030話 真夏の雨と夢


もし、久しぶりに知人に会って、お前ちょっと老けたんじゃね?と言われたら僕はこう答えるだろう。

経済学原論のテストが原因だ、と。


とにかく、精神的にぼろぼろになりながらも、やっとテストが終了。

もうく終わった瞬間に、勉強したことはすべて忘れてトラックへ向かう。

9月までは夏休みなので帰省する学生も多いが、部活をしているとそうもいかない。

まあ、お盆だけちょろっと帰ればいいだろう。


そんなふうに思いながら、トラックに行く前に、学生協で飲み物を買っているときだった。


「星島さん」


背後から声をかけられて、僕はびくっとして危なくいちごオレを落としそうになった。

この暑い中にいちごオレはどうかと思うが、最近のブームなのだ。

またそんなのばっか飲んでとミキちゃんに怒られないように、こっそり飲むつもり。


だから、声かけられたくらいでびっくりしたんです…。


「おはようございます」


「あ、おはよう」


ハイジャンプのカリスマ1年生、水沢さんだった。

本年度、ミス絹山大学。

いつも何人かファンらしき子を引き連れているのだが、今日は一人だった。

夏休みなので学校に人が少ないというのもあるんだろうけど、本当に珍しいことだ。


しかしまあ、何というか、だ。


(これはまた…)


淡いブルーのトップスに、ひざ下までの白いパンツ。

露出が少ないシンプルなファッションなんだけど、思わず見とれてしまった。

つま先からスタートしたら、腰まで42.195キロくらいあるだろう。

とにかくもう足が長いのだ。


それで、もう、さわやか。

真夏なのに、体育会系なのに、涼しげなのだ。

いつもいつも暑苦しい連中には見習ってほしい。

織田君とか、聡志とか、加奈とか、高柳さんとか。

人のことは言えませんけども。


「部活ですよね」


「ハイ」


コクコクとうなずく。


「ご一緒しても?」


「それはもう、ゼヒ」


一緒に学生協を出て歩いていく。

どんよりとした曇り空で、今にも雨が降りそうだったけど、湿気がこもって余計に暑い。

僕はもうこの時点で汗が出そうだったけど、水沢さんは涼しげな表情だった。

美人は汗をかかないというのは本当かもしれない。


「星島さんは帰省しないんですか」


問われて、ちらりと水沢さんを見た。

癖なのか、首を傾けて僕を見ている。


「お盆だけ帰る。3日間くらいかな」


「そうですか」


「今年も陸上漬けの夏だなあ」


「毎年のことですね」


「夏だからね。インハイもインカレも、世界陸上もあるし。もっとも、どれもこれも出れないけど」


インターハイ、か。

未だに、夢に見る。

スタートラインにいる僕。鳴らされる号砲。

このレースで4位以内に入ればインターハイという状況で、まったく前に出ない足。

動かない腕。


そして、目が覚めて安堵し、夢だったかと思う。

だけど、夢じゃない。

夢では、なかったのだ…。


僕に、救いがあるとすれば、いまだに、諦め悪く陸上を続けていることだろう。

もし、走ることをやめていたら僕はもっと悪夢にうなされていただろうと思う。

可能性を残したからこそ、何だかんだいって、こうやって笑っていられるのだ。


「ま、好きにやれるのは今だけだと思って」


「そうですね」


水沢さんはあまり興味がないようだった。

そしてまた、しばらく沈黙が続く。

水沢さんとはいつもこうだなあと思っていると、階段の手前で、ぽつりと雨が降ってきた。


夕立にはまだ早いが、ほんの30秒くらいでどしゃ降りになってしまう。

慌てて文化サークル棟の入口のところに避難して、二人で空を見上げた。

一過性の雨だろうが、しばらくやみそうになかった。


「私、陸上部やめようと思ってるんです」


雨の中。

ふいに、水沢さんが小さく呟いた。

突然だったので、正直、驚いた。


「え、なんで?」


「記録はぜんぜん伸びないし、試合にも出れないし、このまま続ける意味あるのかなって」


何だか、身につまされる言葉だった。


「インハイは2回とも予選落ちだし、スポーツ推薦じゃないし。どうせ大学でやめるんだろうから、今やめても同じかなって」


正直、いらっとした。

水沢さんにじゃない。

ちょっと前まで似たようなことを言っていたことを思い出して、自分の情けなさにいらっとしたのだ。

 

もちろん今でも葛藤はある。

ほんの半歩進んだだけで、僕の状況はほとんど変わっていない。

本来、水沢さんにかける言葉などありはしないのだ。


でも、それでも、僕は口を開いた。

雨が地面を叩く音が、やけにうるさかった。


「まだいいじゃない。おれなんか、インハイは東北大会の決勝7位が最高だよ」


意外だったのだろう。

水沢さんは顔を上げて僕を見た。


「え…、そうなんですか?」


「関カレもインカレも出場経験なし。大学は普通入学で、周りはみんなおれより速くて、練習してても全然楽しくないし、試合でも結果が出せないし」


水沢さんは真剣な表情で聞いていた。

僕はちょっと照れくさくなったけど、頑張って続けた。


「でも、今年に入って、ベスト0秒22も更新したんだよ。もし去年やめてたらこの0秒22はなかったわけで、この先どのくらい縮められるか分かんないけど、やめたらそれもなくなるわけじゃない。それってすごくもったいないような気がするんだよ」


水沢さんにじゃない。

自分に言い聞かせる言葉だった。


「……」


地面を叩く雨音の中、しばらく、水沢さんは宙を見つめていた。

それから僕をじっと見て、小さく、唇を震わせた。


「もったいない?」


「うん。そんな気がする」


「もったいない…」


呟くように言って、また空中に視線を彷徨わせる。


「無理に口実を探すことはないと思うよ。どうしても続けるのが嫌なら仕方ないけど」


水沢さんは少し首を傾けて僕を見た。


「星島さんは、嫌にならなかったんですか?」


「ならなかったって言ったら嘘になるけど、自分の限界はまだここじゃない…、って思うから続けられるっていうか。限界が見えたら、そこで終わりだなって思うんだけど…、うまく言えないけど」


「いえ。分かります。自分を信じてるんですね」


「信じて…、信じてるのかなあ。でも、自分くらい信じてあげてもいい気がする。勘違いだったとしても」


「はい」


「おれなんかが、人にあれこれ言うあれじゃないんだけど」


「いえ」


首を振っておいて。 


水沢さんはふいに両手を伸ばして僕の右手をつかみ、胸の前でぎゅっと握った。

じっと僕を覗き込むその表情は真剣で、その瞳はきれいなガラス玉のようだった。


「ありがとう。星島さんに話してよかった」


「あ、え、うん」


「星島さん」


「は、はい」


「一緒に、頑張りましょう」


「あ、それはもう、ハイ」


前も思ったんだけど、実はけっこうな感激屋さんらしい。

普段からこんな感じで、自分でも知らないうちにファンを増やしているのだろう。

だって、この状況で、ぐっと手を握られて瞳を見つめられたら、本当にもうどうにかなってしまいそうだからだ。


いや…、別にどうなってもいいよな。


そもそも、僕と水沢さんの間には何の障害もない。

どうなってもいいのだ。

というか、どうにかなりたいのだ。

いやいやむしろどうにかしたいのだ。

どうにかしてしまおう。

 

よし、どうにかする!


「水沢さん…」


空いている左手で、水沢さんを抱き締める。

つもりだったんだけど、その瞬間、水沢さんはぱっと手を離してしゃがみ込んだ。

半分だけ出した左手の間抜けなこと間抜けなこと。


「にゃんこだ。にゃんこ、にゃんこ」


よくキャンパス内を歩いている黒猫が、雨宿りに来たらしい。

水沢さんがそっと指を伸ばすと、それにくりくりと頭をこすりつける。

お前…、何というタイミングで来てくれるんだ。


「可愛い」


猫好きらしく、細い目をますます細めて猫を撫でる水沢さん。

 

文化サークル棟の前の道を、赤い傘を差して向こうから歩いてきた女の子たちがこっちを見ていた。

僕は中途半端に持ち上げていた左手を雨の中に差し出した。

いかにも、雨の量をチェックしているんですよ、の体勢だ。


「いやあ、やまないなあ」


「にゃんこ、にゃんこ」


「今日は筋トレメインかな」


「にゃんにゃんにゃん」


「た、高跳びの練習は無理だよね…?」


「あれ。お腹すいてるのかな」


星島望、黒猫に完敗。

ちょっと悔しかったけど、猫を飼ったら水沢さんを簡単にうちに呼べそうだなと、腹黒いことを考える、僕なのでした。

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