039話 うれしい日


結局、練習は6時半まで続いた。


汗だくになって部室に戻り、軽くシャワーを浴びて着替えると、スポーツドリンクを飲んで一息つく。

この瞬間が最高だ。


「よーし、帰るべ」


「おう」


聡志と並んで部室を出る。


「ハギワラさん、ご飯でもおごってくり」


言うと、聡志は硬い表情で振り向いた。


「ん?」


「ボルシチでいいからさ」


「ボルシチか」


「寿司でもいいよ」


「ロシア押しするなら、ちゃんと最後までしろよ!」


「すまん…」


「てかおれ忙しいし」


「そか。じゃあ大人しく帰るか」


外はまだ明るかったが、少し涼しくなってきていている。

紫の世界が訪れようとしていた。

 

バックストレートの向こうから風が吹いてきて心地いい。

長距離の選手がまだトラックを周回している。

その奥のほうで、ガチャガチャと、1年生マネージャーの青山詩織ちゃんがハードルの後片づけをしていた。


「む」


詩織ちゃんは、身長150センチにも満たない小さい子だ。

2台ずつハードルを懸命に運んでいて、けっこう大変そうだった。


「手伝うか」


「おう、頑張れ。おれはちょっと用事がある」


すちゃっと手を挙げて、聡志は逃げるように早歩きで歩いていった。


追いかけて蹴りたかったけど、貴公子星島としては詩織ちゃんを放ってはおけない。

明日、聡志のシューズに極太のかりんとうを入れておこう。

そう思いつつ、とりあえず詩織ちゃんを手伝う。


「あ、ありがとうございますーっ」


にこっと、詩織ちゃんは笑った。

もう一人のマネージャーも、このくらい愛想があればなあと思った。


ハードルを片付けて、それから走り幅跳びのピットにシートをかぶせる。

そんなに大した作業ではないので、すぐに終わった。


「ありがとうございましたーっ」


詩織ちゃんがぴょこんと頭を下げる。

ポニーテールがくるんと回転して面白かった。


「はい、ごほうび」


「わーい」


詩織ちゃんからレモン味の飴をもらう。

これがまた、酸っぱくて美味しいのだ。


「星島さん、いつも優しいですね」


詩織ちゃんは笑顔で言った。

女の子にこんなふうに言われると、実はものすごくうれしい。 


「まあね」


「それに、素直でまじめだし」


「まあね!」


「星島さんいい人だねって、みんな言ってます」


「まあね!!」


「本当、変態には見えないよねって」


僕はがくんと肩を落とした。

杏子さんの首を絞めて逮捕されても、きっとみんな同情してくれるだろうと思った。


「変態じゃないよ。変態じゃない…」


「えへへへ。冗談ですよ、冗談。杏子さんの言うことなんか、半分も信じてないですよ」


「それならいいけどさ」


「でも、加奈ちゃんとキスしたことがあるって聞きました」


「わーわーわー!」


でたらめな噂も嫌だけど、事実を言われるのも嫌だという…。


とりあえず、詩織ちゃんの誤解をきちんと解く。

そして歩いていってトラックを出ると、階段を上ったところに新見と聡志が立っていた。

新見はチキチキと携帯をいじっていたけど、ひょいと顔を上げて笑顔を見せる。

新見はとにかく笑顔が素敵だと思う。

何だかこっちまで笑顔になってしまうのだ。


「お疲れさま。お誕生日おめでとう!」


「あ、うん、ありがとう?」


「杏子さんちいこ。ケーキも買ってあるみたいだよ」


「あ、なるほど」


一応、今日は僕の誕生日なのだ。

でも、どうせ祝ってくれる人間などいない。

そう思って聡志に冷やし中華でも奢らせようとしたんだけど、どうも曖昧にごまかすと思ったらこういうことだ。


「いこ」


新見に笑顔で言われて、激しくうれしかった。

自慢じゃないけど、女の子に誕生日を祝ってもらえるなんて初めてなのだ。

例えそれが、誕生日会の名を借りたただの食事会だったとしてもいいじゃないか。


照れ隠しに、聡志の尻を蹴飛ばすと、聡志は大げさに痛がった。


「いってえ。なんだよ」


加奈を真似てプイっと唇をとがらせるけど、もちろん可愛くなんかない。


「スズメの兄弟がとまってた」


「ふうん。スズメがね。兄弟でね…」


「カラマーゾフの兄弟」


「だからロシア人じゃねえっての!」


毎度のばかばかしいやりとりをすると、新見が笑って僕の肩をぱしぱしとたたいた。

それだけのスキンシップでもうれしい。

普通におしゃべりできるようになってきたから、半年前に比べたらかなりの進歩だ。


「本当、いいコンビだよね。星島君と橋本君」


「宮城人とロシア人」


「だから違うっての。おれは山梨!」


「ベラルーシ?」


「ヤ・マ・ナ・シ!」


馬鹿話をしながら歩いていく。

9月に入ったけど、まだまだ暑い。秋までもう一歩というところだ。


キャンパスを横切って、北門から出て。

大学のある丘を下りるようにして徒歩15分、杏子さんのマンションに到着。

杏子さんの部屋には既にいつものメンバーが集まっていた。

もちろん杏子さんはもう飲んでいて、僕の顔を見るなり抱きついてきた。


「プレゼントはあたし!」


「言うと思った…!」


抱きつかれたままソファーに座らされ、ワインを飲まされる。

ワインの味は分からないが、チーズがすごく美味しかった。


加奈はもう酔って半分眠っている。

千晶さんとミキちゃんはキッチンでお料理。

体よく逃げただけかもしれないけど、新見と聡志も手伝いに加わる。

何をつくっているか分からないけど、ミキちゃんの料理が楽しみだった。


「星島もハタチかあ」


「おかげさまで」


「おめでと。おいで」


杏子さんに、際限なく頭を撫でられる。

しばらく黙って撫でられていると、ぱっと加奈が身体を起こして、ぶるっと頭を振った。


「お腹すいた…」


「お前、そればっかりだな」


言ったものの、僕も確かにお腹が空いた。

まだ時間かかるのかなと思ってキッチンのほうを見ると、ちょうど、新見が大きなお皿を持ってこちらに歩いてくるところだった。


今日は、中華らしい。

豚の角煮とかカニ玉とかもあったけど、レバニラ炒めとか麻婆豆腐とか絹さやのスープとかアボガドのサラダとか、いかにもミキちゃんらしいヘルシーな料理が多かった。


「おいしそう」


加奈が覗き込んでよだれを垂らしている。

ミキちゃんのことは嫌いだけど、料理には罪はないといったところだろうか。


「よーし。じゃあ、乾杯!」


例によって杏子さんが適当に音頭を取る。

慌ててみんなで乾杯して、僕の誕生日を祝ってくれた。

純粋に、ものすごくうれしかった。


みんな、一斉にプレゼントをくれる。

新見は、ティナ・ランバートンのサングラス。千晶さんは飲茶のセット。

ミキちゃんは財布。聡志は映画のDVD。

まあここまではとてもうれしい。問題は加奈だ。


「…これは?」


「えとね、レコードの針」


「レコードなんて持ってないぞ」


「うそん!持ってると思ってた!」


まるで意味不明だ。

そして、杏子さんのプレゼントを開けると、ピンク色の小箱が5つも入っていた。

要するに、コンビニや薬局や自動販売機で売っている、彼女がいない人間にはまったく使い道のないアレだ。

 

しかも5箱も、どうしろというのだろう。


「あたし専用ね。今度から使って!」


「今までも何もないですからね!」


一応、宣言しておいた。

みんな、いつものお約束に笑ったけど、ミキちゃんだけは無表情でものすごく怖かった。

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