045話 杏子しゃん


10月、そして11月と、時は矢のように過ぎていった。


12月にもなると、絹山でもぐぐっと寒くなってくる。

ウインドブレーカーを着ていてもつらい感じ。

特に、この季節はケガにも気をつけたいところだ。

オフシーズンにケガをしていては元も子もない。


「むーん…」


しかし、じゅうぶん気を付けていても、時には体調を崩してしまうときがある。

だって、人間だもの。


朝、ぶるぶると震えながら目を覚まして、もぞもぞと時計を見るともう11時だった。

朝というよりは昼に近い時間。

起きて練習に行かなきゃと思ったけど、身体の節々が痛かった。


(風邪かなあ…)


無理やり起きて、水を飲むと、ベッドに座ってぼうっとする。

かなりきつい。

体を動かせば治るだろうと、根拠のない精神論で気合いを入れて出かける準備をする。


だけどどうしようもなくて、僕はベッドの中に這うように戻った。


(こ、こりゃ無理だ…)


風邪で部活を休む旨のメールを聡志にする。

とにかく寝てしまおうと思ったけど、どうにも体がギシギシして眠れない。

 

2時間ぐらいウンウン唸ったけど、眠れないし一向によくなる気配はなかった。

むしろどんどんひどくなる。

死ぬほど苦しい。

食べるものと薬を買ってこようと思ったけど、今度は起き上がることすらできなかった。

せめて薬は、用意しておくべきだった…。 

ミキちゃんは常に正しいです…。


(うう…)


これはやばい。

このまま、死んでしまうかもしれない。

 

どうしようもなくて、荒く呼吸しながら唸っていると、玄関のチャイムが鳴った。

だけど、動く気力がないので黙っていると、ドアががちゃりと開いた。

出かけようとしたときに、鍵を締め忘れていたらしい。


「星島?」


杏子さんの声だった。

 

助かった、まず僕は思った。

最後の力を振り絞って返事をする。

杏子さんは部屋に入ってきて、僕の顔を覗き込んで額に手を当てた。

ひんやりしていて気持ちよかった。


このときの杏子さん、天使のように見えました。

普段はもう、悪魔にしか見えないんだけど。


「大丈夫?」


「しんどい…」


「熱は?」


「計ってない…」


「薬は?」


「ない…」


「やっぱり。ちあきぃ、くすりーっ」


「はーい」


姿は見えなかったけど、千晶さんもいたらしい。


「とりあえず測って」


体温計を差し出されて、言われるまま熱を測る。

 

すぐに体温計が鳴ったので表示を見ると、38度9分だった。

こんなに熱が出たのは生まれて初めてで、僕はぎょっとした。


「うう…」


「大変。病院行く?」


僕は夢うつつに首を振った。

行きたくても、動けないのだ。


杏子さんはしばらく黙っていたけど、やがて優しく僕の頭を撫でてくれた。

途中で、何かいろいろ買ってきたらしい。

杏子さんがおかゆをつくってくれて、僕は無理やりそれを食べさせられた。

それでまたベッドに潜り込む。

ヒーターをガンガンに付けたんだけど、寒くて寒くて仕方なかった。


「うう…」


しばらく我慢していると、千晶さんが冷却シートを頭に貼ってくれた。

杏子さんに薬を飲ませてもらって、また倒れ込む。

新見もいたような気がするけど、相手もできない。

何か、こっちだけ牢獄の中にいるような感じだった。


「え、39度?」


新見の声が聞こえる。

四捨五入すれば39度。

それを四捨五入すれば40度…。

さらに四捨五入すれば、0度…。


寒いわけだ…。


「大変。救急車は?」


「うーん。とりあえず様子見とこ」


「大丈夫かな…」


ぼそぼそと会話が聞こえてきて、そのうち唐突に静かになった。

玄関のドアが開いて人が出ていく気配がする。

しばらく後、にゅっと杏子さんが覗き込んできた。


ちゃんと、分厚いマスクを重ねて防御している。


「看病したげるから、あとでお礼エッチしてね!」


「はい…」


「ありゃ。重症だね…」


目を閉じたけど、眠れそうにない。

 

一人、うなって苦しんでいると、杏子さんが額に冷えたタオルを乗せてくれる。

それだけで少し楽になったような気がして、僕は杏子さんの優しさに感動した。

何だかんだいって、いつも僕のことを気にかけてくれている。

涙が出そうになった。


「何、あんた、泣いてんの?」


「泣いてない。泣いてないよ…」


「そっか。あとでさ、電話番号教えてよ」


「うん」


「あたしのも教えたげるからさ。淋しい夜は電話していいよ!」


「うん…」


ぼんやりと返事をするが、具合が悪くてそれどころではなかった。

肩や首や背中や腰や、体中の関節が悲鳴を上げている感じだ。

杏子さんが、心配そうな顔で僕の顔を覗き込む。

杏子さんのそんな表情を見るのは初めてだった。


「大丈夫?」


「うん。何か話して」


「何かって?」


「何でも…、どうして杏子しゃんは陸上始めたの?」


「んー。杏子しゃんはね、小学校のときにさ、通信陸上?かなんかあるじゃん。大会」


「ああ…」


「その選手に選ばれて、よく分かんないけど全国大会出れたんだよね。だけど8位でさ」


「うん」


「それが悔しくってさ。一生懸命練習して、6年のときには4位に入ったんだけど、4位じゃやめれないじゃない。それで中学校に上がって陸上部に入って、両親の反対押し切って高校選んで、気付いたらこんなことになってる感じかな」


「うん…」


その後も、杏子さんはいろんなことを話し続けた。

だけど、いつしか僕はすっと楽になって、浅い眠りに落ちていった。

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