010話 南関東大学記録会


2週間後。

南関東大学記録会。


南関東の大学が何校か集まって行われる、短距離及びフィールド種目の記録会だ。

神奈川県の競技場で土日を利用して行われ、記録は公認される。

記録会なので、順位に意味はない。

100mのように参加人数が多い種目は複数のレースが組まれる感じだ。


「星島、いくぞーっ」


「はいはい」


「返事は一回!」


「はいはいはーい」


キャプテン高柳の号令で、100mに参加するスプリントチーム全員でアップをする。

絹山大学からエントリーしているのは7名である。

 

4年生の前キャプテン柏木和文さん。

3年生からは高柳智之キャプテンと、走る大和なでしこ、山田千晶さん。

2年生は、僕と新見沙耶、それからハギワラサトル…、じゃなくてロシア人の橋本聡志。

1年生からは唯一、去年のインターハイ覇者、本間秀二がエントリーしている。

日本記録保持者、本間隆一の実弟で、遺伝子なのか彼もめちゃくちゃ速い。

 

「よっしゃ、いくぞーっ」


アップが終わり、競技の時間が迫って、高柳さんが声を上げた。

それを合図に、僕たちはスパイクを片手に競技場に向かった。

風が、強くなってきていた。

幸い、追い風のようだったが、風速計の白い旗が、風にはためいて大きくなびいている。


「風、強いね」


いつの間にか、新見が横にきていた。


また声をかけられて、僕はものすごくうれしかった。

これで、会話をするのは二度目だ。

まあ一度目は会話にすらなっていなかったけど。


「うん。強いね。けっこう強い。かなり強いかも」


緊張しすぎて、ちょっと押しすぎてしまった。


「公認されてほしいなあ」


「うん。されてほしい。されてほしいな」


僕は、記録が公認されようが参考記録だろうが、正直いってどうでもいい。

だけど新見は、日本記録も狙っているだろうし、今年行われる世界陸上の参加標準記録も突破したいだろうから、公認されてほしいに違いない。


「そうだ。風がやむ儀式してもらおうか」


思いついたので言ってみる。


「儀式?」


「幸い、チュニジアから帰ってきた祈祷師がいるから」


「あはは。お願いしようかな」


スタンドには関係者しかいないので、人影はかなりまばらだ。


フィールドの中央では男子のやり投げが行われていて、ピットでは女子三段跳びが始まっていた。

そして、100mのスタート地点にたくさんの選手が集まっていて、僕は新見の横顔に鼻の下を伸ばしている。

そんな状況だった。


「星島君は、調子どうなの?」


新見に聞かれる。

新見に初めて名前を呼ばれた。

もう、もう、星島という名前は一生洗わない…!


「まあ、普通かな」


「そっかあ。頑張ってね」


「あ。普通だったけど、たった今よくなった」


「あはは。何それ」


「いやホントに」


もしかすると、今日、僕は世界記録を出すかもしれない。

本当にそのくらいエネルギーをもらえたような気がした。


しばらく、新見と話しているとスタートが迫ってくる。

小さな記録会なのでテンポが早いのだ。

進行が押してくれれば、もっと新見とおしゃべりできたのだろうが、まあ仕方ない。


「はい、A組の方、準備お願いしまーす」


男子A組がコールされ、僕はスパイクを履いて立ち上がった。

軽くストレッチをする。

コンディションは悪くなさそうだ。

いい風も吹いているし、タイムも出るかもしれない。


「頑張ってね」「頑張れよ」


「おう」


聡志はともかく、新見の応援があれば百人力だ。

 

7コースに入ってスターティングブロックを調整すると、軽くダッシュをして確かめる。

あまり緊張はしていなかった。

ジャージを脱ぎ、絹山大学陸上部の濃紺のユニフォーム姿になってスタートの合図を待つ。

記録会だから選手紹介など一切ない。

勝負ではなく、あくまで練習試合のようなものだ。


(よしっと)


腰ナンバーを貼って準備完了。

間もなく出番だ。



「on your mark」



スターターが台に登る。

僕は大きく深呼吸をして、それからタータントラックに膝をついた。

8人のアスリートがそれぞれ位置について、周囲が静まり返り風の音に耳を傾けた。

風が、背中からユニフォームをなびかせる。

ラインに手を沿えて、ちょっとだけ、僕は目を閉じた。

見えない世界は、やがて鮮やかな色彩となって僕の目の前に現れた。



「set」



号砲がなった瞬間、僕の細胞は爆発的に反応した。


一瞬、真っ白になったけど、考える前に足が出てスムーズに体が動いた。

重心が、うまくシフトしたように思えた。

細かく速くタータンを押し出す。

反発を利用して前に脚を伸ばす。

すべての動きが高速で、意識の外で行われた。

風が味方してくれているせいか、動作が楽だった。


徐々に身体を起こして、加速区間に突入していく。


視線はどこを向いているのだろう。

ゴール地点を見ているのか、その先の世界を見ているのか、あるいは何も見ていないのか、とにかくふらふらと定まらない。


少し、左の選手からは遅れているかもしれない。

だけどそれほどではない感じだった。

さほど集中していたわけではなかったけど、大気の壁のせいかスピードのせいか、視界が狭かった。

唯一、現実的に、スパイクでタータンを踏みしめる音がリズミカルに耳に届く。

その上に非現実的な遠くの世界からの応援が重なって、その合間で僕たちは走り続ける。

やがてタータンの音も意識から外れ、僕たちはただ走ることのみに集中していく。

それらすべてが、時間の渦の中で、ゆっくりと、しかし恐るべき速さで流れていくのだ。



「のぞむくうううううううんっ!」



どこか遠くの世界から、加奈の声が聞こえた。

それをきっかけに、僕はギアを入れかえて一気にフルスピードに突入していった。

大きく、しなやかに、だけどスピーディーに脚を回転させていく。

一歩一歩、確実にタータンを蹴り上げていって、気づけばもう前に誰もいなかった。

 

そこまでは、無心だった。

 

だけど、自分がいい走りをしていることに気がついて、そこで急に、無意識が意識に切り替わってしまった。

リズムを乱し、思わず、硬くなってしまう。


(やべ)


急激にバランスを崩して、そこで僕の走りは伸びを欠いた。


だけど中盤の貯金がきいて、なんとか、そのまま1位でゴールした。

タイムを見ると、10秒49の速報が出ていた。

自己ベストを0秒22も更新する、現時点では最高のタイムだった。

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