037話 女王クリスティアーネ・ベッカー


しばらく、僕はぼんやりと液晶テレビに視線を向けていた。

 

だけどすぐに飽きて、何となく、キッチンのほうに歩いていった。

ミキちゃんはサラダらしいものをつくっているようだった。

例によって、リズミカルにポニーテールが揺れていた。


中に入ろうとして、やっぱりやめて、半分戻ってバーカウンターに座る。

木の、いい匂いがした。


「加奈が朝練してるの知ってた?」


聞いてみると、ミキちゃんは振り返りもせずに答えた。


「私はやれなんて言ってないわよ」


「そうなんだ…」


「星島君もすればいいのに」


「いや、まあ、朝弱いからさ」


やんわりと拒否すると、ミキちゃんはちらりと僕を振り返った。


「星島君は出たくないの?オリンピックとか」


ミキちゃんに指摘されて僕はどきりとした。

 

スポーツ選手の憧れの舞台。

僕の、昔からの夢であり究極の目標。


そして、はるか彼方の幻…。


「オリンピックか…」


「いつも何か人ごとみたいに言ってるから」


「そうかな」


「欲はないの?」


「いや、ないことはないよ」


あいまいに答える。

今の僕が、偉そうに大きなことを言っても何にもならない。

まずは一歩一歩。小さなことからコツコツと、だ。


「もうちょっと待ってね」


「あ、うん」


「コーンスープも飲む?」


「あ。飲みたいな」


そのとき、僕は確かに聞いた。

ほんのちょっとだが、ミキちゃんが何か鼻うたを歌ったのだ。


前も思ったんだけど、料理をしているときは機嫌がいいのかもしれない。

きっと好きなのだろう。

昨日の夜もそうだったけど、いつも、文句一つ言わずに腕をふるっている。


「お待ち遠様」


しばらく待っていると、ミキちゃんがカウンターまでサンドイッチを持ってきてくれる。

牛乳、ミニトマトとツナのサラダ、グレープフルーツとコーンスープ付き。

ファミレスで頼んだら980円ぐらいしそうだ。


「すごい。豪華だね」


「そう?」


「いただきまーす」


もちろん、全部おいしい。

夢中になってパクパク食べると、あっという間になくなってしまう。


つくりたてのサンドイッチは、実はすごく美味しいのだ。

普段、コンビニのサンドイッチしか食べていないから、ミキちゃんのつくったやつを食べた

瞬間、こんなに美味しいものだっけと思ってしまった。


「もうちょっとゆっくり食べたら?」


後片づけをしながら、ミキちゃんは呆れ顔だった。


「あ、うん。はい」


「おかわりあるけど食べる?」


「食べたい」


「サラダも食べるのよ」


「うん」


おかわりもすっかり平らげて、僕はすっかり満腹になった。

毎日、こんなおいしいご飯をつくってくる彼女がいたらいいなあと思った。

しかしそれも、オリンピックや世界陸上と同じくらい、遠い話だ…。


再び、世界陸上の放送が始まる。


麦茶を飲みながらのんびり観戦していると、女子100mの準決勝が終わったところで、加奈が戻ってきた。

部屋の中はクーラーが効いているから忘れかけていたけど、外はやはり真夏のようだ。

Tシャツが汗でぐっしょり濡れていて、加奈はすっかり疲弊した表情だった。


「つ、疲れた…」


「お疲れさん」


冷蔵庫からスポーツドリンクを取り出してぐいっと飲む。

それから、加奈はスリッパを履いてペタペタとお風呂に歩いていった。


しばらくするとさっぱりして出てきて僕の隣に座る。

ちょっとだけ、シャンプーか何かのいい匂いがする。

加奈も一応、女の子だ。


「いただきまーす」


朝から加奈はよく食べる。

サンドウィッチだけじゃ足りない様子で、フルーツを山盛り食べていた。

なんか、食べ方がうちの実家で飼っている犬とよく似ている…。


「ごちそうさまでしたっ」


「相変わらずよく食べるな」


「成長期だもん」


これ以上、大きくなってどうしようというのか。

バレーかバスケでもすれば引っ張りだこだろう。

でも、スプリンターは背が大きければいいというわけではない。

逆に背が高過ぎるのはよくないと言われている。

運動性能が落ちるからだ。


「加奈って、なんでサッカー始めたの?」


試みに聞いてみると、加奈はじっと僕を見つめてくりんと首を捻った。


「なんでだっけ?」


「いやおれは知らないけど」


「なんか誰かに誘われた気がする。ライカールト?」


「たぶん違うと思う」


「あ、ファン・バステンかも」


「絶対違う」


「バッジオ?」


「そこまで言ったらフリットって言えよ…」


分かる人に分かればいいです。


「まあ、そんなような人」


「どんな人だよ。チュニジアで?」


「うん。人足りないからってキーパーやらされて」


「ふうん…」


「ブラジルのナショナルチームと対戦したこともあるんだよ!」


「むぐ」


危なく麦茶を噴き出すところだった。

てっきり、学校のクラブ活動とか草サッカーとか、そんなものだと思っていたのだ。


「え、お前どこのチーム入ってたの?」


「ASCチュニジアの女子チーム」


「あー。知らん…」


「ジャージ着てたでしょ」


「ジャージ…、あの目がチカチカするジャージ?」


「チカチカはしないよ!」


「もらったって言ってなかった?」


「だから、チームからもらったの!」


たぶん、チームが選手にジャージを支給したんだと思う。

でも、もらったと表現するとちょっとニュアンスが違う気がする。

それでふと思ったんだけど、ときどき加奈の言葉が変なのは、天然とかじゃなくて、チュニジアでの生活が長かったからなのかもしれない。

もしそうだとするなら、言葉尻をつかまえるのはかわいそうな気がする。


「で、ASCチュニジアって?」


「ちゃんとしたクラブチームだよ!ブラジル代表0点に抑えたんだから!」


もちろん、さっぱり分からなかったけど、何となくすごいということは分かった。

チュニジアの女子サッカーはそれほど強くないらしい。

そのチュニジアの小さなクラブチームで、ブラジル代表を0点に抑えたのが自慢のようだ。


「ブラジルって女子も強いの?」


「強いでしょ。ブラジルだよ?」


「…いやそのさじ加減はよく分かんないけど」


「男子で言えば、ポルトガルくらい?」


「ポルトガル…、ワールドカップで上位進出しても全然おかしくないぐらい?」


「してるし!進出!」


気になったのか、ミキちゃんがスマホで検索を始める。


「ワールドカップ準優勝1回、オリンピックは準優勝2回ね」


「ほら!強いじゃん!」


「強いな」


「そこを、0点に抑えたの!褒めて!」


「偉い偉い」


チュニジアは北アフリカの国で、地中海沿岸にあって東京と似たような気候のようだ。

有名なカルタゴの遺跡がある国で、観光客が多くて治安は良好。

サッカーとバレーボールが盛ん。

国教はイスラム教だけど、女性はヴェールをかぶらずに西洋的なおしゃれをしたりする。

わりあいに住みやすい国のようだ。


「砂漠は暑いけどね。死ぬほど」


「サハラ砂漠?」


「そそそそ。ずーっと南のほう」


アフリカに一度は行ってみたい気がするけど、暑いのは苦手だ。

行くなら冬に行くだろう。

アフリカに冬があるのかは知らないけど。


「うー…」


おしゃべりしながら世界陸上を観戦していると、杏子さんが起きだしてくる。


「おはようございます」


「おあよ…」


半分以上閉じた目で、ふらふらとソファーまで歩いてくると、僕の隣にどさーっと座る。

そしてそのままこてんと倒れて、僕の肩にとすんと頭を乗せた。

何か、もごもご唸っている。


「何かな?」


「二日酔い…」


ミキちゃんがスポーツドリンクを持ってくる。

 

一口か二口、こくんこくんと飲んで、杏子さんはぐでっとソファーに横になった。

クッションを枕にして、ぼんやりとテレビ画面を見ていたけど、手を伸ばしてぱたぱたと僕の足を叩いてきた。


「ん?」


「腰もんで。痛い」


「はあ」


言われるまま、腰のマッサージをしてあげると、そのうち寝てしまったようだった。


ソファーに座り直し、しばらく、世界陸上を見続ける。

すると、女子100mのファイナルが迫ってきたところで、まるでタイマーでもかけていたかのように杏子さんは目を覚ました。

起き上がってはむっと欠伸をして、トントンと腰を叩いてひねる。


「うー。腰痛い」


「おはようございます」


「何でマッサージ途中でやめちゃったのさ」


「あれ。寝たと思って」


「起きてたよ。ずっと。途中まで」


「どっちですか」


「シャワー浴びてくる。まだ始まんないよね」


「まだかな。あと30分くらい」


スポーツドリンクを飲んで、立ち上がるとぐるぐると肩を回す。

完全にいつもの杏子さんだった。


「ミキ、お腹すいた」


「何か食べますか」


「エビ入ったパスタ」


「エビ…、エビとトマトとチーズでいいですか」


「うん。そういうの」


杏子さんがぱたぱたとお風呂にいく。

ミキちゃんがパスタをつくるために立ち上がると、僕と加奈はほぼ同時に手を挙げた。

ミキちゃんは、大きくまばたきをして僕たちを見た。


「何?」


「食べたいです」


「食べたいです」


驚いたのか、ミキちゃんが眉毛を持ち上げて僕たちをじっと見る。


だけど、何も言わずに静かにキッチンのほうに歩いていった。

何だかちょっと、食べ過ぎで申し訳ないような気もした。


パスタができあがり、女子100mの決勝の時間になって、杏子さんが戻ってきた。


「おーう。おいしそ」


「いただきまーす」


優雅に食べる杏子さんと、豚のように食べる僕と加奈。

ミキちゃんは何も言わずに、液晶テレビに視線を向けていた。


近年の女子100mは、ジャマイカのクリスティアーネ・ベッカーのひとり勝ち状態だ。

もちろんほかの選手も頑張っていて、毎回、何名かが対抗馬として挙げられるが、対抗できずに終わっている状況である。

どうやら今回も女王の座は動きそうにない。


「またベッカーかなあ」


「そうね」


準決勝のリプレイが何度か流される。

 

どう見てもベッカーが頭2つ以上抜けている。

ただ、ほかの選手との違いがどうもよく分からない。


「どこが違うんだろ?」


単純に聞いてみると、ミキちゃんは人差し指で空中にすっと縦線を引いた。


「普通は、背骨と骨盤がまっすぐでしょう」


「んと。それが普通なの?」


「全然意識してないのね」


ミキちゃんの眉毛が持ち上がる。

またもや余計なことを言ってしまったようだ。


「理想はまっすぐじゃなくて、ちょっとだけ前傾してるのがいいんだけど、あまり前にいきすぎてるのもよくないわけ」


「ふむふむ」


さあ、全身を耳のようにして聞くのだ。


「それで、ひざが骨盤より後ろにいきすぎると、骨盤が引っ張られて前傾しちゃうの。だからひざが後ろにいきすぎないように足を回転させなくちゃいけない。ひざが伸びきる前に前に振り上げるような形なんだけど、ベッカーはその技術が優れてるのと、振り上げるときに上手に足をたたんでるから最短距離で足が前に伸びてるわけ」


うん。

ミキちゃんは熱弁したけど、何を言っているかは半分以上分からなかった。

もう1回、いいですかね…。


「ミキちゃん、すごいなあ。なんでも知ってて」


「星島君以外はみんな知ってるの」


「そうですか…」


一瞬、僕はがっかりしたけど、姿勢を正してお願いした。


「おれに教えて。教えてください」


「いいけど。責任持たないわよ」


「大丈夫。一生ミキちゃんについてくから」


「別についてこなくていいけど」


あっさり拒否される。まあ、そんなもんだろう…。


「星島は、あたしについてくればいいの」


そんなふうに言いながら、僕の皿のエビを横取りする杏子さん。

最後のエビだったのに…。


「いろいろ教えてあげるから。いろいろとね!」


「いえいいです」


レースは、予想どおりベッカーの圧勝だった。


追い風0.6mで、10秒73の好タイム。

これでベッカーは世界選手権2連覇。

オリンピックも併せると、世界大会で3連続での金メダルとなった。


一方、日本人最速の新見沙耶は予選落ち。

日本人はまだまだ世界では戦えそうになかった。


少なくとも、今のところは、だ。

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