんとは大違いだ。


「大丈夫っすよ。また走れるようになりますよ」


察して、織田君はそんなふうに言ってくれた。


「うん」


「ああいう事故は、武士みたいな人か、特殊訓練でも受けてない限り防げないっす」


「うん。そうだね…」


「おれらはおれらで、とにかく頑張りましょう」


「うん…」


またちょっと、涙が出そうになった。

今は、織田君の優しさも、痛かった。


今日はもう、トラックの雰囲気が重かった。

全体練習のあと、何となく居場所がなくて、僕は逃げるようにトラックを出た。

高柳さんが一人で寂しそうに練習をしていたけど、気持ちがよく分かった。


アスファルトをひたすら走っていって、山のふもとへ。

滅多に車が通らない道で、とても静かだ。

100mぐらいずつ、白い息を吐きながら駆けのぼって、少し休んでまた走る。

その繰り返しで頂上に着いたころ、辺りはもう薄暗かった。

走っている間だけは、無心になれた。


(……)


てっぺんから、眼下に横たわる街の光を見下ろす。

数分間、休憩するとジョグで坂を下りていく。

途中、角度が緩やかなところが続くので、そこはダッシュだ。

世界が暗くなるまで、頭が空っぽになるまで、僕はそれをぐるぐると繰り返した。


トラックに戻ると、人影はまばらだった。

亜由美さんほか数名、長距離の選手が居残りで走り込んでいるほかはほとんどいない。

ダウン代わりにジョグで戻ってきたので、軽く体操をして僕も部室に引き上げた。


「星島!」


部室を出ると、僕のすぐあとから、赤いマフラーを首に巻きながら杏子さんが出てきた。

帰るところらしいけど、千晶さんの姿がなくて、珍しく一人だった。

 

不機嫌な顔で、マフラーの袖で僕をペシっと叩く。

寒いので痛い。


「あんた、忘れてたでしょ」


「何を?」


「お見舞い」


「あ。忘れてた…」


「んもう」


歩きながら、ぎゅっと手を握られる。

髪をかきあげて、杏子さんは僕の顔を覗き込んだ。


「何かあった?」


「え、いや、別に…」


「ふうん。ミキと何かあったんでしょ」


「べ、別に」


「ふられた?」


びくっとした。

一瞬、杏子さんが超能力者に見えたけど、鈍感な新見でさえそうだったし、女の子はそういうものなのかもしれない。


「言ってみな。ちゃんと聞いてあげるから」


「別に、ふられたというか…」


真剣な目に促されて、最初から、ぽつぽつと昨日の出来事を話す。

ちゃかすわけでもなく、杏子さんは黙って聞いてくれた。

そして、トラックの出口の階段を上ったところで、僕の手を引っ張って、学生協のほうへずんずんと坂を上り始めた。

北門のほうで、杏子さんにとっては帰り道なんだけど、駅とは反対方向だ。


「どこ行くの?」


一応、聞いてみると、杏子さんは時折見せる優しい表情をしてくれた。


「うちおいで。ご飯つくってあげるから」


「あ、うん」


「こういうときは、ぱーっと飲んで忘れるに限るよ」


「飲むんですか…」


「飲まいでか!」


楽しそうに、杏子さんはウヒヒと笑った。

杏子さんの手はすごく温かかった。


途中、スーパーに寄ってから杏子さんのマンションへ。

夕べの、余った肉じゃががあるらしい。

魚の開きを焼いたやつとパリパリの大根サラダ、それと冷や奴を出してくれた。

何だか居酒屋のコース料理みたいだ。


「ビール飲む?」


「あ、うん。ちょっとだけ」


半分ぐらい食べたところで飲み物が出てきて、お茶わんのご飯だけ急いで食べる。

 

おかずをつまみながら、ちびちびとビールを飲む。

杏子さんは日本酒を飲んでいた。

寒い中、温かい部屋に帰ってきて食事をして、アルコールも入ってリラックスモードだ。

僕はビール数杯でちょっぴり酔っぱらって、たちまち眠くなってきた。


「眠いの?」


半分、眠りかけていると、耳元でささやかれた。

僕はぶるっと体を震わせて目を開けた。


「う。昨日あんま寝てなくて」


「そっか。そうだよね。頭の中ぐるぐるしちゃった?」


「うん。帰って寝ます」


「いいじゃん、泊まってけば」


杏子さんはそう言って、指で髪をくるくるする。

それから、その髪をつまんで僕のほっぺたをこちょこちょとくすぐった。

とても、いい匂いがした。


「続きしようよ」


「続き?」


「日本選手権のときの続き」


ささやくように杏子さんが言って、僕の心臓はどくりと波打った。

杏子さんは、恥ずかしそうな、普段からは想像できない女の子らしい表情を浮かべた。

そして、返事も聞かずに、僕に優しく口付けてくれた。

日本選手権のときみたいに、軽く触れて終わりではなかった。

それは想像していた以上に気持ちがいいもので、僕の手は、自然と杏子さんに触れていた。


「全部、しちゃおっか」


キスを中断して、杏子さんは至近距離で僕の目を覗き込んだ。

その真剣な表情に吸い込まれて、僕は首を縦に振った。

杏子さんとしたいかしたくないかって、もちろん、したいに決まってる。


「うん」


「する?」


「したい…」


いつかと同じように聞かれて、いつかと同じように返事をしてしまう。

だけど、いつかのように、僕を騙して遊んでいるいるわけではないようだった。

杏子さんは僕をすべて受けとめて、そして優しく包んでくれた。

 

いつしか、僕の頭の中は、すべて杏子さんのことで埋め尽くされていった。

夕べまではネガティブなことが頭の中でぐるぐるしていて眠れなかったけど、今夜は杏子さんとのことが頭の中でぐるぐるして、結局はよく眠れなかった。

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