023話 浅海杏子暗躍す


知香ちゃんと押し問答を3つか4つして、部室に向かう。


杏子さんには今度、しっかり説教しておかねばならぬ。

この調子であれこれ変な噂をばら撒かれたら、ただでさえもてないのが絶対に彼女ができな

くなってしまう。


「星島さん」


着替えてトラックへ出ると、今度はスプリントチームの1年生に声をかけられた。

薄紫のジャージがトレードマークの、織田新一郎君だ。


背は低いがガッシリしており、スプリンターというよりは格闘家みたいな体付き。

茶髪で、おしゃべりで、ちょっと軽薄そうで、僕としてはあまり仲良くしたいタイプではなかった。

少し遅れて、6月になってから入部してきて、部内では浮いた存在になっている。

個人的には薄紫のジャージもどうかと思う。

薄紫とかピンクとか、ジャージには合わない色もあると思うのだ。


「ちょっと質問があるんですけど」

 

もしかすると、僕も、さっきの知香ちゃんみたいに嫌な顔をしていたかもしれない。


「ん?」


「村上さんに練習見てもらってるって本当っすか」


どこぞで噂を聞いたらしいが、また杏子さんだろうか。


「うん。まあね」


「おれもいろいろ教えて欲しいんすけど、星島さんからお願いしてもらえないっすか」


「おれが?」


「いや、村上さん怖いんで」


正直、何で僕がと思った。

 

だけど、自分で言えよとは言えないのが僕の弱いところだ。

だから体よく断ろうと思った。

なんというか、その、卑屈な人間で申し訳ないけれども…。


「でも、けっこう言うこと厳しいよ。ときどき殴られたり蹴られるし」


「いいっすよ」


「練習、すげえハードだよ」


「そのぶん伸びるっすよね」


「それはあれだ。えーと…、おれなんか、高校のときコーチとかいなくて適当にやってきたから、そのぶん伸びただけだから」


「知ってます。おれも仲浜っすよ」


「え…。仲浜高校…?」


「そっす」


織田君はにかっと笑ったけど、どことなく愛嬌のある笑顔だった。

 

同じ高校と聞いて、急に薄紫のジャージがぴたりと似合っているように見えてくる。

なんというか、その、現金な人間で申し訳ないけれども…。


「え、マジで?仲浜だったの?」


「マジっすよ。おれ、サッカー部だったんですけど、幸助とは仲よかったですよ」


「うわ、懐かしい。中山幸助」


思わず盛り上がってしまう。

中山幸助っていうのは仲浜高校陸上部の後輩で、とにかくめちゃくちゃ面白いやつだ。


急に、織田君と仲良くなってしゃべっていると、だんだんと人が集まってくる。

加奈と聡志がやってきて、柏木さんと荒川さんと高柳さんが姿を現したところで、ようやくスプリントチームはウォーミングアップを始めた。


「しかしいいっすよね、星島さんは」


アップの最中も、僕は織田君とおしゃべりをしていたけど、ふいにそんなことを言われた。


「何が?」


「浅海さんみたいな美人の彼女がいて」


「え。彼女じゃないよ」


「違うんすか?」


「うん。全然」


「おかしいな。付き合ってだいぶ長いみたいな話聞いたんすけど」


「誰から?」


「本人から」


僕はかくんと肩を落とした。本当、あの人は…。


「キャプテンと杏子さんの話はまともに聞いてちゃ駄目だって」


「星島。どういう意味だ」


僕の言葉に、前を走っていた高柳さんがぐりっと振り返った。


「返答によってはタダじゃすまさないぞ!」


「亜由美さんがそう言ってたんです」


ギギギギギと前を向いて、高柳さんは無言になった。

どうやら、タダらしい。

自分の彼女なのにそんなに怖いのか…。


体操をして、時間をかけてストレッチをして。

それからいつもの全体練習のあいだも、僕はずっと織田君としゃべっていた。

おしゃべりできる後輩がいるのはいいものだ。

あれこれ懐かしい話をしながら、メニューを一通りこなして、芝生の上に座り込んで休憩。

ぐるっとトラックを眺めると、どことなくみんなもリラックスムードだった。

少し、雲が流れてきていて、雨が降らないか心配だ。


「降りそうっすね」


と織田君。

気のせいか、空気も少し湿ってきているような気がする。


「今日は降らないって言ってたよ」


とロシア人の聡志。


「降るのは明日以降だって」


「ふうん。それどのへんの話?イルクーツク?」


「イルクーツクは雪!」


返事をしながら、聡志は芝生をちぎって僕に投げつけてきた。


「いくら何でも6月に雪は降らんだろ」


「いや、あのへんは最低気温が氷点下になることもあるらしい」


「ふーん…」


聞いていた千晶さんが、興味深そうな顔をした。


「橋本君、本当にロシア人なんじゃない?」


陸上部の良心に言われて、聡志はバタンと倒れた。

合掌…。

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