040話 無邪気な杏子


つい、うとうとしてしまったらしい。


ソファーでまどろんでいたのだが、ふと目を覚ますと誰もいなかった。

テーブルの上はきれいに片づけられていて、僕の体には茶色の毛布がかけられている。

欠伸をして体を伸ばすと、ぱさりと毛布がずり落ちて体温が一気に奪われた。

ちょっと肌寒かった。


よく見ると、千晶さんがキッチンでせっせと洗い物をしていた。

ぼんやりしていると、どこか向こうで物音がして、やがて足音がして杏子さんが現れた。

お風呂に入っていたらしい。

真っ白いバスローブ姿で、まだ髪が濡れていた。


ふらふらとしていて、足どりが少しおぼつかない。

かなり酔っているようだ。


「あ、起きたじゃーん」


いきなりスポーツドリンクを放られる。

反射的に受け取ると、杏子さんはどすんと僕の隣に座った。


あぐらをかいて、ドライヤーでガーガー始める。

テレビのニュースを見ながら、僕は黙ってスポーツドリンクを飲んだ。

でも、隣でガーガーしているので音はほとんど聞こえなかった。


バスローブの奥が、見えそうで見えない。


「泊まってく?」


ふいに、杏子さんが言った。


「え?」


「3Pでもしよっかぁ」


「し、しません」


僕は慌てて首を振った。

パチンとドライヤーのスイッチを切ると、杏子さんはとろんとした目で僕の顔を見つめた。

相変わらず睫毛が長くてきれいだった。


「したくない?」


「そ、そういう問題じゃなくて。大和撫子がそんなこと言っちゃダメ」


答えると、途端に杏子さんは不機嫌な表情になってぐいっと僕の耳を引っ張った。

力任せで、ものすごく痛かった。

酔っ払いの最大の問題点は、手加減ができなくなるということだ。


「悪かったねえ、大和撫子じゃなくて」


「痛い痛い」


「だったらあんたは日本男児ですかぁ?ん~?」


「痛い痛い痛い」


悲鳴を上げると、キッチンから千晶さんがひょいと顔を出した。

千晶さんにしては珍しく、半ばあきれたような表情だ。


「またいじめてるんですか」


「ち~あき!」


脈絡もなく、矛先が千晶さんに向く。


「ち~あき!ちょっとぉ、ここ座りなさい!」


杏子さんはバシバシとソファーを叩いた。

ててててっと歩いてきて、千晶さんは素直にちょこんと座った。

まるで賢い犬みたいだった。


その頭を、杏子さんがぐりぐりと撫でる。

髪の毛がくしゃくしゃだ。


「あたしだってさあ、千晶みたいに可愛くなりたいんだよう」


「可愛いですよ。杏子さん。十分」


「それってぇ、全然そう思ってないときの倒置法じゃん!」


酔ってるくせに鋭い。

だけど千晶さんは真面目な表情で、杏子さんの手を両手で握って顔を覗き込んだ。


「本当ですよ」


「本当に?」


「本当に」


「食べちゃいたいくらい?」


「食べちゃいたいくらい」


「食べてーっ!」


杏子さんは嬌声をあげて千晶さんに抱きついた。

ほっぺたにキスをしたり、胸や足を撫でたり。

うれしそうにベタベタしていたけど、そのうちまぶたがどんどん降りてくる。

そして、千晶さんのひざを枕にしてコテンと眠りに落ちた。


傍若無人の杏子さんも、黙って寝ていると可愛い。

寝顔を覗き込んで、僕と千晶さんは声を押し殺しながら笑った。

それくらい、無邪気で可愛かった。


「星島君泊まってくなら帰るけど」


ふいに千晶さんが言って、僕は慌てて首を振った。


「いえ、いえいえ。帰ります帰ります」


「そっか。杏子さんと付き合う気はないの?」


「え、いや、それは…」


もごもごとごまかしていると、千晶さんは口角を持ち上げた。


「杏子さん、誤解されやすいけど、恋愛にはすごい奥手だから」


「あ、そうなんだ」


「もしその気があるなら、星島君から言ってあげて」


「あ、はい…」


「はい。余計なお世話でしたっと」


ポンと手を打って、千晶さんはつんつんと杏子さんのほっぺたをつついた。

杏子さんは無反応。

千晶さんじゃないけど、本当、食べちゃいたいくらい可愛いかった。

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