028話 初夏の匂い


ミキちゃんと一緒に、日本選手権最終日のスタンドへ向かう。


やや肌寒い曇り空の下、観客席はそこそこの客の入りだった。

スタジアムのトラックの上では、ちょうど、女子800mの決勝が始まったところだった。

去年のチャンピオン、まだ高校3年生の本多由佳里がスタートから飛ばしていて、オープンコースになるとさらにその差を広げていく。


(いた)


第1コーナーと第2コーナーの中間に、加奈や聡志の姿が見えた。

二人だけではなく、うちのチームがほとんど固まっている感じだ。

ゴール前は大体どのレースでも混んでるので、そういうときはここに座るのがお勧め。

特に短距離種目だと、ゴールした選手が少し惰性で走ってきて、このへんでとまります。

レース全体は見にくいけど、選手を目の前で見ることができますよ。


「おーおーおー。あんなに差つけちゃって…」


何かつぶやいている聡志の横に座ったところで、からんからんとファイナルラップを告げる鐘が鳴った。


若18歳、本多由佳里が1周目からほかの選手をまったく寄せ付けない勢いで走る。

そして、そのまま後続を30mほどぶっちぎってゴールした。

従来の記録を0秒09破る、2分00秒87の日本記録。

スタンドがどよめいて、一気にフラッシュがたかれた。


「うほ。すっげえ!」


18歳にして日本新記録だ。

しかもこれで日本選手権連覇である。

天才というのは彼女のような人のことを指すのだろう。

むろん、日本人初の1分台の記録への期待も大きいし、そうなると世界が見えてくる。

何しろ、まだ高校3年生だ。


しかもこれがまた美人で聡志が鼻の下を伸ばしている。


「うちに来るといいなあ」


「中長距離の選手は、うちにはあんま来ないだろ」


冷静に言うと、聡志は唇を尖らせた。


「いいじゃん。夢ぐらい見させろよ」


「ロシア人も夢見るんだな」


「そりゃ、見るさ。赤き星々のクレムリンと、白き風雪を打ち砕く勇気の夢をな!」


「意味はさっぱり分からんけど勢いは評価する」


「スパシーバ!」


スタンドの興奮が冷めない中、女子400mの選手がトラックに姿を現した。


その中に、杏子さんの姿もあった。

真面目な表情をした杏子さんが5レーン。

さすがに日本選手権の決勝だけあって、予選とは違って集中してきている。

と思ったら、僕らの掛け声に気が付いて、手を振ってにへらと笑った。


「いけますかね」


後ろから声が聞こえて振り返ると、仲浜高校の後輩、織田新一郎君だった。


「あれ。来てたんだ」


「さっきあいさつしたじゃないすか!」


「そうだっけ」


よく見ると、日本選手権には出場しない選手も何人か来ている。

わざわざ新幹線に乗って、しかも入場チケットまで買って、ありがたいことだ。


いつの間に仲良くなったのか、真帆ちゃんと水沢さんが並んで座っている。

真帆ちゃんの鼻の下の伸び方も半端ない。

僕と目が合って、これまで見たことのないような笑顔をしてくれたぐらいだ。


「チャンピオン、もう1人欲しいっすね」


と織田君。


「ん?」


「スプリントチームから、新見さん以外で」


「ああ。そうだな、頑張ってほしいな」


「大丈夫だよ、普段はひどいけど、杏子さんやるときはやるから」


聡志が言って、僕は大きく頷いた。


「普段はひどいけどな」


「そう、普段はめちゃくちゃだ」


「最悪ともいえる」


「…そこをフィーチャーするのはやめようか」


「うん…」


そう、確かあれは、去年のインカレのマイルリレーだった。

2走から3走のところでのバトンミスが響いて、千晶さんから5位でバトンを受け取ったアンカーの杏子さんは、前を走る選手をごぼう抜きして、15mもの差を一気に逆転してトップでゴールしたのだった。

あのときの杏子さんの雄姿が、僕たちの脳裏には焼きついていた。

きっと今回もやってくれるに違いない。

僕はそう思った。


普段の所業も脳裏には焼きついてるけど、やるときはやってくれる。はず。


「いよいよだ…」


ジャージを脱いでユニフォーム姿になると、場内にファイナリストが紹介される。

 

名前がコールされると、杏子さんはスタンドを振り返って大きく手を振った。

人気選手なのでそれだけでスタンドが沸いたけど、ついでにチュっと投げキッスをして笑いまで起きる。

いつもあんな感じだ。

 

「on your mark」


早くもスタートだった。

首を軽く回して、杏子さんがスタートラインに歩み寄る。

予選はトップ、王者の5レーンだ。

ゆっくりとした動作でスターティングブロックに足を乗せると、ふうっと息を吐き、ライン上に手をそえる。

肩を上下させ、一度、前を見てそれから頭を下げる。


世界が徐々に静まっていく。

スタンドが沈黙し、選手たちが完全に静止。

まるで永遠にも思える一瞬を全員が共有する。


「set」


号砲が鳴って、8人の選手が飛び出した。

 

コーナーからのスタート、セパレートなのでちょっとポジションがよく分からない。

杏子さんはどうなのか、漠然としか把握できないけど、まずまず悪くないようだった。

 

400mの選手は、特に女子の場合、大きく2つのタイプに分かれると言える。

杏子さんのようにすらりとした体躯で、どちらかといえば800mよりの、大きなストライドとスタミナで走るタイプ。

そして、どちらかといえば200mよりの、筋肉隆々でピッチとスピードを生かして走るタイプだ。

400mは、スピードとスタミナの総合力の戦いである。

どちらが有利ということはないのだが、とりあえず杏子さんが先手を取ったようだ。


「がんばーっ!」


加奈が大きな声をあげた。

バックストレート、杏子さんはかなり飛ばしているようだ。

ほかの選手との差をじわじわ広げている。

前半から積極的に先行して押し切る策だろうか。


あっという間に残り200m。

杏子さんが先頭のまま第3コーナーに差しかかる。

400mはここからが苦しい。

だけど杏子さんは変わらず美しいフォームのまま、ぐるりと最終コーナーを回って直線に入ってきた。


ホームストレート、残り100m。


300mを走ってきた選手には、最後の100mが150mにも200mにも見える。

苦しい種目なのだ。

さすがに前半飛ばしすぎたか、杏子さんも少しあごが上がっている。


「あっ、あっ」


加奈がわめいた。

杏子さんの脚色が鈍り、残り50mというところで4レーンの選手にじわじわ差を詰められている。

10mほどあったリードが今やもう5mぐらいだ。


日本記録保持者、ライテックスの小林由紀だ。


絹山大学とライテックス、両チームの応援団から歓声が飛ぶ。

杏子さんが細長い足を懸命に伸ばす。

負けじと小林由紀も追いすがる。


「あ」


「い」


「うーっ!」


何とか粘れるかと思ったが、残り5mのところで一気に小林由紀にかわされてしまう。

1mほど差をつけられて、そのままゴール。

僅差、杏子さんは2着に終わった。


前半から積極的に攻めたレース展開は評価できるが、結局、着順は去年と同じだった。


「惜しいっ!」


「惜しかったな…」


絹大の応援団からため息が漏れる。

拍手。

肩で呼吸をしながら小林と握手をすると、トラックに小さく礼をして、杏子さんは無表情に引き上げていった。


「……」


何となく、みんな黙り込んでしまう。


絹山大学チームが意気消沈する中、男子400mが行われた。

優勝したのは、北海道ACの佐藤博仁選手だった。


「…誰だ?」


「わき役だろ…」


そして、女子100mの選手が入場してきて、スタジアムの空気ががらりと一変した。

 

いよいよ、決戦だ。

いつものように観客の視線が新見に集まる。

シャッターを切る音があちこちから聞こえ、電光掲示板にも、新見沙耶ばかりが映っている状態だった。


新見沙耶は、太陽だ。


常に光り輝いていて、僕たちに恵みを与えてくれる。

だけど僕は、その反対側に、影があることをよく知っていた。

ずっと、その影の中で走ってきたから…。


「ん。どこ行くんだよ」


立ち上がった僕を、聡志が見上げた。


「もう始まるぞ」


「うん。ちょっとトイレ」


足早に通路を抜け、スタンドを降りるとサブトラックに向かう。

いつも一緒の千晶さんが100mの決勝に出る。

今、杏子さんはひとりぼっちかもしれない。

そう思うと、どうにも気になって仕方なかったのだ。


最終日。


しかもそろそろ全日程が終了するという時間帯で、サブトラックの人影はまばらだった。

もう世界は薄暗く、祭りの後という感じで、何だかとても寂しい感じがした。


(ん…)


しかしそこに、杏子さんの姿はなかった。

ダウンをしているだろうと思ったけど、タータンの上にはいない。

杏子さんのことだから、どこか戻ってくる途中で道草を食っているのかもしれない。


戻ろうかと思った瞬間、ふと、ずっと奥の木陰に人影を見つけた。

木にもたれて座っているのか、足だけ見えたけど、絹山大学の白いジャージのようだ。


(あれかな?)


さくさくと芝生の上を歩いていく。

やはり、そうだった。

誰も来ないようなところで、ひょっとして泣いてるのかと思ったけどそうではなくて、何だ

かじっとして腕を組んで目をつぶっていた。


足音に気付いて、杏子さんが瞼を開く。

ちょっとどきりとした。


「はう?星島?」


変な声。


「はい」


「ひょっとして星島望?」


「その、星島望です」


「あれ?応援?」


「ん?」


「日本選手権、わざわざ応援に来たの?」


「出てたでしょ!昨日まで!」


じたばたと芝生を踏むと、杏子さんは軽く笑った。


「そだっけ。全然気付かなかった!」


「ひどい…」


「みんなは?一人?」


「え、うん」


「そっか。会いに来てくれたんだ。うれしい!」


杏子さんはにへらと笑った。

少しは落ち込んでいると思ったのだが、もう残念なくらい、いつもの杏子さんだった。


一応、僕なりに気を遣って様子を見に来たのに、何だかばかばかしくなってくる。

杏子さんは楽天家なのか、あるいは楽天家を装っているのか、とにかく人を暗くさせない。

愚痴を言うのもいつも笑いに紛らせてしまうくらいで、そこが杏子さんの一番いいところだ

と思った。


「落ち込んでるかと思ったんだけど」


「落ち込んでるよ。ああもう、悔しいっ」


べしべしと僕の足を叩く。


「でも、いいレースだった」


「ここ一番で勝たなきゃ駄目なのさ」


「そっかー」


静かに、どこからか風が吹いてきて僕たちの四肢を撫でた。

6月末だが少し肌寒かった。

杏子さんはぶるりと震えて僕の手をぎゅっと握った。

思いのほか、その手は冷たかった。


僕の手をごしごしと擦って温める。


「寒い!」


「ブレーカー着る?」


「貸して貸して」


ウインドブレーカーを着せてやると、杏子さんはすぽっと袖から手を出して、ジッパーを締

めた。

ぱたぱたとお腹の辺りを叩いて、それから左手を持ち上げる。

杏子さんが着るには大きすぎるようだ。


「意外と大きい」


「そうですね」


「やっぱ男の子だね」


ぷらぷらと、手首を動かして僕を見る。


「沙耶の応援しなくていいの?」


杏子さんは言って、僕の肩をすりすりと撫でた。

たぶん、杏子さんは誰かに触れているのが好きなのだろう、いつも誰かにべたべたとひっついている。

誰かに触れていないと不安になるのかもしれない。


「まあ、結果分かってるし」


「そっか。ありがとね」


言って、体を起こすと、杏子さんはふいに僕に口付けた。

それは、ほんの一瞬の出来事だった。

どうしてそういうことになったのかは分からなかったけど、杏子さんとキスしたことだけは間違いなかった。


「今のは、お礼ね」


ちょっと、恥ずかしそうな表情。


「あ、はい…」


「もっとしよっか」


「え」


「いいよ、星島なら。今晩うち来る?」


5センチもないくらいの至近距離で、覗き込まれる。

その真剣な表情に吸い込まれて、僕は素直に頷いた。

杏子さんとしたいかしたくないかって、もちろん、したいに決まってる。


「うん」


「全部、しちゃおっか」


「うん。したい…」


「だ」


「だ?」


「だめーっ!」


一転、最高に意地悪な顔で杏子さんは笑った。


立ち上がって、無性にうれしそうにくるくる回る。

あまりにも大騒ぎするので、通りがかった選手が何事かと驚いていた。


「あははは。うん、したい、だって。あはははは」


「くっ」


「みんなに報告してこよっと!」


「ひいいいいっ」


「星島が、あたしと、もががが」


慌てて口を塞ぐ。

まるで子ども時代に戻ったみたいに、じたばたと争いながら僕たちは待機所に戻った。

静かに日が暮れて、競技場から大きな歓声が聞こえてきて、僕たちは空を見上げた。


夏の匂いが、どこからか漂ってきていた。

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