044話 教育的指導


少し、息を整えながらひざに手をつく。

10秒68は、そんなに悪いタイムではない。

大学生2年生としては十分だと思う。

 

だけど、1年間やってきたことが全否定された気分だった。

今までやってきたことは何だったのか、分からなくなった。


「おー。未公認だけど自己ベスト!」


聡志が喜んで、詩織ちゃんがぱちぱちと拍手をする。


「おめでとーっ。はい、ごほうび」


「わーい、センキュッ」


聡志が何かお菓子をもらっている。羨ましい。


「おれのほうが10秒52じゃなかった?」


「え。遅かったほうがですか?」


冗談で言ったのに、素で詩織ちゃんに聞き返されて派手に落ち込んでしまう。

笑いにごまかしたけど、心の中はそうではなかった。


トラックの中の芝生にあおむけに倒れ込む。

心象風景とほぼ同じだ。

しばらく、黙って空を見上げていると遠くで電子音が聞こえ、僕は顔を上げた。

トラックの入口のほうから、織田君が走ってくる。

僕から見ても甘いところが多いけど、スピードの乗りがなかなかいい。


「織田君、11秒11」


惰性で少し走っていった織田君が戻ってきて、タイムを聞いて手を叩いた。


「やった。1が並んだ!」


「おれ、未公認だけどベスト!」


織田君と聡志が自慢しあう。

ミキちゃんがスタート地点から歩いてきて、バインダーを見てタイムを確認する。

そして、二言三言、詩織ちゃんと話してから僕たちのほうに向き直った。


「じゃあ、メニュー組んであるから。そのあとサーキットトレーニング」


「はい」


「OK」


聡志も織田君も機嫌よく返事をした。

ミキちゃんは芝生に寝そべる僕をちらりと見た。


「星島君も、いいかしら」


「あ、うん」


「青山さん、悪いけど後片付けお願い」


「はい。計測器戻しちゃっていいです?」


「うん。ストップウォッチ持ってる?」


「あ、あります」


「貸して頂戴」


「はい」


ミキちゃんも仕事があるのだろう。

 

詩織ちゃんからストップウォッチを受け取って、長距離グループのほうに歩いていく。

僕はそれを眺めていたけど、慌てて立ち上がってそのあとを追っていった。


「ミキちゃん」


呼び止めたけど、ミキちゃんの表情は逆光で見えなかった。

少し冷たい風が吹いて、さらりとミキちゃんの髪をなびかせる。

何だか古い映画のワンシーンのような、そんなイメージを連想して僕はちょっと詰まった。


「何?」


「あ、あのさ。えっと…」


「何よ」


「いや。別に何でもないや」


何か、声をかけて欲しかった。それだけだった。

だけどミキちゃんは無言のままで、長距離グループの中の誰かに呼ばれて後ろを向いた。

それから、僕のほうを見て軽く眉を持ち上げて、背中を向けて歩いていった。


(はあ…)


なんか、とてつもなく落ち込んでしまう。


やる気ゲージがゼロになった状態で、メニューどおりに練習。

まずは20mダッシュ。それから40m走だった。

加速区間のトレーニングで、ずっと重点的に行っているメニューである。

日によって30mになったり50mになったり。

何か毎日毎日、同じような練習ばかりだ。


なんだかものすごくばかばかしい。

こんなのやったって結果が出ないのに。

やる気ゼロなので、なんかそんなふうに思ってしまう。


ちょっとうんざりしながら、詩織ちゃんにスターターをやってもらって、練習を続ける。


(はう…)


傷心のまま、空っぽのまま、エネルギー残量なしのまま。

機械的に練習をこなしていると、いつの間にかミキちゃんと稲森監督が来ていた。


(う…)


何か、稲森監督がミキちゃんと話している。

 

ちょっと緊張して、ゲージがわずかに回復した。

監督は、ひげをさすりながら黙って見ていた。

しかし、何本目かの40m走から戻ってくると、腹に響く声で静かに言った。


「おい。星島」


まず、声が怖いのだ。


「はい」


「記録会出たいとか言ってるんだって?」


「はい」


答えながら、ぎくりとした。

ミキちゃんが報告したらしい。

ちらりと見たけど、ミキちゃんは素知らぬ顔。


「今のお前がこの時期に出てどうするんだよ」


「は、はい…」


「そもそも、ちっとも走り方変わってねえじゃねえか」


「す、すいません」


「技術的なことちゃんと理解できてるのか?」


「はい。いえ…」


「どっちだ?」


「あ、あまり理解できていません」


「だから面白くないし、モチベーションも上がっていかねえんだろ。違うか?」


「はい。すみません」


ぐうの音も出なかった。その通りだった。

 

まず心を土台にして、自分の目指すものをはっきりさせる。

その目標達成の手段のために技を磨き、技を生かすために必要な体をつくっていく。

それは当たり前のことだけど忘れがちだし、意外と難しいことなのだ。


「分かったら続けろ」


「はい」


それからしばらく、僕たちは稲森監督の指導を受けた。

別に手をあげるわけでもない。

大声を出すでもない。

だけど稲森監督は迫力があって、無駄口の一つも叩けなかった。


「おい」


「は、はい」


「普通のみかんと凍ったみかん、地面に落として弾むのはどっちだ」


もう、今まで何度も聞いた稲森監督の講釈。


「凍ったみかんです」


「そうだろ。そっちのほうが反発力もらえるだろ」


「はい」


実はこの反発力が、非常に重要なのだ。

トランポリンを考えてみてほしい。

トランポリンを飛ぶとき、皆さんはどうするだろうか。

着地の瞬間、ひざのばねを使って衝撃を吸収したら高く飛べない。

びしっと足を伸ばしてぽーんと飛び上がると思う。


あれと同じことだ。

トランポリンほど大きくはないが、タータンからの反発力を最大限、利用するのである。

体幹を軸にして、びしっとタータンを蹴る感じだ。


一昔前は、とにかく脚を上げろ脚を上げろ、そればかりだった。

脚を高くあげると、自然、急いで戻さなければならないので地面を強く蹴ることになる。

だから、その間違った練習法でもそこそこのプラスになっていたが、実際はそうではない。

上げるのではなくて、下ろすほうが数倍大事なのである。


接地だ。

接地と、脚の運び方でスプリントの大半は決まるのだ。


「そんでお前、足が流れてるんだよ」


「は、はい」


「着地が後ろすぎる。軸ができてねえから反発力もらえねえんだ」


「はい」


そこでようやく、理想的な接地と脚の運び方はどうなのか、という話になってくるわけ。

 

体全体をまっすぐにして、着地はその真下の地面にびしっとするようにする。

前すぎても後ろすぎても、力が分散してしまって推進力につながらない。

言葉だけなら、簡単だ。

それは分かってるが、それが、なかなかうまくいかないのだ。


十円玉を、机の上にでも置いてほしい。

右手を、高々と頭上に持ち上げて、人差し指を立ててみよう。

それを思い切り、手抜きをせずびしっと振り下ろして、その十円玉を指差してみよう。

これが、なかなかうまくいかないのだ。


想像よりはるか上空で指が止まったりする。

十円玉を指差すだけのことなのに、うまくいかないはずだ。

そんなこと誰でもできそうだし、言うのは簡単なんだけどもね。


お分かりだろうか。

10秒間で40回前後、両手を交互に高速で振り下ろして、10円玉に正確に指を差す。

それが、スプリントの世界なのである。

それが完璧にできる人は、人類史上、おそらくまだ誰もいない。


つまり、スプリントというのは、普通の人が本能のまま走ることの延長線上にないのだ。

どのくらい違うかって、インスタントラーメンと店で食べるラーメンくらい違う。

同じラーメンって名前は付いてるけど、味とか作り方とか、全然別物でしょ。


以上、長たらしい講釈終わり。


「村上。あとは任せた」


「はい。ありがとうございました」


「ありがとうございました」


30分くらい、僕たちの練習を見て稲森監督はフィールド陣のほうに歩いていった。

緊張の糸が解けて、僕たちはそろって息を吐いた。


「いつもこのくらい集中してたらいいのにね」


ミキちゃんがみんなに聞こえるように言って、僕たちは一斉にうなだれた。


「ちょっと談話室に行きましょう」


「談話室…、折檻?」


「そんなことしないわよ。したいけど」


ミキちゃんの目は真剣だった。


「休憩がてら、復習。説明してもさっぱり理解してくれない人いるから」


「ごめんなさい…」


モチベーションが下がっている僕に、タイムをとらせて現実を直視させる。

そこに、監督からのきついお言葉。

そして真っ白になっている僕に、教育的指導。

 

完璧に、ミキちゃんのシナリオどおりだった。

僕はもう、その手の平の上でコロコロと転がっているだけで…。


「いくわよ」


「へい」


「へい?」


「ハイ…」


うちの部室は鉄筋コンクリ2階建てだ。

1階には男女の更衣室とシャワールーム。

それから中央にはミーティングルームとトレーニングルームが設置されている。

左右対称な感じだ。

 

2階は、カーペット敷きの談話室が4つ設置されてる。

備えつけのビデオやDVDで研究をしたり、お弁当を食べたり相撲をとったり昼寝をしたり、部員にはさまざまな用途で使われている。

ネット環境もばっちりなので、ノートパソコンやモバイルも活用できるのだ。


相撲はないか。

ちょっと盛りすぎました…。


「空いてるわね」


階段をのぼり、2階一番手前の談話室に入ると、ミキちゃんのPCをテレビにつないだ。

再度、再度どころの話ではないが、クインシー・ロジャースを見ながら研究する。


技術を目で見て、頭の中でイメージして、それを自分で体現する。

とにかくこの繰り返ししかない。


「星島君」


ビデオを見ていると、いきなり村上先生に指される。


「はい」


「レースにおける加速区間の重要度は何%?」


「えと。確か40%ぐらい」


「全然覚えてないのね。加速区間が65%」


「そんなにだっけ」


「そうよ。リアクションタイムが5%、加速区間が65%」


「ふんふん」


「それで60mから85mのスピード維持が20%、ラスト15mの減速抑制が10%」


加速区間が過半数を占めている。

だから、ずっと同じ練習を繰り返しているわけだ。


「キングダム・テイラーの世界記録のラップで、一番速いポイントはどこか分かる?」


「えと。後半伸びる選手だから…、70mから80m?」


「50mから60mが一番速いの」


「え。そうなの?」


正直、驚きだった。

いつも、後半、ほかの選手を置き去りにしてぐっと出てくるからだ。

後半型の選手、それも世界記録保持者でも、最後のほうはタイムが落ちるわけか。

前半型の選手ならなおさらだろう。


「ほかの選手に比べて、後半にスピードが落ちないからものすごく速く見えるわけ」


「ほほう」


「実際は、ラスト10mなんか0秒1も落ちてるのよ」


「なるほど」


「でも、前半型の選手なのに、技術でカバーして0秒02しか落ちてない選手もいる」


「え、誰?」


「今見てるでしょ。クインシー・ロジャースよ」


ようやく、僕の頭の中で話がつながった。

バチバチバチっと、パズルがかっちりと埋まった感じだ。


「そうか。それでいつも見てるのか!」


「前に言ったじゃない」


ぎろりと睨まれる。


「そうだっけ…」


ミキちゃんが目指すのは、100mを区間に分けてシステマチックに走るというものだ。


繰り返しになるが、100mというのは、全力で走る切ることができない距離だ。

だから、前半はハムストリングスと呼ばれる太ももの裏の筋肉を温存する。

後半はそれを用いて最高スピードを持続させようというものらしい。

アメリカの有名なクラブチームで教えている、高度な技術だとか。

フィジカルで劣るならば、技術を磨くしかない。


「そうだ。そう言えば前に説明してもらったような」


「そうでしょ」


すっかり忘れていた。

よく分からないけどミキちゃんに任せればいいやと思っていたからだ。


「中学生のときは才能任せ」


はい。

ミキちゃんの、きつーいお言葉です。


「高校のときは運任せ。そして今は人任せ。星島君はいつ、自分の足で走り始めるの?」


泣いてもいいと思う。

そのぐらいきつい言葉だ。

正しすぎて返す言葉もない。

というかちょっと泣きそう…。


「頼むわよ。本当、期待してるんだから」


「うん…、期待してくれてるの?」


「してるわよ。頑張ってよね」


こっちの言葉のほうが、泣きそうだった。

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