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162話 高いと何が違うのか

それからしばらく、杏子さんを入れて4人で競技を観戦する。昼過ぎになると徐々に観客が増えてきて、スタンドが混み始める。昨日は3万人近く入ったようだが、今日は5万人が目標らしい。もはや陸上の大会の客の入りではない。日本記録で1千万円。出るといいですね。「来年は2回やりたいな」杏子さんはそんなふうに言った。「本当は5、6回やりたいんだけど、さすがにいきなりは難しそう」豪華商品はもらえるし、トップクラスの選手はうれしいはずだ。それを目当てに陸上界が活性化されるとなおよいと思う。「引退してもさ、自分のやれる仕事があると思うと安心するよね」「うん」「星島も手伝うんだよ」「あ、おれも?」「そりゃそうでしょ。社員なんだから」「そっかあ…」すんなりと引退後の進路まで決まってしまった。まあ決まったっていうか、決まってはいないんだけど。引退しても陸上界にかかわっていられるのはありがたいかな。そのうち、考えよう…。「ずるい。星島ばっかり」ビールを飲みながら、聡志が羨ましそうな顔をする。「おれにも何か美味しい話ください!」杏子さんは軽く笑って聡志を見た。「いいよ。うちくる?」「マジすか!」「最低でも、日本のトップレベルで活躍できることが条件だけど」「う…」「自分に見合わないものを得ようと思わないこと。上を目指したいなら自分を磨くこと」「ぐう…」聡志は眠ってしまった。おやすみなさい。女子100mハードルまで見て。杏子さんがサブトラックに行くというので、僕も付き合うことにした。真夏で、ただでさえ暑苦しいのに、風がなくてむわっとする。昨日は少し浜風が吹いていたが、今日はほぼ無風だった。「あっついね」杏子さんが、パタパタと手で自分をあおぐ。「暑いですね」「あー、早く海行ってのんびりしたい」「あ」「ん?」「忘れてた。幹事だった」慌てて携帯をとりだして、参加確認のメールを打つ。僕らは大学生なのでいつでもOK。杏子さん、千晶さん、亜由美さんに日程を合わせれば大丈夫だろう。4年生は、僕とミキちゃんと聡志と新見、知香ちゃん。3年生が加奈と真帆ちゃん、水沢さん、織田君。本間君と詩織ちゃんも呼ぶか。それと、2年生の宝生さん。多すぎるような気がするが、とりあえずみんなに声をかけよう。遠出ではないし、日程が合わない人は途中参加でもいい。「こんないっぱいで押しかけて平気ですかね」一応、携帯を見せて聞いてみたけど、杏子さんは気にしていないようだった。「いいよ。バーベキューでもすっか」「わーい」一斉に送信。何だかんだでけっこう楽しみだった。特に女性陣の水着がだ。「花火も買っとこ」「あ、いいですね」「いざというときのために勝負下着も!」「そんな、いざは、ない!」「分かんないでしょ。あんただってあたしとエッチしモモモモオ」例によってぎゃあぎゃあ騒ぎながら歩いていく。午後1時過ぎ、出番の近い選手たちがサブトラックで体を動かしていた。男子200mに出場する選手たちもその中にいて、十文字と本間君が汗を流している。本間君も十文字も、代表ライン上にいる。現時点では五分五分といったところだ。「いたいた」芝生の外のほうに、ミキちゃんと新見、加奈、千晶さん、それに真帆ちゃんがいた。輪になって座っている。まだ女子100mには時間があるが、早くも準備を始めているようだった。「やあやあやあ。調子はどうかね」開口一番、杏子さんが真帆ちゃんのちょんまげをつかんでぐりぐりと回す。やっぱり、みんなつかみたくなるみたいだ。「ばっちりですよお」新見が笑顔で答えて、僕はよいしょとミキちゃんの隣に座った。誰に結ってもらったのか、ミキちゃんはきれいな三つ編みになっていた。いつもの長髪もいいけど、これはこれでまたいい!少し鼻の下を伸ばしていると、ミキちゃんは手を伸ばして僕の頭をぽんぽんと叩いた。昨日から、気にいっているらしい。「鳴らないわね」「うん。お腹すいた」「何食べる?」「何がいいかな…」悩んでいると、新見がこれでもかというぐらいの笑顔をみせた。相変わらず太陽みたいな笑顔で、思わず僕も笑顔になってしまう。「え、何?」「えへへ。今日のごちそう、楽しみ」本日二度目の、食いしん坊新見降臨だ。僕も、人のことは言えないくらい食いしん坊だけど、新見には負けてしまう。「何にしようかしら…」ミキちゃんが思案顔をすると、杏子さんがすすすと移動して僕と新見の間に座った。左右に体を揺らし、どすどすと二人に肩をぶつけてくる。メトロノームみたいにいったりきたりして、それが楽しいらしい。「せっかく横浜来てるんだから、中華街行かない?」「はあ」「星島のおごりでさ!」「う。まだ学生なので…」「高級ゴルフセットなんか使わないでしょ。売っちゃいな」「そうですね」親もゴルフなんかしないし、そうしようかと思う。数万円なら誰かにあげるかもしれないが、128万円のゴルフクラブセットだそうだ。128万円。ただの棒なのに。それほど、テクノロジーがつまってる…?「買う人、いますかね」「いるいる。内緒だけど、うちのスタッフが100万なら買うって」「え、ほんとに?」「内緒だよ。スポンサーの手前もあるんだから」「はい。売ります売ります」そうだ。そのお金で、ミキちゃんに何かお礼をしよう。ちゃんとしたかたちでお礼を言って、喜んでもらえることをしたい。どんなふうに何をするかは…、考え中。「てか、スタッフの打ち上げとかないんですか」聞いてみると、杏子さんはぶんぶんと首を振った。「こっちのほうが楽しいもん」「はあ…」「邪魔?卒業生はあんまいないほうがいい?」「そんなことは言ってないけど」「帰って一人で昨日の残りもの食べようかな」「そんな寂しいことを…」「うまいんだよ。ナスとひき肉のやつ」「あー、杏子さん、意外と料理上手なんだよね」あれはものすごく美味しかった。思わずうなずくと、杏子さんにひじでつつかれた。それで、はっと気付いた。ミキちゃんのまゆ毛がキリリと斜めになっている。油断していた。ギロリとにらまれて、僕はぎくりとした。「ずいぶん、仲がよろしいんですこと」「あ、いや、たまたまね。ミキちゃんいないときだったかな?」「ご飯行こっと」すっと立ち上がって、置いていかれる。慌てて追いかけると、後ろでみんながどっと笑った。人ごとだと思っているんだろうけど、本当、怒るならともかく、すねると大変なのだ。

162話 お祭り気分

翌日は、朝から日差しが強かった。オレンジ色の太陽の下、汗をかきながら競技場入りする。知香ちゃんのところに顔を出すと、水沢さんのサイン会をやっていた。日曜日の午前中だというのに、ものすごい人だかりができている。プレゼントを持ってくる人も多いらしい。後ろのテーブルに置いてある荷物が、ものすごいことになっている。「おいっす。すごいね」「おっはよ」今日も知香ちゃんは元気に踊っていた。もう自分の出番は終わったので、稼ぎどきだとばかりにやたらと張り切っている。今日はバーベキューも焼いていた。1年生が何人か手伝っており、いいにおいがしてくる。公式グッズの店は、ベースマン寺崎とおべっか金子のコンビが切り盛りしている。「ううぅ」そして、唸る女が一人。前原加奈だ。 加奈はじっとバーベキューを見て、ビールを見た。それから真帆ちゃんのほうを見て、がくんと肩を落とす。いくらなんでも、夕方にレースのある選手が、昼間からビールにバーベキューはよくない。そのくらいは分かっているらしい。「おれは出番ないから食べようっと」「おれも」「ビールも飲んじゃお」「おれも」聡志と織田君が、お金を払って両手に宝物をゲットする。がぶりと肉をかじって、ぐびりとビールを飲む。ただそれだけのことを見て、加奈がこの世の終わりみたいな顔をした。気持ちは分かる。「食べたい、食べたい」真帆ちゃんのちょんまげをつかみ、力任せにぐりぐりと回す。真帆ちゃんの首が止まりかけのコマみたいに回って、折れてしまわないか心配だった。「早めにお昼行く?」新見が言うと、加奈はちょっと悲しそうな顔をする。「お肉…、じゃないよね」「パスタか何か」「お肉ぅ…」「お肉は、ほら、今日はきっとごちそうがあるから!」新見がぐりっと僕のほうを見て笑顔を見せる。すっかり食いしん坊キャラが定着したけど、新見はそれほど食べるわけではない。加奈は量、新見は質という感じ。まあ、どっちも食いしん坊ですけども。「昨日焼き肉だったから、さっぱりしたのがいいな」何の気なしに言うと、新見が見たことがないくらい変な顔をした。何というか、ひよこみたいな口をして、ピヨピヨ言いそうな感じだ。「ずるいずるい。自分ばっかり!」「そうだそうだ!」聡志がすかさず合いの手を入れる。「いつもいつも、美味しいもの食べて!」「そうだそうだ!」「いつもいつも、いちゃいちゃして!」「そうだそうだ!」「うらやましいぞ!」「死ねばいいのに!」「あーもう、あたし、星島君の愛人になろうかなあ」新見が爆弾発言をして、織田君がぶーっとビールを吐いた。それが思い切り聡志の顔に吹きかかる。聡志が固まって、それで新見があはははと笑った。「冗談、冗談だよう」「お、おう…」「す、すんません、気管に入って」知香ちゃんが米ナスマンタオルを貸してくれたので、織田君が謝りながら拭く。酔いがさめて、しょんぼりの聡志。「冗談はともかく、今日、いいよね?」新見におねだりされて、僕はうなずいた。「ミキちゃんに聞いておく」「わーい!」新見がくるくる回る。直接、ミキちゃんに言えばいいのにと思わなくもない。そうしたらもっと仲良くなれると思う。 スポーツドリンクを2本買って観客席に向かう。スタンドの屋根の影がくっきりと茶色のタータンの上に描かれるころになって、最初の競技が始まった。今日は出番がないので、スタンドで観客と一緒になって応援する。聡志と織田君は、焼きそばやらから揚げやらを食べながらビールを飲んでいる。普通の観客以上にグランプリを楽しんでいるようだ。ちゃんと朝ごはんは食べてきたけど、見ているとお腹が空いてくる。「旨そうだな」思わずつぶやくと、聡志は箸でから揚げをつまんでひらひらさせた。「お前も食べればいいじゃんよ」「いや。ミキちゃんとお昼食べるから…」「出たよ。ミキちゃん病」聡志が言って、織田君に笑われる。ちょっと恥ずかしかった。当のミキちゃんは、サブトラで出場選手の面倒を見ている。水沢さんはまだ何か引っ張り回されているらしい。女子短距離のメンバーもたぶんサブトラだ。知香ちゃんとベースマン寺崎とおべっか金子君は金稼ぎ中。要するに、のんびり観戦しているのは僕と聡志と織田君の3人だけだった。「でもいいっすよね、美人の彼女いて」織田君がうらやましそうに言う。「おれも彼女欲しいっすよ」「星島なんかのどこがいいんだろ」聡志が不思議そうに言った。そんなこと言われても困るけど、とりあえず何か文句を言おうと思っていると、いきなり誰かがどさーっと後ろから寄りかかってきた。一瞬、何が起こったのか分からなかった。熱射病か何かで後ろの人が倒れてきたのか。そんなふうに思ったけど、そうではないようだ。例によって、いつもの人がいつものようにくっついてきただけだ。「なんだ。杏子さんか」暑いのに…。「なんだとはなんだ!」後ろから首に腕を回してぐいっと絞めてくる。タップをするとすぐに腕をほどいて、僕の二の腕のところのジャージをつかむ。二人羽織みたいに、僕を操って…。意味?そんなものきっとないです。よく分からないけどなすがままになっている僕を、聡志が恨めしそうな顔で見た。「杏子さん、星島のどこがいいんですか」「んー?」杏子さんは僕の肩にあごを乗せて唸った。「素直でまじめで優しいとこかな」「ふーん…」「あ。普通に答えちゃダメなとこだった?」「いや、いいんですけど。ちなみにおれはどんな感じで?」「んー、ちょっとおバカでたまに暑苦しい」「わーん」ほとんどオブラートに包まれていない言葉をかけられて、聡志は男泣きに暮れた。そこは、普通に答えないほうがよかったかもしれない…。

161話 夢の記録

僕が主役になったのは、一瞬だった。フィールドに最終種目の女子走高跳の選手が現れると、一部から黄色い声が上がった。トラック種目はすべて終わっていて、全員の視線がそこに集まる。電光掲示板は、常に水沢さんの姿を追っている状況だった。「咲希さまーっ!」「咲希せんぱーいっ!」歓声の中、選手紹介が終わると、いよいよ競技が始まる。 ほかに何も競技が行われていない状況での試技は、選手もやりにくいのかもしれない。一つ一つの跳躍のたびに、競技場は静まったり盛り上がったりを繰り返した。「今日は、充電はしたの?」前の席に座っていた新見が振り返って聞く。加奈と真帆ちゃんと宝生さんも振り返って、聡志と織田君もじっと僕を見た。おそるおそる、隣を見たけど、ミキちゃんは眉毛を少し斜めにして素知らぬ表情だった。あまり刺激すると、今夜のサービスが消滅してしまうので、勘弁してほしいところだ。「まあ、したような…、しました」「じゃあ大丈夫かな。今度、知香ちゃんにもしてあげて」「う、機会があったらね」世間的にはまったく無名でさっぱり注目されていないが、今日は知香ちゃんが頑張った。いや、知香ちゃんはなんだかんだで頑張っている。関カレでは3位だったし、日本選手権でも4位だった。知香ちゃんは166センチしかない。世間的に見れば長身かもしれないが、ハイジャンプの選手では低いほうだ。それも加味すれば、かなり頑張っているほうなのである。水沢さんが目立ちすぎているだけだ。「あははは」スタンドが笑いに包まれる。172センチをクリアした知香ちゃんが、調子に乗って変な躍りを披露したからだ。前の席で、加奈と真帆ちゃんと詩織ちゃんが一緒に踊っている。何だか楽しそう。今度、僕も教えてもらおうかしら…。「知香ちゃんのことだから、商品かかってたら黙ってても頑張るか」新見がつぶやいて、一同が笑う。知香ちゃんはその後、175センチも一発でクリアして、堂々の3位に入った。178センチはクリアできなかったが、試技を終えるとトラックの脇にいた米ナスマンの着ぐるみのところに走っていって、一緒に躍って最後にお得意の変なポーズを決める。十分、パフォーマンスでは目立ったといえるだろう。大会を盛り上げるこういうパフォーマンスは、どんどんしてくれていいと思う。「バーの高さは、2mに上がります!」だけど、場内アナウンスがそう告げると、知香ちゃんのことは誰もが忘れてしまった。190センチ、195センチとクリアした水沢さんが、ゆっくりと歩いてピットへ向かう。バーがセットされ、集中して、助走を開始。一回目の跳躍を行うが、これは踏み切ってすぐ背中がぶつかる完全な失敗。スタンドからは短いため息が漏れた。何だか異様な緊張感だった。一端、荷物のところに戻って、ペットボトルに口を付ける。知香ちゃんと何か言葉をかわし、再びピットへ。ざわつく競技場が徐々に静まっていって、大きく、水沢さんは呼吸をした。ゆっくりと、助走を開始。175センチの、無駄のないスリムな身体。それがスムーズにピットの上を滑っていって、踏み切ると同時にふわりと天を舞った。伸ばした手が、バーの上ぎりぎりを通過する。しなやかに反り返った背中。それが抜け、最後に長い足が跳ね上がる。鮮やかなジャンプだった。「うおおおおおおーっ!」「いったか!」「いったああああっ!」「きゃーっ!」大歓声とともに背中で着地。くるりと回転して立ち上がり、水沢さんは笑顔で両手を上げた。しかし無情にも、どこかにぶつかってかすかに揺れていたバーが、カランと落下した。夢の2mジャンプは、ほんのちょっとのところで惜しくも失敗に終わった。「あああああああっ」観客席が悲鳴に包まれる。水沢さんは残念そうな表情を浮かべ、ごろんとマットの上にあおむけになる。 それから身体を起こしてひざを抱え、落ちたバーを見つめて二枚目な表情をしているところが、翌日のスポーツ紙の一面を飾った。結局、3回目も2mをクリアすることはできなかったけど、グランプリを盛り上げるという役目は十分に果たしたのだった。

160話 切り替えるために

惰性で走って、戻ってきて何人かと握手をかわす。正式タイムで縮まらないかと注視していたんだけど、表示されたのも10秒19だった。結局、B標準しか突破できていない。個人種目で代表に選ばれる可能性は、消滅してしまった。(駄目だったか…)向かい風0.5m。追い風ならもっといいタイムが出ていたかもしれないが、嘆いても仕方がない。とにかく、世界を目指した僕の戦いが、終わった。すべて、終わってしまったのだ…。「星島選手、本間選手、土井選手、表彰台のほうにお願いします」チアガールのダンスのあと、係員に誘われて表彰台に向かう。女性司会者に言われるまま、スロットのボタンを押す。まったく要らない高級ゴルフクラブセットが当たって、目録を持って記念撮影。自己ベスト、初の10秒1台、記念すべき初代優勝者。うれしいことはうれしいが、落胆のほうが大きかった。燃え尽きたというか、何だかエネルギーをすべて使い果たしたような気分だ。センター試験が終わったあとのような感じだった。(はあ…)みんなでぞろぞろバックストレートに移動する。つくり笑いで数少ない奇特なファンにサインをしたあと、控室に戻る。係員からあれこれ言われたような気がするけど、僕はただうなずいているばかりだった。(駄目だったなあ…)ミキちゃんに、合わせる顔がない。そう思ったけど、いつものようにミキちゃんは競技場を出たところで待っていてくれた。しかし今日は、ミキちゃん一人ではなくて、白髪頭の戸川先生と一緒だった。僕は肩を落としてとぼとぼ歩いていたけど、慌てて背筋を伸ばした。「お、お疲れ様です」相変わらず、ニコニコと笑顔の戸川先生。「お。星島君、優勝ですね。おめでとう」「ありがとうございます」ミキちゃんと何を話していたのか知らないが、戸川先生は満足そうに何度もうなずいた。「いやあ、星島君は大舞台に強いですねぇ」感心したように戸川先生が言う。世界の舞台で金メダルをとった人が言うと、何かちょっと変な感じだ。「大きい試合だと、いつも上のほうに来てるじゃないですか。記録も安定してますしねえ」「そうですか?」「いやいや、感心してたところなんですよ。ね」戸川先生にふられて、ミキちゃんが珍しく、女の子みたいな笑顔を見せる。いや女の子なんですけども。「線が細そうに見えて、精神的に強いんです」「ほう。村上さんのお墨付きですか」「今、一番伸びる時期ですから、早めに世界に挑戦してもらいたいんですけど…」「おっと」ミキちゃんの言葉に、戸川先生はおどけた表情をしてみせた。「駄目ですよ。選考は厳密に行いますからね」はっはっはと戸川先生は笑って、じゃあと言って去っていった。ミキちゃんと二人、その背中を見送ってから、サブトラックにトコトコと歩き出す。ミキちゃんは無言だった。僕も、無言だったけど、ここで落ち込んでいる暇はないと思った。「まだまだ。インカレだってある。来年もある」僕は言って、ミキちゃんを見た。ミキちゃんは黙って大きくうなずいてみせた。切り替えよう。落ち込んでいられない。すぐインカレだってあるし、来年はオリンピックがある。 大きな大会で優勝したのは、全中以来だし。このメンバーに競り勝ったことは、間違いなく大きな財産になる。まだまだ足りない部分はいっぱいあるので、その課題をクリアしていこう。来年こそびしっとA標準を出して、ミキちゃんを世界へ連れていく。「星島君、頼もしくなったわね」ミキちゃんに言われて、僕は笑った。「記録伸びてるし、単純だから、なんかその気になってる」「そう。カッコいいわよ」背中をぽんと叩かれ送り出され、サブトラックで一人、ダウンをする。真夏の太陽の下、軽くジョグ。学生、最後の夏だ。いろいろなことがあった。最後ぐらいびしっと決めたかったけど、それはインカレまでとっておこう。インカレは、絶対に優勝だ。そう決心して、ミキちゃんに手伝ってもらってストレッチを終えたところで、ぽんと頭を叩かれた。「はい、おしまい」タイミングよく、ぐうとお腹が鳴る。「あら。何か線でつながってる?」面白がって、ミキちゃんは僕の頭をぽんぽんと叩いたけど、お腹は鳴らなかった。もちろん、今のは偶然だ。「お腹すいた」「バナナとカロリーメイトならあるけど」「んー…、我慢する」「今日は焼き肉でもする?」「うん。冷麺も食べたい」「そう。今晩はサービスしてあげるから」ミキちゃんが言って、僕は鼻を鳴らした。「やった。ごちそう!」「そういうサービスじゃなくて」僕の手を握りながら、ミキちゃんは言った。人前で手をつなぐのは初めてのことだった。僕はぼんやりと、つながった手を見下ろして、それから慌ててミキちゃんを見た。サービスというのは、つまり、どういうサービスなのか。そのへんを具体的にびしっとはっきりさせてもらいたい。とにかく僕は期待に胸を膨らませて、ミキちゃんの手を握り締めた。たぶん、僕のことを慰めようとしてくれていたんだと思う。ミキちゃんはキョロキョロと周囲を見回して、それから反対の手で僕の手の甲を撫でながら、恥ずかしそうに言った。「と、特別よ。今日だけ特別」「え。あ、うん…」ええい、内容をはっきりさせたまえ、内容を!だけどミキちゃんはそれ以上教えてくれずに、モヤモヤしたまま競技場に戻る。サービスって何だろうと考えながらみんなの集まっているところにいくと、いつものメンバーが笑顔で迎えてくれた。「星島さん、おめでと!」「おめでと!」「おめーっす!」「ナイスラン!」「星島なんて、キノコを慌てて追いかけて穴の中に落ちちゃえ!」聡志が呪いの言葉を吐いていたが、大きな大会で優勝してみんなから祝福されるなんてことは初めてだったので、何だかものすごく照れくさかった。

159話 夏に舞う風

招集所には、既に僕以外のメンバーが全員そろっていた。コールを受けて、少し待っていると、係員に促される。バッグを背負いなおしてミキちゃんを見ると、ミキちゃんはただ、うなずいた。「頑張って」「うん」ミキちゃんと別れ、係員の誘導で競技場の中へ。今日のスタンドは、超満員だった。今まで見たこともないくらいの人数だった。(こりゃすごい)キャッチコピーが効いている。「世界記録1種目につき、抽選で1名に1億円プレゼント!」「日本記録1種目につき、抽選で1名に1千万円プレゼント!」「20種目で世界記録が出たら、総額20億円!」20種目で世界記録なんて、そんなの出るはずがない。そもそも世界記録は無理だ、誰もがそう思っている。だけど、世界記録は無理でも、日本記録なら1、2種目くらい出てもおかしくない。そうなると1人か2人、1千万円が当たるわけだ。客数が2万人だったら、わりと当たりそうじゃない…?誰もがそんなふうに考えるわけだ。それでこの盛況ぶりである。別に、お金の力で呼んでいるわけではなくて、ただ背中を押しているだけだ。来ない人は、どうしたって来ない。迷っている人に、来たらいつもと違う何かいいことがありますよ、と背中を押してあげる。それが大事だと、ナニワのあきんどが言っていた。モノではなく、体験を売る。それが新しい時代の商売なんだそうだ。そして、もっと大事なのは、来た人たちを満足させることだ、とも言った。満足させられるかどうか、僕には分からない。分からないが、とにかくやらねばならぬ。お客さんには悪いが、そんなことを気にしている余裕はないからだ。(舞ってるってほどではないかな?)肝心のトラックは、少し向かい風のようだった。だけどさほどでもないので、気にするまでもないだろう。コンディションはまずまずといったところ。十分にA標準を突破するチャンスはある。「よーし。ビール飲みたいから、今日は早めにゴールしちゃうぞ」後藤俊介が言って、ちょっと笑いが起きる。まだちょっと時間があったので、僕はスパイクをとりだしてピンを締め直した。それが終わったころに、レースの準備が整って、僕はレーンに出た。予選会1位の僕が、王者の5レーンだった。スターティングブロックをセットして、軽くスタートしてみる。動きは、悪くないと思う。ほどよい緊張感もあって、いいパフォーマンスを見せることができそうだ。とにかくもう、ここまできたらやるしかない。やるしかないのだ。(よっしゃ)自慢のオーダーメイドスパイクを履いて、ジャージを脱ぐと選手紹介が始まる。「第5レーン。10秒22で予選会1位、本年度日本選手権第3位。女の敵すなわち男の敵、充電器っ、星島のぞむ~っ!」拍手と、若干の笑い声が起きる。誰なの、人の集中を削ごうとしているのは。「第6レーン。10秒23で予選会2位、本年度日本選手権第2位。ウホッ、ウホホッ、ウホウホッ、ゴリラ、後藤俊介~っ!」まあゴリラよりはいいけど、とにかく4レーンが本間隆一、6レーンが後藤俊介。実力者に挟まれたかっこうだ。前半、何とかついていって、後半にどうにか巻き返したい。本間隆一や後藤俊介は、後半それほど速くないことは分かっている。この中で後半が一番強いのは僕。だからこそ、大事なのは加速だ。とにかく序盤から中盤の加速が大事だ。「on your mark」そして、いつものルーチン。100m先に漂うゴールラインは、今日も他人行儀だった。タータンが目に青い。やがて、競技場が徐々に静まり返っていき、そのときをただ沈黙とともに待つ。「set」号砲と同時に、僕の最後の戦いが始まった。競技場に歓声が戻り、まず、先手をとったのは本間隆一だった。だけど今日は調子がいまいちなのか、日本選手権のときのような爆発的な加速力はない。何とか、食らいついていく。後藤俊介もそれほどではない。風が。どこからか飛ぶように走ってきて、僕の耳元をかすめて後方へと消えていく。本間隆一から、一歩ほど遅れている。だけど前みたいに大きなリードは奪われていない。後半でじゅうぶん巻き返せる。隣の後藤俊介とは並んでいる。本間隆一の調子がどうのというわけではないのだろう。つまり僕がいい走りをしているということだ。「のぞむく————ん!」相変わらず、加奈がばかでかい声で応援してくれている。軸をつくって、地面を押す。まっすぐに。何か、いろいろなことを考えているようで、何も考えることができなかった。ただ前へ。未来へと、僕は足を伸ばしていった。焦るな、焦るなと心の中で何度もつぶやきながら、中盤から追い上げ体制に入る。ドライブフェイズ。つなぎの走り。かなりうまくいった。本間隆一とはほとんど差はない。温存していたハムストリングスの筋肉を使って、僕は一気に追撃にかかった。 ギアチェンジが、ガチっとはまった。いける。いけそう。逸るが、硬くならないようにリラックスに努める。本間隆一との差が徐々になくなってきた。これは、いけそうだ。どんどんゴールが近付いてきて、これはきついかと思ったところで本間隆一をとらえた。抜き去ったのとゴールと、ほぼ同時だった。だけど、10センチほど僕のほうが前に出ていたように思えた。「…!」速報タイムを見ると、10秒19の数字が出ていた。A標準に、わずか0秒01届いていなかった。

158話 ラストチャンス

しばらく競技を見て、サブトラックへ向かう。外の広場では、スポーツドリンクと米ナスマンアイスのところに行列ができていた。とてもにぎわっていて喜ばしいが、それには背を向けてサブトラックへ。とにかく自分の出番に集中したい。泣いても笑っても、これがラストチャンスなのだ。競技場が舞台なら、サブトラックは舞台裏だ。競技場が夢なら、サブトラックは現実だ。一種、独特の緊張感の中、今日もたたずんでおり、アスリートたちが身体を動かしている。「よし。ちょっといってくる」「いってらっしゃい」ミキちゃんに声をかけて、僕もアップを始める。さすがにトップアスリートが集う大会だけあって、そこかしこに見知った顔があった。男子100mの出場者は、さすがに歴戦の兵ぞろいだ。星島望を筆頭に、浅田次郎、後藤俊介、土井恒星、本間隆一などが出る。いずれも見知った顔だ。玉城豊の姿がないのは、確か11位とかだったから。コンディションが悪かったみたい。条件の異なる一発勝負の予選会なので、ちょっとした波乱もありそれもまた面白い。「きーん」黙々とアップをしていると、斜め後ろから飛行音が聞こえて、僕はさっと前に避けた。「おおっ」うれしそうな顔を見せたのは、言うまでもなく杏子さんだった。「すごい。鮮やか!」「まあね。学習しました」「それでこそ星島!」だけどすぐに捕まって、ぐりぐりと頭をこすりつけられる。周囲の視線がちょっと痛い。「んー。充電!」「ちょっと。恥ずかしいから」「いいじゃんいいじゃん。久しぶりだし」ひたすらぐりぐりとやられる。仕方ないのでされるがままになっていると、水沢さんが歩いてきてにこりとほほ笑んだ。「おはようございます」「あ、おはよ」肩越しに杏子さんが振り返って、水沢さんが会釈する。水沢さんはそのまま杏子さんの後ろに立って、笑顔で僕の顔をじいっと見た。今日も、二枚目だった。「順番待ちです」「う。高跳び、まだだよね」「できるときにしておきます」グランプリ予選会のときのことを言っているらしい。僕がさっさと帰ってしまったので、充電してもらえなかった。おかげで172センチしか跳べなかったと、翌日にぼやかれたのだ。「咲希、今日は頼むよ」ぱっと僕から離れて、パチンと手でバトンタッチしながら杏子さんが言った。水沢さんは少し首をかしげて、二度、瞬きをした。「何をですか?」「トリにしたんだから。いい記録出して盛り上げてちょーだい」「あ、はい。頑張ります」水沢さんは答えて、僕の胸にそっと手を置いた。じっと僕を見つめて、とにかく見つめて、それからやっと僕の胸に体を寄せる。乱れた心臓の鼓動が聞かれそう。ちょっと慌ててしまったけど、僕はぎゅっと水沢さんを抱き締めた。「充電器星島」そう言って、杏子さんがウヒヒと笑った。 プログラムに選手紹介が載っているんだけど、僕のキャッチコピーは充電器星島だった。明らかに、杏子さんのいたずらだ。「ありがとうございます。充電できました」「そ、そう。よかった…」ちょっとだけ、3人でおしゃべりをして、アップを再開する。湿度が高いのか、熱気がすごくて、汗が止まらなかった。少し風が吹いていて、競技場のほうを向いて確認したけど、緩やかな向かい風のようだ。(うーん…)追い風になってほしいところだが、こればかりは僕にはどうすることもできない。まさしく、天に任せるばかりだ。「調子はどう?」息を整えてながら水分を補給していると、ミキちゃんがタオルで汗を拭いてくれる。何とかして、報いてあげたい。ここまできたら最早、自分のためだけではないのだ。ミキちゃんにしろ杏子さんにしろ、ものすごく世話になっているし。後輩の織田君や金子君のためにも頑張りたい。「もう、調子がどうとか言ってられない気がする」「そうね」結果はどうあれベストは尽くす、ではなく、ベストを尽くして結果を残したい。「もうちょっといってくる」「うん」再度、サブトラックに出て身体を動かす。夏なので、軽くアップをすれば体温は上昇するのだが、心理的な準備という側面もある。徐々に精神を集中させていくわけだ。そしてその集中力こそが、競技を行う上で最も大事になってくるものだと思う。(そろそろか)サブトラックの大時計は、今日は進むのがやけに遅かった。 かなりの時間、サブトラックにいたような気がするし、振り返れば一瞬だった気もする。とにかく、時間が迫ってきた。バッグを背負い、僕はミキちゃんと一緒に競技場に向かった。

157話 まさかのキング

50円の飲み物だけ買ってスタンドに向かうと、ちょうど、開会式が始まるところだった。日本陸連の偉い人が開催を宣言して、花火が上がる。そして第1種目。女子800mの選手がトラックに姿を現すと、ブラスバンドが演奏を始めた。軽快なマーチのリズムに、手拍子が起こる。「おほ?」聡志が変な声を出して、僕の肩を叩く。「上、上」「ん?」ほかの観客も、ほとんど同時に気付いたようだった。見上げると、青空に真紅のパラシュートが木の葉のように舞っていた。ブラスバンドの演奏の中、その姿が徐々に大きくなってくる。そして、エンディングと同時に鮮やかにフィールド中央に着地した。拍手が起こり、ゴーグルを外したその人物が電光掲示板に映し出される。歓声。そしてどよめき、拍手。男子100mの元世界記録保持者、キングダム・テイラーだ…!「おーっ!キング!」思わぬサプライズに、僕も思わず手を叩いた。 何がすごいって、インストラクターとタンデムじゃなくて、一人で飛んできたのがすごい。女性司会者の紹介によると、スカイダイビングが趣味なのだそうだ。「よくできるな。おれぜってー無理」「あたしも…」加奈と聡志が仲良くぶるりと震える。高所恐怖症らしい。大きな拍手の中、テイラーはそのままスタート地点へ。最初の競技、800mのスターターを務めるようで、電光掲示板に姿が映し出されている。終始、笑顔でご機嫌のようだった。選手の紹介が終わると、いよいよスタートだった。競技場が静まりかえり、選手がスタートラインにつく。そして、テイラーによる号砲と同時に選手がスタートし、ブラスバンドが高らかにファンファーレを鳴らした。劇場的な大会の開幕だった。「おーっ…!」レースは、本多由佳里の独壇場だった。圧倒的大差でゴールすると、ばーっとトラック上にチアガールが出てきた。スタンドに分散していたチアガールも同時に立ち上がり、セクシーに踊る。あれは…、米ナスマンダンスだ…!そうか。あのダンスが、ここに帰結するわけだ。米ナスマンの着ぐるみが観客に拍手を促す。米ナスマン何ちゃらの曲に合わせ、大きな拍手が響く。本多が笑顔で両手を持ち上げて、もっと大きく拍手をするようにスタジアムを煽る。拍手でスタジアムが包まれて、最後にドバーンと空砲の花火が鳴った。「おーっ!」それから、なぜか野球のユニフォームを着た中学生が出てくる。そして、中学生たちが次から次へと観客席に投げ始めた。ボールを拾うと、あとでちょっとした記念品がもらえるらしい。「わーっ…!」ボールに観客が殺到する。メインスタンドはお客さんがいっぱいで倍率が高い。人の少ないバックスタンドがねらい目か。そっちのお客さんは大喜びだったけど、ケガしないでもらいたい。「それではさっそく、表彰式に移ります!」普段の大会と違うのがここだ。競技終了後、メインスタンド前で直ちに表彰式が行われる。「では、優勝した本多選手、ボタンをどうぞ!」表彰台に2着3着の選手が上ると、女性司会者が本多に合図をする。電光掲示板の画像が、効果音とともに目まぐるしく回転する。本多が表彰台前に設置されたテーブル上のボタンを押すと、ゆっくりになっていって…。「おーっ」そう、スロットの出た目によってもらえる副賞が決まるのだ。当たり外れがあるという話で、いい商品はものすごい価値があるらしい。本当かどうかは知らないけど、杏子さんがそう言っていた。「あーっ」だんだんスロットがゆっくりになっていく。よさそうな商品が過ぎていくたびに、歓声が起こる。そして最後に、スロットがとまって点滅したのは、ミネラルウォーター10年分だった。女性司会者が、宣伝を兼ねて商品を紹介する。10年分は約600ケースと説明すると、どっとスタンドに笑いが起こった。表彰台の選手たちも苦笑している。2位の選手は300ケース、3位の選手は150ケースらしい。まさかいっぺんにもらうわけじゃないだろう。3人が目録をもらって表彰台で記念撮影。その後、急いでジャージを着た8人がバックストレート側に移動。スタンドの手前の台にのぼって、100mほど歩きながら、即席のサイン会兼撮影会だ。普段あまりお客さんのいないバックストレート側が、今日はものすごい混雑だった。こういうのは、わざわざ足を運んでやってきた人はものすごくうれしいと思う。「あれ。聡志は?」「とっくに向こう」新見がバックストレートを指差す。電光掲示板を見ると、本多にサインをもらう聡志の姿がちらりと映った。今まで見たことのないような最高の笑顔だった。「なんかすごいショーアップされてるね」と新見。「うん。チアガールがいっぱいいる」「星島君が見るの、やっぱりそこなんだっ…!」「あ、いや、そういうあれじゃないけど!」思わずしどろもどろになってしまったけど、男子なんだからしょうがないじゃないっ…!

156話 社運をかけて

そして、また2週間ほどもがき続けて。いや、10年間、戦い続けてきたと言ってもいい。ついに、その集大成を発揮するべき、日本スーパーグランプリの本大会の日がやってきた。「おはよーっす」「おはよ」7月末。晴れた、土曜日。9時半に絹山駅に集合して、参加メンバーと応援団はそろって横浜の会場に入った。出番の早い者はサブトラックにアップへ。そうでない者はとりあえず飲み物を買いにいったり、観客席の場所取りに急いだり。わりと自由な感じだ。団体競技だったらこうもいくまい。予選会のときも派手だったが、競技場前や場内の通路にさまざまなテナントが出ていた。スポーツドリンクのペットボトルが、50円で売られている。安い。見たことないやつだけど、たくさんの人が買い求めていた。大きな氷のプールに大量に入っていて、レースクイーンが笑顔で売っている。写真を撮る人も多い。なるほど、撮影OKなんだ…。撮影…。「鼻の下伸ばさないの」ちらちら横目で見ていると、ミキちゃんに釘を刺された。だってあんな美女があんな格好で、だって、ねえ…?パンやおにぎりは、ほとんどそのへんのスーパーで買うのと同じような値段。から揚げとか各種惣菜も、そんな感じ。例えば大きなホットドッグが100円で、ケチャップ・マスタードかけ放題。とにかく、全体的に値段が安い。学祭のノリだ。採算が取れるのが疑問だが、とにかくどの屋台も売れ行きが素晴らしい。ホットドッグなんてスーパーでも同じ値段で買える。でも、この青空の下でこうやって売られていると、お得感がすごいのだ。薄利多売の見本である。はなから儲けを出そうと思っていないのだろう。「お、いたいた」知香ちゃんたちは今日も公式グッズショップを開き、また長茄子を焼いていた。朝一で来たらしい。今回は、競技場広場の一等地で、かなりにぎわっていた。この暑いのに焼き茄子なんて。そう思うけど、ヘルシーだしいいにおいがするし、そそられる客が多いようだ。「おいしそうだね」「んでしょ」高知県産の大きなナスを半分に切ったやつが2つ、つまり1本ぶんで100円。普通に買ったらナスは1本100円もしないけど、安く思える。みんな、2つ、3つと買っていく。それに、米ナスマンアイスの売れゆきがものすごい。大きなアイスケースだけど、もうほとんど残っていなかった。メーカーに電話して、急いで持ってきてもらっているところらしい。「知香ちゃんは試合出ないの?」聞いてみると、知香ちゃんは何か踊りながらうなずいた。「出る出る。咲希のバーターだけど」「そっか」ベースマンが商品を並べている。1年生の女の子が2人、茄子を焼いたりアイスを出したり。みんな陸上部で、これは陸上の大会なんだけどなあ。商売に力を入れてどうするんだって、ちょっと思ったけど、出れないわけだしまあいいか。例によって、米ナスマンの着ぐるみが店の前で音楽に合わせて踊っていた。脱水症状で倒れないか心配だが、中の人が誰なのかは聞かないでおこう…。「星島君、はい、何か買って!」知香ちゃんが、踊りながら右手を僕に差し出す。「たまには知香ちゃんにおごってもらいたいな」「そんな無茶な」「無茶なの?」「ムチャ・リブレ」いきなり笑いながらチョップをされる。何だかよく分からないが、別に酔っているわけではないと思う。

155話 フィジカルモンスター

ノックをして、ドアを開けて加奈が顔を出す。その後ろから、にゅっと顔を出したのは、前キャプテンの十文字だった。珍しい組み合わせだ。「前原に、幅跳びやらせてみていい?」十文字が言う。許可を取りにきたらしい。十文字はかつて跳躍系もたしなんでいた男なのだ。「許可とらないとダメだって言うからさ」「ダメですよね?」恐る恐る加奈が尋ねる。「前原さ、タッパあるし向いてると思うんだよ」「ケガしたら大変だし」「パワーもスピードもあるしさ」「もうすぐグランプリもあるんですけど」「ちょっとだけやらせていい?」「ちょっとだけやってみていいですか?」なかなかいいコンビネーションだ。ミキちゃんは、少し考えているふうだった。「監督には?」「聞いたら、村上に聞けって言われた」「ふうん…」ずいぶん、信頼されているものだ。しばらく、ミキちゃんは思案顔だったけど、十分注意してやるぶんには幅跳びぐらいならいいだろう、そんなふうに考えたのか、条件付けで許した。「きっちりアップをして、ケガに注意してやること」「はい!」「了解!」十文字と加奈がばたばたと戻っていく。静寂が戻ると、くりんと新見が振り向いた。ものすごく目がきらきらしていた。「見に行かない?」気になるらしい。新見はミキちゃんにひざで詰め寄った。「ちゃんと見ててあげないと、ケガするかも!」「フォームチェックは?」「練習終わって…、あ、ミキちゃんちでご飯食べてから!」途中で思い付いて、新見は満面の笑みを浮かべた。ミキちゃんは呆れた表情をして、それから僕を見て、また新見を見て突き放した。「また?」「いいじゃん、ねえ、ねえ、ねえ!」「今晩はカップラーメンの予定だけど」「あーん。そんなこと言わないでよう」やいやい言いながら、3人で階段を下りていってアップに合流する。すぐに始めるのかと思ったら、加奈はちゃんと短距離ブロックの全体練習をこなした。しかも、いたって真面目な顔で。最近は、練習に集中できているみたい。何というか、ミキちゃんの教育が行き届いていると思った。十分、後輩の手本になれてる感じ。「よーし、やろやろ」その後、十文字の号令で走り幅跳びのピットに移動。当然、専門的な技術が簡単に身に付くはずもない。とりあえず、助走から踏み切るところまでの練習を何本かしただけだ。見物人が何人も集まってくる。自分の専門分野だけに、稲森監督も腕組みをして見守っていた。「じゃ、いきまーす」軽く手を上げて、加奈が助走を切る。 短距離と幅跳びの助走とは、大差ないのか似て非なるものか。僕にはよく分からないけど、とにかくスピードはすごかった。イノシシのように走ってきて、踏み切り板のだいぶ前でばすんと踏み切る。びゅーんと低い弾道で跳んでいって、中腰で着地して最後にべちゃっと前に倒れ込む。 まるでヘッドスライディングしたみたいになって、加奈はがばっと顔を上げた。「うえーっ。ぺっぺっぺっ」砂が口の中に入ったらしい。「アサリみたいになったあ」笑いが起こったけど、それは、詩織ちゃんと悠子ちゃんが記録を計るまでだった。「6m55ですかね」詩織ちゃんが言って、周囲の笑いがとまった。本人は何も気付かずにまだぺっぺとやっている。これは明らかに、幅跳びのほうが世界に近かった。この場合の世界というのは、つまり、金メダル争いという意味だ。「あ、悠子ちゃん、そこからじゃない」しかし、すぐに十文字が訂正する。どうやら、踏み切った場所から計っていたらしい。跳躍種目は、踏切バーから計るのだ。「踏み切り板の前から。そう、そこ、垂直に」十文字が手で左を示して、きちんと、正確な位置から計り直す。「6m02」「そうだろ。いきなりそんな跳べるわけねえよ」なぜか、勝ち誇るように十文字が笑った。女子走幅跳の現在の日本記録は6m80だ。7m跳べば、世界大会で金メダルが狙える。初心者がいきなり6m55も跳べるわけがないのだ。だけどすぐに、十文字が首をひねった。「うん?でも跳んだことは跳んだ?」正式に計れば6m02だ。それは間違いない。だけど、実測で6m55の跳躍をしたことも確かなのだ。踏み切りが合っていれば…。「前原、もっぺん跳べ、もっぺん!」それに気付いて、慌てて右手で助走路を示す。「そんで、もうちょい高く跳んでみろ!」「高く?」「気持ち、高く!」「気持ち高く?」「そうだ!」「ハイテンションでってこと?」「いや…、気持ち…、えーい、そうだ!ハイテンションでぶわーっといけ!」「イエーイ!」踊りながらバタバタとジャージの砂を落とし、加奈が助走路に戻っていく。それから、またものすごい勢いで走ってくる。注目の踏み切りは、板の15センチぐらい手前。今度は少し高い跳躍か、しかしまた中腰で着地する。つんのめりながらも、加奈はうさぎ跳びをするみたいに前にびよんと跳んだ。踏切が甘い。それに、無駄の多過ぎる着地だ。「あはは。今度はべちゃってならなかった」笑っているのは、加奈だけだった。悠子ちゃんと詩織ちゃんがメジャーで計測する。気になったのか、十文字が砂場まで歩いていって詩織ちゃんの手元を覗き込んだ。「6m52です」いたって冷静に詩織ちゃんが読み上げる。ちなみに、今年の日本選手権の優勝記録が6m50くらいだったはずだ。「うおーい!うおい!幅跳びやろうぜ幅跳び!」十文字が興奮気味に肩を揺さぶって、加奈の頭ががくがくと揺れた。「はわわ!」「金とれるぞ、オリンピックで金!」「はわわわっ」「ちょっと練習したら7mいけるぞ!」「はにわわわわわわわわ…」十文字が興奮するのも無理はない。誰が見たって、潜在能力が高過ぎるのだ。見ていたギャラリーは驚くやら呆れるやらだったが、稲森監督は無言だった。軽く帽子をかぶりなおすと、ミキちゃんにひそひそ耳打ちをする。・それで、何も言わずにくるりと背を向けて戻っていった。「はい。今日はここまで」ミキちゃんが手を叩いて、十文字が悲しそうな顔をする。「え、なんで?」「今シーズンは100m一本。いいわね」「でも…」「でも?」「いえ。何でもありません…」ミキちゃんににらまれて、十文字の心は折れた。だがとにかく、加奈はまた新たな可能性を示してくれた。それがものすごく楽しみであり、一方では無性に悔しかった。僕がもがいている泥沼の中で、一見、のろまそうな亀が優雅にすいすいと泳いでいる。そんな悔しさだった。

154話 本戦へ

翌日は一転、夏らしい快晴だった。お昼を食べてから、ミキちゃんと電車に乗って大学に向かう。毎日朝早く起こされるのは大変だが、規則正しい生活にも慣れてきた。「うー。山の上だから少しは涼しいと思ったのに」金谷山駅で降りても、やはり暑いものは暑かった。僕は早くも汗をかき始めていたけど、ミキちゃんは涼しげな顔。「やっぱ、美人は汗かかないんだね」言うと、ミキちゃんは少し眉を動かした。「今日は涼しいじゃない」「暑いよう」「駄目よ、このくらいでばててちゃ」「ばてはしないけどさ…」ちゃんとした生活のおかげか、体調はすこぶるいい。いつものように学生協にいって、スポーツドリンクを買うとトラックに向かった。タータンの上はものすごく暑いが、たくさんの選手がトラックで汗を流していた。シーズン真っ盛り。今が一番、暑くて熱い時期だ。部室の前でミキちゃんと別れ、更衣室でジャージに着替える。冷房が入っていて涼しいので、陸上競技ジャーナルを読みながら休憩。しばらく休んでいると、おべっか金子とベースマンが入ってきた。「はよーっす」「うおっす」「ういっす」「星島さん、グランプリ登録しました?」あいさつも早々に、金子君に聞かれる。「ん?」「ID登録」「あ、ホームページでするんだっけ」「そうそう」「やってないや。忘れてた」「たぶん、星島さん…」言いかけて、金子君は途中でやめた。「いいや。自分で見てください」「何だ。気になるな」「いやいや、ご自分で」「うん…」何だか、ものすごく気になる。財布から認定証をとりだして、僕は部室をあとにした。ミキちゃんの姿を探したけど、トラックには姿が見えなかった。まだ部室にいるのかもしれない。「あ。ミキちゃん、部室いる?」ちょうど、ドアを開けてマネージャーの詩織ちゃんが出てきたので聞いてみた。「あ、たぶん談話室だと思います」「あっ、そう。ありがとう」「はい、ごほうび」ポニーテールを揺らしながら、例によって詩織ちゃんに僕にごほうびをくれた。今日は、何かよく分からないけど、サイダーふうのシュワシュワするやつだった。「わーい。何のごほうびだろ」「ちゃんとお礼を言える偉い子なので!」「言ってよかったっ…!」小走りに階段を上って談話室の中を覗く。真ん中の談話室で、ミキちゃんと新見が何かしていた。ちょっと考えたけど、ノックをしてドアを開ける。ノートパソコンを開いて、フォームのチェックか何かをしているようだった。邪魔かなと思ったけど、新見が笑顔を見せてくれたので、僕は中に入ってドアを閉めた。「おいっす」「おはよっ」最近、ミキちゃんと新見がこうやってちょこちょこ密談している姿をよく見かける。いよいよ、新見も村上道場に入門か。「何?」ミキちゃんが髪をかき上げて僕を見る。「あ。ちょっとパソコン借りようと思ったんだけど…」「いいわよ」「ごめんね、邪魔して」パソコンの前に正座すると、ブラウザから日本スーパーグランプリの公式サイトへ。チアガール大募集!とか気になる。来場すると最高20億円ゲットのチャンス!とかもっと気になる。ほかにもものすごく心惹かれるコンテンツが並んでいたけど、それはあとでじっくり見ることにして、大きなログインボタンをクリックする。参加した方はログインして登録を、と書いてあったからだ。「えーと…」画面の指示どおり、認定証の裏に書かれた16桁の英数字をぽちぽちと入力する。それから、メールアドレスとパスワードを入れて、名前と誕生日を入れる。名前、年齢を公開するかしないか、いずれも公開するをクリック。せっかくなので、星島望の名前を世界にとどろかせたい。僕の場合、隠すようなことでもないし。「まだやってなかったんだ」新見が覗き込んで言った。登録ボタンを押すと、自動的にマイページ画面に切り替わって成績が表示された。男子100m、ベスト記録10秒22、日本歴代15位タイ。セカンドベストは10秒24。今シーズン日本ランキング5位。近走の成績も載っていて、選手名を検索すれば調べることもできるようだ。とにかく、ものすごく細かいデータベースだ。シーズンランクや日本歴代記録をトップ100まで見ることもできる。こりゃ、便利だ!肝心の、日本スーパーグランプリ予選会の成績は、10秒22で全国1位となっている。「おお」「おーっ」新見と声がはもった。予選会ランキング確認ボタンを押すと、画面が変わって、予選会の順位一覧表が出る。1位 10秒22 東京都絹山市 星島望 21歳2位 10秒23 神奈川県横浜市 後藤俊介 23歳3位 10秒26 愛知県名古屋市 未登録 未登録そんな感じでずらっと並んでいる。「やったじゃん。おめでと!」「あんがと!」3位のところが未登録になっている。名古屋市といえばライテックスの本拠地があるから、本間隆一だろうか。上位はほとんど登録済みだ。12位 10秒49 福岡県福岡市 非公開 非公開となっているところもある。画面上部に、本大会に登録ボタンがある。それを押すと、グランプリ本戦出場手続きができるようになっているようだ。住所と電話番号を正確に入力して、この内容で本大会に登録。メールボックスに確認メールが届いて申請するボタンを押すと、それで完了だった。ともかく、一応これでグランプリ本戦に出場することができる。僕はほっと息をはいた。「よしよし。首の皮一枚つながった」「よかったね。拝んどいたら?」「ミキ神さま、ありがとう」新見に促されて、手を合わせてミキちゃんを仰ぐ。ミキちゃんが眉毛を持ち上げたところで、ばたばたと階段を上ってくる音がした。それから、ドアのガラスのところに、ニュっと顔が見えた。加奈だった。

153話 夏空と写真集

正式タイム、10秒22。今までは10秒24が自己ベストだったので、0秒02更新だ。(うーんっ…)自己ベストはいい。調子も悪くない。しかし、それでは駄目なのだ。びしっとA標準を突破しないと意味がない。「速いっすね」「あ、ども」一緒に走った誰かに手を伸ばされて、軽く握手する。10秒22は、日本国内で見たらかなりのタイムだ。昔の僕なら、手放しで喜んでいただろう。ジャージを着てトラックを出ると、いつものようにミキちゃんが待っていた。「お疲れ様」「うん」スポーツドリンクをもらったので、一口飲む。のどが乾いていたので、キンキンに冷えたスポーツドリンクは最高に美味しかった。半分、飲んでふたをすると、ミキちゃんが受け取って僕を見る。優しい表情だった。美人です。怒ってると、夜叉みたいになるけども。「また一歩、前進ね」「うん。頑張ったつもり…」「よかったわよ。いい走りだった」状況は、変わっていない。いい走りだった。いいタイムだった。きっとグランプリには出場できるだろう。しかし、背水の陣なのは間違いない。「分かりやすくていいじゃない」どこか、遠くを見ながらミキちゃんが言った。「グランプリで、A標準出して優勝。あとはもうそれだけね」「うん…」「コンディション整えて、頑張りましょう」「んだ。それしかない」いつもいつも、僕のことをちゃんと見てくれている。本当にありがたいことだ。ミキちゃんとの出会いが、いかに大きいものだったのか。今になって、やっと分かる気がする。アスリートとしても、プライベートでも、ミキちゃんに出会えて本当によかった。僕はしみじみそう思った。「どうしようか。もう帰る?」さらりと、長い髪が風に揺れた。「今日は中華にしようかしら。ピーマン買って」「おお。いいね」やっぱり、ピーマンが気になっていたらしい。総合受け付けで、認定証をもらう。星島望、10秒22と印刷されてある。それから、知香ちゃんがやっているブースまで歩いていって、ナスとピーマンを買う。ベースマンも知香ちゃんも、姿がなかった。マネージャーの悠子ちゃんら、3人の1年生が店を任されていた。米ナスマンの気ぐるみが音楽に合わせて躍っていたけど、中の人が誰なのかは不明。「あ」「ん?」「これ買っていい?」杏子さんの写真集を手にとって、ミキちゃんに許可を求める。どうやらそれがおかしかったようで、1年生に笑われた。呆れ顔だが、ミキちゃんがうなずく。ちょっと恥ずかしかったけど、僕は堂々とお金を払った。あとから買って隠れてこそこそ見るより、いいじゃないか。「今度さ、杏子さんに会ったときにさ、見てませんじゃさ、失礼だと思うんだよね!」「誰に言いわけしてるんですか」「いえ。誰でもないです…」紙袋に入れてもらった写真集を受け取ると、そそくさとその場を離れる。そんなに、ミキちゃんは気分を害していないようで、安心だった。一応、スタンドにいって聡志たちに帰ることを伝え、僕たちは絹山競技場をあとにした。遠くからセミの声が聞こえる中、暑さが少し和らいでいた。雲の合間から、かすかに太陽が顔をのぞかせていた。

152話 分かりやすい

トラックの外のほうを、3人で大回りにジョグする。それから丁寧にストレッチをして、水分を補給。空いてきたところでタータンの上に出て軽くダッシュを繰り返す。「よいしょっと」身体を温めて、また芝生の上に寝っ転がって柔軟をする。まずまず、調子は悪くないようだ。「星島さん、体調どうなんすか」織田君が背中を押してくれる。「う。まあまあかな」「そすか。おれもオーストラリア行きたいなあ」「行きたいよな」「宝生さんは行くみたいっすね」「あー。借金してでも行くみたいに言ってた」「うーん…」織田君が唸る。みんな、気持ちは一緒らしい。「下手すりゃ、真帆も4Kで行くかもっすよ」「あー。そっか」「てか今回、うちから出る人多いんじゃないすか?」「そう?」「あ、卒業生入れたらっすけど」女子では、確定が亜由美さんと水沢さんだ。B標準を突破して濃厚なのが、千晶さんと杏子さん。4Kであわよくば真帆ちゃんといったところだ。加奈がどうなるかは僕にも分からない。男子では、十文字が200mで微妙な線。どっちに転ぶか分からない。それと本間君もまだあきらめてはいないし、僕だって狙っている。「柏木さんとか高柳さんは無理なんすよね」「ちょっと、難しいかな」「星島さん、もう追い抜いちゃったんですね」金子君が言って、僕は慌てて首を振った。「バカいえ。柏木さん、10秒12持ってるんだぞ。今はケガで調子落としてるけど」日本歴代5位の記録だ。僕は、日本選手権の予選で出した10秒24がベスト。柏木さんは、ケガしてるのにこの前の日本選手権で10秒31。比べるまでもない。だけど、やっと追いついてきたという感じはある。これから頑張って追い抜いていけばいい。「高柳さんは無視っすか?」織田君が笑いながら言う。「うん。まあ、高柳さんはどうでもいいや」「そうっすよね」昔はすさまじく速く思えた高柳さんは、今では驚異には思えない。コンスタントに、10秒3台を記録するスプリンターではある。ただ、そこで安定してしまっている。タイムにばらつきがない代わりに、爆発もしない。性格は爆発してるのに、走りは意外とおとなしいのだ。留年したのが恥ずかしいのか、最近は市の陸上クラブのほうで練習しているらしい。どうでもいい情報です。「よーし。おれも頑張って追いつくぞ」立ち上がって、ぐりぐりと肩を動かしながら金子君が言った。「金子君、ベストなんぼだっけ」「10秒39です。星島さんには全然かなわないですけどね」すかさずおべっか。あざといけど、金子君、女の子にモテそう。のんびりストレッチをしていると、競技場からミキちゃんが戻ってきた。スタートリストが張り出されたらしい。時間を教えてもらったけど、まだ2時間近くもあった。「まだまだあるなあ」「そうね」「じゃ、本気モードでじっくりいくか!」「いつもそうしなさいよ」「ハイ…」普段の記録会なら大ざっぱなアップをするだけだが、今日はじっくりと身体を温める。時間がゆっくりと過ぎていって、やがて出番が近付いてくる。今日は時間の流れが希薄だった。あまり緊張もしない。もっとも、この程度の記録会でいちいち緊張していたら大変だ。「そろそろかな」「いきますか」金子君と織田君と、3人で競技場に向かう。そこには、いつもの絹山陸上競技場がたたずんでいた。だけどやはり何かちょっといつもとは違っていた。まるで僕を拒むかのようで、例えるならサッカーのアウェーのスタジアムみたいな感じだ。「どうしたの?」落ち着きなくもぞもぞしていると、ミキちゃんに背中を撫でられた。「大丈夫?」「あ、うん、大丈夫」「いつもどおりでいいのよ」「うん」僕は素直にうなずいた。少し、プレッシャーがかかっているのかもしれない。今日と、そして出場できたらグランプリ本戦と。あとたった2回のレースで僕の運命は決まるのだ。逆に言えば、グランプリ本戦に出場できなかったら、今日がラストチャンス。「果たしていつもどおりでいいのだろうか…」「いいのよ」「そっか」「ただしフライングだけは気を付けて。素人さんにつられないように」「あ、うん。了解」「いってらっしゃい」ミキちゃんに送り出されて、僕はトラックに出た。プレッシャーはあったが、焦りはなかった。ただいつもどおりに、それだけでいい。いつも以上の走りをする必要はない。世界陸上に出れるかどうかなんて、高校時代の煩悶に比べれば、贅沢な悩みだ。「よっしゃ。いくぞ」レーンに出て、あえて声に出して言ってみる。客層が普段と違うのか、スタンドが少しざわついている。それ以外は、いつもの競技場だった。スターティングブロックを調整して、軽く飛び出して戻ってくる。調子自体はまずまず悪くないのだ。いつもどおり、ただそれだけでいい。8人の選手のうち、ユニフォームになっているのは4人だけ。あとの4人はジャージ姿のままで、スパイクすら履いていない。たぶん、陸上部ではないのだろう。(つられないように…)隣がびくっと動いて、つられてフライングなんかしたらアホらしい。まっすぐ、前だけを見ておこう。「on your mark」いつもの大会より、数段、テンポが早い。スタートラインについて、大きく、呼吸をする。何も考えないように頭を空っぽにして、オレンジのタータンを見つめる。とにかくただ、自分の走りだ。自分のスプリントだけに集中だ。「set」余計な心配をしなくても、号砲が鳴って飛び出した瞬間、頭の中は空っぽになった。無風で、走りやすかった。動きも悪くなかった。大気をすばやく切り裂きながら、一歩一歩、かみしめるように走っていく。独走で、そういった意味では硬くならなかったと思う。(軸、軸…)それだけ、意識して走っていく。体を、まっすぐに。脚が流れないように。変に力を入れない。軸だけ、しっかり。「のぞむくーんっ!」どこかから、加奈の応援が聞こえてくる。最後、少し疲れたかなという感じだった。それでも、きちんとフィニッシュまでして速報を確認する。自己ベスト、10秒22が出ていた。