033話 新見沙耶の戦い


運動会の前日。

あるいは、遠足や修学旅行の前の日でもいい。

オリンピックや世界選手権が迫ってくるときの感覚はそんな感じで、筆舌に尽くし難い。


楽しみで、昼も眠れない。

とにかく、体の奥がむずむずしてくるような感じだ。


そして、その夏の一番暑い時期を乗り越えると。

あっという間にその日はやってきて、世界選手権オタワ大会が開幕した。

開催初日、僕たちはオタワではなく杏子さんのマンションに集まっていた。

お金と時間あればカナダまで応援しに行ってもいいが、時間はともかく、僕たちにはそんな金はない。

杏子さんはあるかもしれないけど。


「眠い眠い眠い」


オレンジ色のソファーに寝転びながら、杏子さんが繰り返す。

その横に千晶さんがいて、聡志とミキちゃんもいる。

まあいつものメンバーで、みんなでテレビを見ながら新見を応援しようというわけだ。


絹山大学からの、唯一の代表。

新見沙耶の戦いが、いよいよ始まる。


「ふわ…。千晶ひざ貸して。何時?」


「6時半です」


「ちゃっちゃとやればいいのに」


時差があるので、日本では朝になる。

さすがに徹夜で見たいと思う時間帯ではないので、頑張って起きて朝に集合したのだった。

運動部なので、朝は強いです。


「加奈は?」


杏子さんに聞かれたけど、僕は首をかしげるしかなかった。

一応、来るような話はしていたのだ。


「寝てるんじゃないですかね」


「ああ。よく寝る子だねえ」


「だから育ったんじゃないですか」


「なるほど。あふ…」


そういう杏子さんも眠そうだった。

というか、しゃきっと起きているのはミキちゃんだけだ。

長い髪を後ろで束ねて、みんなにコーヒーのおかわりを入れている。

 

テレビでは、女子800mの予選が行われていた。

若干18歳。

高校3年生の本多由佳里が3組に登場して、3位だったが何とかタイムで拾われて予選を突破したところだった。


しかし、大した高校生だ。

本多由佳里は、堂々と、笑顔でインタビューを受けていた。

高校生が、初の世界大会で予選突破は胸を張っていいだろう。


「しかし、すごいね、この子も」


杏子さんが、千晶さんの太ももを撫でながら呟く。


「それはそれとして、ミキ、なんか食べたい」


「何も準備してませんよ」


「冷蔵庫になんか入ってなかった?」


黙ってミキちゃんはキッチンに向かう。

ミキちゃんの料理なら僕も食べたかったけど、戻ってきたミキちゃんはそのままソファーに座って首を振った。


「ビールとキャベツとバターしか入ってませんでした」


「そう。やっぱりね…」


「知ってて何を期待してたんですか」


笑いながら言うと、杏子さんはじろっと僕を見た。


「星島、焼きそばパンとコーラ」


「えーっ。見終わったらなんか食べに行きましょうよ」


「やだ。寝る」


「太りますよ」


「美女は太らないようにできてるの!」


もちろんそんなわけはないけど、杏子さんは食べても飲んでも太らない。

練習が、信じられないほどハードなのだ。


「とにかくなんか食べたい!」


「駄々っ子だなあ…」


「もうちょっとだけ我慢して、応援が終わったら、パブロにでも食べにいきましょ。ね?」


優しく千晶さんに言われて、杏子さんはくいっと首を上げた。


「パブロ?」


「杏子さんの好きなチョコケーキもあるし」


どうやら納得したらしい。

黙って千晶さんのひざに頭を乗せて、杏子さんは欠伸をした。


それが移って僕が口を開けた瞬間、女子100mの選手たちがトラックに姿を現した。

女子100m予選、3着プラス3。

全7組で行われ、各組、上位3名が準決勝に進出できる。

また、4位以下の選手の中で、タイムがよかった上位3名がプラスで拾われて準決勝に進むことができる。


まずは3位に入ることだ。

しかし、それだけのことが非常に難しい。

何しろ相手は世界の国々の代表であり、要するに、出場している全員が新見沙耶のようなものなのである。


「お。出た出た」


その1組目、2レーンに新見沙耶が登場する。

 

先にも述べたが、女子100m世界記録は、アメリカのミシェル・アーチボルドが25年前に出した10秒47だ。

これはほぼ間違いなく薬物の力を借りた記録で、永遠に破られないとも言われている。


そして、堂々の世界歴代2位。

10秒68の記録を持つのが、ジャマイカの24歳、褐色の弾丸クリスティアーネ・ベッカーである。

ベッカーは、22歳で出場した世界選手権で金メダル達成。

去年の五輪でも金メダルを取っており、今回勝てば世界陸上連覇、世界大会3連勝だ。

まさに、女王である。


その女王が、新見の隣、3レーンに入っている。


「悪い組に入ったなあ…」


杏子さんの呟きに、千晶さんも頷いた。


「アメリカの選手もいますね」


杏子さんが体を起こして、ソファーの上にあぐらを組んで座った。

だけどやっぱり人恋しいのか、千晶さんの頭を際限なく撫でる。


選手たちはスターティングブロックを調整し、軽くダッシュをして具合を確かめる。

それから、ジャージを脱いでかごに入れる。

体温を逃さぬよう、それぞれが体を動かしながらスタートを待つ。


「さあて。どうなるか」


荷物の入ったかごを女の子たちが運んでいって、実況が場内アナウンスと同時に選手を紹介

する。 

ジャマイカのクリスティアーネ・ベッカーはもちろん、アメリカの選手も強敵だ。

だけど、新見もかなり好調だし、自己ベストに近い記録を出せば、上位に肉薄できるのは間違いない。

いかに自己ベストに近い記録を出すか、それがいつも勝負の鍵となってくるのだ。


「10秒台って、簡単に言うんだよなあ…」


欠伸をしながら聡志が言った。

アナウンサーが、新見の10秒台に期待がかかるとか言うからだ。

人類の歴史上、11秒台の壁を破った選手が何人いるかというと、58人しかいない。

現役選手に限っていえば、十数名しかいないのだ。

ベッカーみたいな選手がぽんぽん10秒台で走るから、いかにも簡単そうに見えるのだが、実際はとても難しいのである。


野球でいえば、ノーヒットノーランみたいなものだ。

いくらすごいピッチャーでも、投げる前から「ノーヒットノーランに期待がかかる」とは誰も言わないはずである。

選手としては、まずはパフォーマンスを見てもらいたいというのが本音だ。


セントキッズネイビスという、人口5万人にも満たない小国に、クレイ・ローリンズという男子スプリンターがいる。

この人のベスト記録は、9秒98。

現在の男子100mの世界では大した記録ではない。

日本記録と大差ないわけだから、とてもじゃないがメダル争いなど不可能に見える。


しかしローリンズは、世界陸上の100mで金メダル1回、オリンピックで銅メダルを2回も取っている。

金メダルを取ったときは国のホームページのトップ画像を飾ったほどの、セントキッズネイビスの英雄だ。

タイムだけ見れば、例えば金メダルをとったときは10秒07で、大したことはない。

銅メダルを取ったときは10秒05と10秒09だ。

世界レベルで見たら、たいしたことはないタイム。

日本人でも出せそうな記録だ。

しかし、大舞台でびしっと自分の走りをしてベストに近い記録をマークして、日本人には縁のない決勝に6度も進出し、その半分はメダルをとっている。

これはもう、すさまじいパフォーマンスだとは思いませんか。


とにかく、だ。


記録の面で楽しめるのも陸上だが、もっといろいろな楽しみ方をしてほしい。

そもそも、10秒台を出したから、9秒台を出したからゴールではない。

9秒台おめでとう、よかったね、というわけではない。

何かそのへんをはき違えている人が、ものすごく多いと思う。

たぶん、結婚がゴールだと思っている人たちだ。


「新見さんは…」


ミキちゃんが隣で小さく呟いた。


「ほぼ完成されたスプリンターだから、これから先は大きな壁との戦いになるわね」


「ほう」


「今のままだとちょっと厳しいかしら」


「リアリストだなあ」


「私はいいの。選手がリアリストだと困るけど」


「なるほど…」


ミキちゃんは淋しそうだった。

どうしてそんな顔をしているのか、僕にはさっぱり分からなかった。



「on your mark」



そしていつものルーチンワーク。

選手がスタートラインにつく。

スタジアムが徐々に静寂に包まれていって、やがて時が止まる。

選手はゴールラインを睨み、そして瞑想する。

すべての感覚が聴力に集められ、すべての視線が8人に集められる。


「set」


渇いた電子音が世界に響く。

 

新見は素早く飛び出すと一気に加速し、トップに並んだまま徐々に体を起こしていった。

身長はさほど変わらない。

だけど体型的には圧倒的にがっしりしている3レーンのクリスティアーネ・ベッカーが、序盤から一気に加速する。

ばねのように、鞭のように足を回転させる走り方だ。


「硬い」


ミキちゃんが呟く。

それはベッカーではなくて新見のことだった。

隣のベッカーを意識しすぎたのか、確かに全身に力が入りすぎているような気がする。

前半はトップに肉薄していたのだが、徐々に差が開いていって、中盤から後半に欠けて完全に伸びを欠いた。

2番手から3番手、4番手と順位を落としていく。


「うぬぬぬぬぬ」


そしてそのまま、奇跡のように都合のいいことなど何も起こらず、新見は5着でフィニッシュした。

1着はベッカーで、速報タイムは11秒12。

後半はかなり力を抜いた走りで、好調さを見せつける素晴らしいパフォーマンスだった。


「こりゃ、タイムも駄目かなあ」


杏子さんが欠伸まじりで言った。

要するに、新見はタイムで拾われるのも無理だろう、という意味だ。

ベッカーとの差を見る限り、11秒5台といったところだろうか。


いいときの新見の走りではなかった。

まずまずだったのは前半だけ。

あとは自分からブレーキをかけているようなスプリントだった。

速く走ろうと力んでしまって、力が入って脚が流れたがために逆に遅くなってしまうという、まるで僕のような走りだ。


しばらく待っていると、正式タイムが表示される。

5着で11秒51、という結果だった。

インタビューを受けるが、先ほどの本多由佳里とは対照的な表情だ。

自分でも納得がいく走りではなかったのだろう。


「春過ぎが一番よかったわね」


ミキちゃんはまた呟いた。


「ちょっとずつ調子が悪くなってるみたい」


「そうかな」


「自分でもわかってるから、力が入ったんじゃない」


「ああ」


なるほどと思った。さすがはミキちゃんだ。


それからしばらく、今のレースを振り返ってあれこれ議論する。

ほんのわずかな時間の戦いだが、その中にたくさんの課題があるわけだ。

もちろん、それを修正し、次につなげるのは新見の仕事。

だが、課題を見つけて新見に伝えるのは僕らでもできる。

特にミキちゃんは、ある意味、それが仕事みたいなものなので、真剣な表情でテレビ画面に視線を落としていた。


「よし!」


しかし、まったくどうでもよさそうな顔をしていた杏子さんが、身体を起こしながら僕たちの会話を遮った。


「サンドイッチとコーヒーとチョコケーキ!」


「…まだ7時ですよ」


「そのあと海!」


「海?」


「泳ぎたいな。星島だって、あたしの水着見たいでしょ?」


「いえ。とりたてて…」


「いつも裸見てるから、今さら水着とかはいいか」


「見てないです。見てないですからね!」


慌てて否定して、みんなが笑う。お約束というやつだ。


チャイムが鳴って、杏子さんが出ていく。

戻ってきたときは加奈と一緒だった。

加奈は帽子を目深にかぶっていたけど、ぬぐと頭がぼさぼさの状態だった。

杏子さんが、ソファーに座った加奈の後ろに回って手で髪をとかしていく。


「加奈、合宿行こ。合宿行きたいでしょ?」


「ほえ?」


「海。合宿。一夏の恋…」


杏子さんに耳元で囁かれ、加奈の表情がぴかっと光った。


「あっ。行きたい、合宿!」


「でしょ?」


「わーい!合宿!合宿!」


要するに、杏子さんはただ周りを巻き込んで、行きたい行きたいと騒ぐだけなのだ。

段取りはすべて千晶さんやミキちゃんで、彼女らがその気にならなければ何もできない。

人任せにもほどがある。


「ねえ千晶、行こうよう」


今度は、千晶さんの後ろに回ってゆさゆさと肩を揺らしたり、ほっぺたをぺたぺた叩いたりキスしたり、要するに駄々っ子だった。


「2、3日、練習のことなんか忘れてさあ。のんびり遊びたいじゃん」


「それって合宿と言わないのでは…」


聡志がぼそりと突っ込んだけど、杏子さんには聞こえていないようだった。


「ミキもいいでしょ、行こうよ」


「私は行きません」


「ええ、なんでさ。行こうよう」


「別に泳ぎたくないし。お金もかかるし」


「うちの別荘に泊まれば大丈夫。聡志に車出してもらってさ、ミキが料理してくれたらもう実際タダみたいなもんよ。というかミキが来ないと駄目なの!」


ちょっと考えているミキちゃんに、杏子さんがとどめの一言を放った。


「いいバイト紹介するからさあ。家庭教師のバイト」


「家庭教師?」


「そ。時給2000円」


僕は見た。

ミキちゃんの表情が、一瞬揺れたのを。

かくしてミキちゃんが懐柔され、千晶さんも折れ、聡志と僕の意見は最初から無視され、僕たちは夏合宿に行くことになった。

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