003話 チュニジアとロシア


あからさまに晴れた翌日の午後。

ミキちゃんは相当、おかんむりのようだった。


「星島君。この子引き取って」


講義を終えた僕がまだ部員もまばらなトラックに顔を出すと、ジーンズ姿の前原加奈を連れ

てやってきて、彼女の背中をどんと突き飛ばしたのだ。


予想どおりというか、やはり何かしでかしてしまったらしい。

ミキちゃんの眉が、垂直になるんじゃないかと思うぐらいになっている。


「ど、どうしたの?」


聞いてみると、ミキちゃんはふんと鼻を鳴らした。


「仕事なら教えるけど、常識は無理」


「何かやっちゃった?」


加奈に聞いてみたけど、しょぼんとうなだれているだけだった。

大女だけに可愛げがないところが、逆に可愛らしい。


「コールドスプレー買ってきてって頼んだのよ」


ミキちゃんの言葉に、僕はぽんと手を叩いた。


「分かった。金のスプレー買ってきたんだ!」


会心のギャグのつもりだったのに、すさまじい眼光でぎろりと睨まれる。


「す、すいません…」


「ちゃんと説明したわよ。お店の場所教えて、空の缶渡して、これ3つ買ってきてって」


「うん。それなら間違いようないんじゃない?」


「そしたらこの子、段ボールで3つ買ってきたの」


「段ボール?」


「10本入りが12個入ってるやつ」


「それを3つ?」


「そう」


「え…、じゃあ、360本?」


それはさすがに想定の斜め上だ。

問屋じゃあるまいし…。


「在庫ないから、お店の人に頼んでメーカーに注文してもらったんですって」


ミキちゃんが言うと、しょぼんとしたまま、加奈がぶつぶつ言いわけした。


「だって、チュニジアでは全部段ボール単位だったんだもん…」


「ジャージの洗濯頼んだら漂白剤入れちゃうし」


「だって、チュニジアには漂白剤なんてなかったんだもん…」


「ピットの整地頼んだら、全部掘り起こすし」


「だって、チュニジアで整地っていったら耕すことだもん…」


ミキちゃんは加奈をぎろりと睨みつけた。


「ここはチュニジアじゃなくて日本なの。お分かり?」


困ったものだ。

悪気がないから仕方ないのだが、ミキちゃんの言うとおり、だからこそ始末が悪い。

20年近く培ってきた常識を変えさせるのは大仕事だ。


「えと。チュニジアって、アフリカの?」


とりあえず、一番気になる点を尋ねてみると、ミキちゃんにまた睨まれた。


「それ以外に何があるのよ」


「ですよね…」


よく分からないが、チュニジアに住んでいたらしい。


それはともかく、チュニジアでもコールドスプレーは1本ずつ売っているだろう。

漂白剤がないはずがない。

グラウンドキーパーくらいいるはずだけど…。


「とにかく、この子、クビだから」


「なんとかならないかな」


「無理」


端的に、ミキちゃんは言った。

取り付くアレもなさそうだったけど、コールドスプレーを何百本も注文されてジャージの色がどろどろになったら、仕方のないことなのかもしれない。


しかも、トラックに畑ができて、トウモロコシでも植えられてしまったら大変だ。

夏の収穫はちょっと楽しみだけど、農薬を散布するのか無農薬にするのか、

肥料を買うとしたらJAの営農職員あたりに相談しなきゃいけないとか、いろいろ問題が出てくるからだ。


(うーん…)


それは冗談だけど…、あまり面白くない冗談だけども。


とりあえず、それ以上かける言葉が見つからないので僕は黙っていた。

加奈はずっとうなだれていたけど、やっとお説教が終わったと思ったのか、ちらりと顔を上げてミキちゃんを見た。

僕を見て、それからまたミキちゃんを見て、おそるおそる手を挙げる。


「あの、じゃあ、普通に入るっていうのは…?」


「え?」


「あの、だから、選手として?」


加奈の言葉に、ミキちゃんは眉毛を片方だけ下ろした。

怒るより先に呆れてしまったらしい。


「ふざけてるわけ?」


ミキちゃんの口調に、加奈は慌てて首をぶんぶん振った。


「い、いたって真剣です」


「経験は?」


「ありません」


ミキちゃんはじろっと彼女を睨みつけたけど、オールカマーのクラブだから拒否するわけにもいかない。

そんな権限はミキちゃんにはないのだ。

 

それに、入部試験なんかがあったら僕も困る。落ちる可能性のほうが高いのだ。


「勝手にすれば」


ミキちゃんはぷいっと背中を向けて離れていった。

 

進行方向にいた長距離の選手が、ミキちゃんの顔を見てささっと避ける。

背中から、怒気のようなものが立ち上っているように見えた。

しばらくその姿を見送ったあと、加奈は僕を見て照れくさそうにえへへと笑った。


「のぞむくん、よろしくね」


「うん…」


「今日から参加していいのかな?」


「いいけど」


「じゃあ、準備してくるね!」


言い放つと、加奈はバタバタと駆けていった。

それと入れ代わりに、橋本聡志が何かわめきながらバタバタと走ってきた。


橋本聡志は、僕と同じく100mの選手だ。

同じ学年でレベルも同程度ということもあって、けっこう仲良くしている。

運動部のくせに肌が真っ白で、グレーっぽい瞳で鼻も高いのでロシア人のように見えるが、両親とも純粋な日本人らしい。


「星島ーっ!」


「はいはい、何ですか」


どうして皆、僕に大人しく練習をさせてくれないのだろうか。

とにかく何だかとても慌ただしい。


「見ろよこれ!」


「これって?」


「これだよこれ!」


ボロきれを振り回しながら大騒ぎする。


「なんだそれ。ロシア国旗?」


「ジャージだよ!オレの!これ気にいってたやつなのに!てかロシア人じゃないっての!」


聡志は興奮気味にまくし立て、かつてはジャージだった物体をぐいっと突き出す。

ほかの大学はどうか知らないが、練習時には部のジャージ以外のものを着ることが許されて

いて、みんなそれぞれ何着か持っている。

その中の1着が駄目になったということらしい。


「どうしてくれるんだよ、これ!」


「おれに言うなよ」


「監督不行届だろ!」


「んー。それはミキちゃんに言うべきことだな」


ミキちゃんの名前を出すと、聡志はその場で固まった。

そして、黙ってきびすを返すと、すごすごと戻っていった。


ミキちゃんには、ロシア人といえどもかなわないのだ…。

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