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174話 練習ではわりと出るらしい

スタジアムでの練習は、ほんの30分ほどで切り上げる。調整はサブトラックですればいいわけで、無理に硬いレーンでやる必要はない。ほかの国の選手も、ほとんどがサブトラックで体を動かしている。特に、大会序盤から競技が行われる短距離の選手だ。まだ大会期間に突入していないので、今のところはまだ牧歌的な雰囲気だ。皆、比較的平和な表情をしている。「お腹すーいたっ、お腹すーいたっ」しばらく体を動かしていると、例によって加奈が連呼し始めた。加納コーチが時計を覗いて考える。「いい加減、前原に餌やらないとダメか」「えへへ。褒めてもご飯は出ないよ!」「うん。褒めてないし意味分からんけど、昼にしよう」「わーいっ!」加奈が万歳して、ぞろぞろと選手村に戻る。お昼ご飯を食べて、若干休憩。腹ごなしに、僕は肉を焼いていた。シカの肉だ。「どうする?またマンモス行ってみる?」また、杏子さんが無茶を言い出す。マンモスは、相当な戦力がないと無理だ。「まだ無理でしょ、マンモスは」「うち食糧全然足りないよ」「無計画に村人とか家畜とか増やすから」「あたしらも子づくりしない?」「しない」「ちぇっ。ちょっと食糧ちょうだい」「ちょっとだけよ」僕たちの部屋のリビングで、ソファーでごろごろしながら焼き肉ゲームをする。 本間さんは、何かイヤホンで音楽を聞きながら本を読んでいる。後藤さんは暇そうにスポーツドリンクを飲んでいる。時折、構ってほしそうに杏子さんにちょっかいを出していた。後藤さんと杏子さんは、以前から仲がよかったみたい。同い年だしね。昔からずっと、全国大会とか合宿とかで一緒だったんだと思う。新見と加奈、千晶さんはお昼寝中らしい。ひとりぼっちで退屈だったらしく、水沢さんが僕の横でゲームを覗き込んでいた。「にゃ…、猫は出てこないんですか?」「にゃんこは出てこないなあ。にゃんこは」からかうと、水沢さんに軽く腕をつねられる。拗ねた微笑もまた二枚目だった。「女子の高跳びって、大会の最後のほうだよね?」気になったのか、スポーツドリンクを飲みながら後藤さんが尋ねた。「なんでこんな早く来てんの?」バカ正直な物言いだった。助け舟が必要かなと思ったけど、水沢さんはちらりと僕を見てから後藤さんのほうを見た。まあ、僕が舟を出したところで泥船か笹舟がいいところなので、適切な判断だ。「初めての世界大会なので、いろいろ勉強しようと思って」「ふうん…」「みんなのエネルギーを分けて欲しかったのもありますし」「みんなの、ねえ」含みのある言い方をして、杏子さんはゲーム画面から顔を上げた。「だったらさ、一番活躍した人と付き合っちゃえばいいじゃん」「え?」「ナンバーワンスプリンターと付き合う」「何でそうなるんですか」水沢さんは当然のつっこみをしたけど、後藤さんがぐっと身を乗り出した。「今、ナンバーワンスプリンターといったら、まあオレだろうな!」「そうかなあ」興味なさそうに杏子さんが言うと、後藤さんはさらに身を乗り出して前傾姿勢になった。「自慢じゃないけど、インカレ4連覇したしな!前回の世界陸上でも、オレだけ予選突破してるしな!このあいだだって、練習で9秒台マークしたしな!それに…」半ば冗談で力説していたけど、皆、黙って聞いていたので恥ずかしくなったらしい。「待って、今のなし。カッコ悪い。忘れて」慌てて手を振って前言を撤回する。何となく、可愛かった。顔はゴリラだけども。

173話 ブリスベングリーンヒルスタジアム

翌朝は、8時起床だった。本間さん、後藤さんと一緒に一階の食堂まで降りていくと、外国の選手でいっぱいだった。こんなに大勢の外国人を見るのは生まれて初めてだ。絹山くんだりでは、外国人を見かけることなど滅多にない。「うー、ねむねむ」バイキング形式の料理を適当にとってくると、おっつけ杏子さんたちもやってきた。「おはようございます」「はうーん。眠い…」僕の隣に座って、杏子さんがコテンと僕の肩に頭を乗せる。「千晶、何か適当に持ってきて」「はーい」「オレンジジュース飲みたい」「はーい」年齢で言えば、年下の水沢さんや新見や加奈もいるのに、いつも千晶さんに言いつける。たぶん、千晶さんと杏子さんは一生このままだ。まあ、二人が納得しているならそれでいいんだけど。「何時までやってたの」ぶどうの皮をむきながら本間さんが言った。小さく欠伸をして、杏子さんは両手で頬杖をついて本間さんを見た。「何時だっけ。1時かな」「ようやるな」「マンモス狩りに行ったら、うちの犬全滅しちゃってさ。星島のせいで」「杏子さんが変なとこに落とし穴掘るからでしょ」「ちがわいっ」杏子さんは僕のロールパンを手にとって、小さくちぎりまくった。地味な嫌がらせだ。わいわいおしゃべりしながら楽しく、残念ながらあまり美味しくない朝食を終える。部屋に戻って少し休憩した後、準備をして選手村の玄関前に集合。軽目の調整を兼ねて競技場の下見に行くのだ。今日は、水曜日。世界陸上は土曜日開幕なので、もう本当に決戦は目前だ。「よし。全員そろったな」と、短距離コーチの加納一郎48歳。「先生、酒井君がまだ来てません」男子400mの安原が手を挙げて言うと、加納コーチはぽりぽりと頭をかいた。「誰が先生や。時間厳守!」「まあまあ。細かいこと気にするとハゲますよ」「もうこれ以上ハゲるとこないっ!」笑いが起こる。割と、みんなリラックスムードだ。夜に着いたので分からなかったが、選手村は中心部から離れたところにあった。海側に空港があり、中心部は海岸線から10キロほど離れたところにある。選手村はそれよりもちょっとだけ内陸側だ。「競技場って、どのへんなんですか?」新見が言って、加納コーチが振り返る。「そこだ」「え、すぐそこ?」「すぐそこ?」コーチが新見の口調を真似て、それでまた笑いが起きる。その笑いが乾かないうちに、本当にすぐ、僕らの視界にスタジアムが飛び込んできた。 選手村からほんの400mくらい。美術館の庭みたいなレンガづくりの広場。そこから200mくらい向こうに、競技場が鎮座していた。「はー。きれいな競技場ですね」水沢さんが感心する。陸上競技場というと、どうしてもコンクリート打ちっ放しの建物が多い。しかしここは外壁が薄い緑に塗られていて、きれいだ。むき出しの柱などなく、滑らかなフォルム。さすが、オーストラリアというか、かなり立派な建造物だ。ブリスベングリーンヒルスタジアム。それが、決戦の舞台だった。ひとまず、並木に囲まれた道を歩いていく。横断幕や看板の中を抜けて、サブトラックへ。既に各国の選手が調整を行っていて、色とりどりのジャージで賑わっていた。見覚えのある有名選手も少なくなく、世界に来たんだなあと実感できた。「よし。トラック行ってみようか」一通り、体を動かして温めると、加納コーチが言った。スタジアムは木曜日の午後まで選手たちに解放されるらしい。首から下げたパスを見せて入ると、中もまたきれいだった。芝生は緑一色で、はげているところなどなく、美しく刈りそろえられていた。タータンは濃いブルー。観客席はタータンと同じ色で、全体の調和がとても美しい。手を伸ばして、少しタータンの表面に触れてみる。かなり硬いような気がした。「硬い?」「相当、硬いな」本間さんも同じようにしていた。シンプルに言えば、硬ければ硬いほどいいタイムが出やすいが、故障のリスクも高い。地面を思い切り蹴飛ばして走っているわけだから、硬いほどケガが多いのは自明の理。アスリートにとっては両刃の剣だ。国立競技場もそうだが、いわゆる高速レーンというやつ。「お互い、ケガには気をつけよう」「はい」少し、走ってみて感触を確かめる。走った感じでは、そんなに硬さの違いは実感できなかった。違いの分からない男なのだ。だけど実際には、大げさに言えばタータンの下に地雷が埋まっているようなものである。いつそれを踏むか分からない。加奈だって、硬いレーンの国立競技場で肉離れをやった。元キャプテンの柏木さんも、レース中に足を痛めてそれで苦労している。そもそも、僕がこうやってここにいるのも、玉城豊が靱帯をやってしまったからだ。「玉城さん、だいぶ悪いんですかね」合間に、聞いてみると後藤さんが小さくうなずいた。「おっさんのくせに無理するから」「おっさんなのは顔だけだろ」本間さんが突っ込んで笑いが起きる。「それに、後藤だっておっさん顔じゃないか」「ひでえ。本間さん、何もそんな大きな声で言わなくてもっ…!」「でも、俊ちゃんは年とったら味が出ていい顔になると思うよ」杏子さんがフォローして、後藤さんはうれしそうにみんなの顔を見回した。「聞いた?ねえ聞いた?」「まあ全然あたしのタイプじゃないけどね」「…っ!」じたばたと、後藤さんと杏子さんが争う。何だか、後藤さんとはうまくやっていけそうな気がした。聡志あたりと同じにおいがするというか、いじられキャラというか。たぶん、浅海軍団に加わってもすぐに馴染むことだろう。「うう…」生温かい目で後藤さんと杏子さんの漫才を見ていると、いきなり加奈がしゃがみ込んだ。話の流れとは関係ないところで。最初、何だろうと思った。今度は一体何だろうと思ったけど、立ち上がる様子がなかったので慌てて駆け寄った。またどこかやってしまったのかと思った。「どうした?大丈夫?どこか痛いのか?」「お腹空いた…」バカの一つ覚えに、僕は思わずペシンと加奈の後頭部を叩いた。加奈は僕を見上げ、唇を尖らせて抗議をした。「いたっ。ひどーい、叩いたっ!」「やかましい!」「星島って、ああ見えてSなんだよ。夕べなんかいきなりロウソクで」「ちょっとそこ。悪質なデマ流さない!」杏子さんに指差し注意をする。うちの問題児たちはこの期に及んでもいつもどおりだったが、とにかくみんな、異国の地で少しだけテンションが高かった。

172話 もう既に犬のような

「わ、さむっ」飛行機を降りるなり、新見が震えた。南半球なので、もちろんオーストラリアは冬だ。しかも既に20時を回っていたので、ジャージではちょっと肌寒い感じだった。「お腹すーいたっ、お腹すーいたっ」加奈が、オーストラリアでも例の歌を披露する。だけど今日は僕も同意だった。機内食は食べたけど量が少なくて、ミキちゃんに持たされた笹かまで空腹をしのいだのだ。ありがとう、宮城県商工会。「どっかで何か食べてくのかな?」みんな、やっと着いたという感じで疲弊しているのに、加奈だけ元気だった。「選手村に食堂あるから、そこまで待っとけ」それを小耳に挟んだ加納一郎48歳が答えて、加奈はぶりぶりと体を動かした。「あーん。のぞむくん、何か食べるの持ってない?」「お前、おれの笹かまほとんど食べただろ」「だって、お腹すいたんだもん!」「だっての意味が分からん」僕らにとっては普段どおりのやりとりだったのだが、ツボに入ったらしい。後藤俊介がゲラゲラ笑って、そのほかのメンバーからも笑いがこぼれた。少し、みんなのテンションが上がっているのが分かった。その後、また面倒な手続きをあれこれさせられて、そこでテンションが下がる。いい加減、嫌になってきたところでようやく終わり、ぞろぞろと空港の外に出る。あちこちに世界陸上の看板やポスターがあって、いよいよなんだなあという感じがした。「はい、皆さんこっちですよ」コーディネーターみたいな人がいて、案内されてシャトルバスで選手村へ。10分ほどで到着したけど、市街地からは少し離れていた。「よいしょっと。お疲れさま」新見がハムっとあくびをして、それが千晶さんにうつる。監督コーチ陣も含め、みんな途方もなく疲れていた。明日の朝にミーティングをすることにして、とりあえずは解散。新設された選手村は、要するに普通のマンションだった。コーディネーターみたいな人に案内されて8階までエレベーターで昇る。鍵を開けて部屋に入ると、リビングが広かった。ベランダだけで僕のアパートの部屋くらいある。お風呂もむだに大きくて、10畳くらいのベッドルームが2つあった。世界陸上が終わったら、高級マンションとして売り出すらしい。「いい部屋じゃん」一通り、見て回って後藤俊介が言った。3人部屋で、僕は本間隆一、それから後藤俊介と一緒。「ほしじまーん」とりあえず、ソファーに座って休憩していると、ドシーンと部屋のドアが開いた。無遠慮に杏子さんが入ってくる。ノックなどありません。異性の部屋なんだけどね、一応…。「焼き肉しよ!」到着して、荷物を置いたら元気になったらしい。杏子さんは笑顔で僕のところにやってきて、例によってひざの上にまたがった。本間さんと後藤さんの視線が痛かった。「焼き肉、焼き肉」「うん。ご飯食べてからね」若干、日本語がおかしいので、本間さんが首をかしげた。「焼き肉って?」「あ、ゲームです」焼き肉というのは、杏子さんが勝手にそう呼んでいるだけ。人類史を体験する携帯機用のゲームだ。マンモスがのっしのっしと歩いているような、旧石器時代。いろいろな動物がいて、仲間と協力して狩りをする。ドングリなどの木の実や貝類の採集をしたりもできる。とにかく狩猟採集で食糧を確保して、村を発展させていくゲームだ。「ふうん。面白そうだな」本間さんが興味を示すと、杏子さんはうれしそうに言った。「うちの村、牧畜が始まったもんね!」「え。どうやったの?」「オオカミの群れ全滅させると、子どもが出てくるから捕まえるの」「おお」ヒツジを捕まえて家畜にしようとしても、夜中に野生の動物が来て食べられてしまう。牧畜をするにはどうすればいいんだろうねと話していたところだ。「なるほど。先にオオカミを家畜にするのね」「捕まえて戻ってくると、名前が犬に変わる」「ふんふん」「星島は、あたしの犬になって!」言うと思った…。

171話 出発

翌朝、一人さびしくソファーに寝ていた僕は早朝に叩き起こされた。「起きろ、起きろ。起きないとキスしちゃうぞ!」杏子さんだ。ぺしぺしと、おでこを叩かれる。「ぬぬぬ」唸っていると、どすんと僕の体の上にのしかかってきた。「早くしないと、今晩エッチさせてあげないよ!」「しないから、平気…」「置いてくよ。ほら、もう7時だよ!」「…えっ」慌てて、がばっと頭を上げて時計を見るとまだ5時だった。 悪い冗談だ。だけどそれですっかり目が覚めて、僕はもぞもぞと体を起こした。何も朝5時に起きなくてもいいと思うのだが、実はそんなに時間に余裕がない。7時半には出発しなくてはならないのだ。杏子さんはジャージ姿で、ミキちゃんはキッチンで朝食の準備をしていた。僕だけ、寝ぼすけさん状態。「ほれ。さっさと起きて着替えて」「う」「はい、さっさと靴はいて。行くよ」「う」引きずられるようにマンションの部屋を出る。むわっとしていて、暑い。朝靄の中、あくびをしながら、国道沿いを軽くジョギングする。それから、小さな神社で体操とストレッチをして、お参りをしてからマンションに戻った。クーラーの効いた部屋が気持ちよかった。「シャワー浴びよ。一緒に入る?」「入らない」「ミキとは一緒にお風呂入るの?」「教えない」「ちぇっ…」つまらなそうにチョップされる。気のせいか、杏子さんのテンションが少し高いような気がした。若干だ。当社比102%くらい…。あまり時間がないので、手早くシャワーを浴びて、朝ご飯を食べる。細々とした準備を整えて、と。忘れ物がないか、ミキちゃんがしつこいくらい確認したけど、大丈夫なようだ。「よし、じゃあ行こ」「はい」「星島、荷物持って」「はいはい」タクシーを呼んで、3人で乗り込んでマンションをあとにする。10分ぐらいで絹山駅に到着すると、既にみんなそろっていた。100mに出場する、千晶さんと新見と加奈。それから、リレーに出るちょんまげ真帆ちゃん。本間君と水沢さんもいる。今回はなんと、絹山大学から6人も出る。OBを入れると9人だ。黄金期と言っていいだろう。「おいーっす」「おはようございます」「おはようございます、社長」「よ、日本一!」朝からよく分からないテンションだけど、杏子さんがうりっとふんぞり返る。第1回日本スーパーグランプリの大成功で、杏子さんは鼻が高いようだ。見送りが、何人か来ていた。聡志と、ナニワのあきんど知香ちゃん。それに高校の後輩の織田君と、おべっか金子君。金髪の宝生さん。それに水沢さんのファンクラブの面々が30人ぐらい集まっていた。「あ」藤崎小春が、ものすごい勢いで僕をにらんでいて、思い出した。恒例の海合宿に、連れていくと約束していたのをすっかり忘れていた。慌てて両手を合わせて謝るそぶりを見せたけど、黙って親指を下に向けられる。「うう…」せっかく関係がよくなってきたと思ったのに。嗚呼、元の木阿弥…。「ご、ごめん。今度、埋め合わせするから」ひそひそと、談合を図る。「な、何よ。埋め合わせって」「えと。シーズン終わったら、みんなで温泉とか…?」「お、温泉…?」「大きな部屋で、水沢さんと雑魚寝できるかも?」ごくんと、藤崎小春が息を飲む。「こ…、今度は絶対忘れないでよね!」「き、企画段階から相談します」藤崎小春は力強くうなずいて、今度は親指をぐっと上に立てた。ちょっとほっとした。10分くらい、みんなであれこれむだ話をしてから杏子さんを先頭にホームへ。「ほいじゃ、行こうかね」「みんな、頑張って!」「星島以外ファイト!」見送りの声援を背に、電車に乗り込む。電車が動き出して、窓越しにミキちゃんに手を振る。ミキちゃんも、微笑を浮かべて小さく手を振ってくれた。あとから応援に来ることになっているが、またしばしのお別れだ。昨日、プレゼントしたネックレスを付けてくれているのがうれしかった。「さーて。ミキもいないし、星島といちゃいちゃしよっと」「しませんよ。しませんからね!」お約束に、小さな笑い。ちょうど、朝のラッシュの時間帯のちょっと前なので、空いている。まあ、絹山くんだりではラッシュでもさほど混まない。だけど、都心に着くころにはまさしくラッシュアワーで、めちゃくちゃ混んでいた。圧倒的な人の量だ。人の壁に辟易としながら新宿駅で降りて、ほかの代表メンバーや一部スタッフと合流。コーチやトレーナーなど、スタッフは30名にも及ぶ。稲森監督が日本代表短距離コーチに選ばれていて、我々としてはかなり心強い。「ん?どうした星島、見送りか?」珍しく、その稲森監督が軽口を叩いた。「いえ、何か参加させていただけるようなので…」「荷物持ちか?あ、どうも、浅海社長」稲森監督が帽子を脱いで杏子さんに頭を下げ、笑いが起こった。監督もテンションが高い。今日、出発する選手やスタッフは半分くらい。残りの半分は、あとから来ることになっている。予算とかスケジュールとか、いろいろと大人の事情があるみたいです。ちなみに、亜由美さんはメキシコから直接現地入りの予定だ。「全員いるな」短距離コーチの加納一郎48歳が確認する。すっかりはげ上がっていて平凡な名前だが、現役時代は400mで活躍した選手だ。「では、出発」新宿駅から、日暮里へ。そこで乗り換えて成田空港まで特急で1時間。やっと空港に着いたと思ったら、取材陣が待ち構えていてそこでまた時間を食った。もっとも、手続きに時間がかかったので、いい暇つぶしにはなった。空港に着いてから1時間後、ようやく飛行機に乗り込む。離陸して、空路、ブリスベンへ。9時間ほどの長旅でかなり疲れたが、何事もなく無事にブリスベン空港に到着した。初めての海外だった。

170話 結局は知香ちゃんに相談

のんびりできたのは、夏合宿までだった。急に決まったので、帰ってから、僕はかなりのハードスケジュールに忙殺された。テレビ出演を数本、雑誌の取材も数本、世界陸上用のVTR撮り。一応は日本代表なのでそれなりに露出が増えた。さらに、新見らと一緒に、大学の学長、絹山市長、東京都知事まで表敬訪問。やはりみんな、新見沙耶に会いたいらしい。後ろのほうでちらちらとテレビに移っていたのが、僕です。まあ、新見以外の、加奈とか真帆ちゃんとか、本間君とか。それと、日本代表の合宿に数日間参加した。こちらは半分顔見せ的な意味もあったが、陸上漬けの合宿だった。合宿が終わってから静岡の招待レースに呼ばれて、北海道にも行った。静岡では無風で10秒27。北海道ではちょい追い風で10秒22で、調子は悪くなかった。シンガポールでのレースにも誘われたけど、調整の問題もあってそれは断った。それと、宮城出身の真帆ちゃんと一緒に、宮城県知事を表敬訪問。その後、僕は仲浜市長のところにもいって、いろいろな人にあいさつ回り。恥ずかしながら、母校の仲浜中学校では生徒たちの前でスピーチをさせられたりした。何を言ったのか覚えていないけど、ギャグが壮大に滑って真っ白になったのは覚えている。誰か忘れさせてください…。「うー。疲れた」仲浜から帰ってきて。数日ぶりにミキちゃんの顔を見れたのは、世界陸上に出発する前の日の夕方だった。荷物をそのへんに放り投げて、杏子さんみたいにぼすんとソファーに倒れる。ミキちゃんが自作のいちごオレを出してくれた。「お疲れ様」「何かお土産いっぱいもらった。商工会の人に。笹かまぼことか…」「あら」ガサガサと、ミキちゃんが紙袋を覗き込む。明日からいないので、生ものをいっぱいもらっても困る。だが、要らないと断るわけにもいかない。仲浜市は人口4万にも満たない小さな町だ。ある種、郷土の英雄みたいな扱いをされてしまった…。「何か、むだにいろいろなもの背負わされてきた」「仕方ないわね。ちゃんとメニューこなした?」「うん。先生にお願いして、トラック使わせてもらった」「そう」笹かまぼこやらケーキやらを冷蔵庫にしまってミキちゃんが戻ってくるころ、僕はもうちゃんとソファーに座っていちごオレを一口飲んでいた。助さんだか格さんだか、どっちかは分からないけど?懐から印籠を取り出すみたいな感じで?小さな包みを取り出して両手でミキちゃんにどうぞと恭しく捧げる。僕の隣に座りながら、ミキちゃんは何の気なしに受け取った。「何?」「プレゼント」「ふうん…」予想どおりの反応だった。物欲の権化みたいな女の子でも困るのだけど、やはり少しぐらいは喜んでほしいのだ。えーうっそーうれしい開けてみていい?ぐらいは言ってほしいのだ。無理だろうけど。まあこの反応は予想していたので、僕の心は折れなかった。もう一口いちごオレを飲んでから、僕はひざを正してミキちゃんのほうに体を向けた。「ミキちゃん、いつもありがとう。感謝してます」「うん…」ミキちゃんは大いに照れたようだった。こういう、まっすぐな言葉に弱いのだ。そしてその恥ずかしそうな顔がまた、非常に可愛らしい。もう、これは久しぶりにいちゃいちゃするしかない!「うん?」だけど、ミキちゃんの隣にすり寄っていこうとしていたところで玄関のチャイムが鳴った。マンションの入口ではなく、玄関のチャイムだ。しかもガチャリとドアが開く音がして、ガタンと物音がする。僕もミキちゃんも、思わず硬直してしまった。「おーぅい。今日泊ーめーてーっ」杏子さんの声だった。目の前のいちゃいちゃうふふが消滅して、僕は思わずがくりと肩を落とした。どうも、杏子さんには僕の邪魔をするための何らかのアンテナが付いているようだった。

169話 一つの夢の話

波打ち際から、楽しそうな声が聞こえてくる。例によって、みんなでイルカとシャチにまたがって落としっこをしていた。何だっけ。加奈の持ってきたイルカとシャチ。名前付いてたんだけど、忘れちゃった。「やー。美味しそうなの飲んでるじゃん」髪から水を滴らせながら、杏子さんが戻ってくる。手帳をパタンと閉じて、加奈が顔を上げた。「あれ。杏子さん負けたんですか?」「負けた。真帆に負けた」「えへへ。じゃああたし行ってきます!」立ち上がって、加奈はうれしそうに走っていった。杏子さんはクーラーボックスのふたを開けたけど、すぐに閉じ、手を伸ばして僕のコーラをひったくった。「一口ちょーだい」本当に一口だけ飲んで、杏子さんはすぐに僕に戻した。今年の杏子さんは、何ていうのか分からないけど、右側しか肩ひもがない水色のビキニ。何かの拍子にずれてしまいそうだけど、今のところは大丈夫なようだ。どういう構造になっているんだろう。「あ、そうだ」珍しく、杏子さんがネックレスを付けていて、それを見て僕は思い出した。「杏子さん、お願いがあるんですけど」「ほーん?」「あのですね。ミキちゃんに、何かアクセサリー的なものを贈ろうと思うんですけど」「ほほーん」ビーチチェアに座り、タオルで髪を拭きながら杏子さんは僕を見た。「指輪?」指輪はちょっとハードルが高いです。「いや、ネックレスかイヤリングか。どんなのがいいのかなーって」「聞いてみればいいじゃん」「聞いたら要らないって言うと思って」「ああ。じゃあさりげなく聞いてあげよっか?」「おお」「あれでしょ。好みというか、どういうのが好きなのか傾向が分かればいいんでしょ」「そうですそうです」「任せなさい。神戸のさりげない女王とはあたしのことよ!」「よく分からん称号だけど、杏子さん、神戸じゃないでしょ。兵庫の…、聞いたことない郡部じゃなかった?」「うるさーい!星島だって仙台県のくせに」「ないよ、そんな県!」そんな話をしていると、ミキちゃんが別荘のほうから戻ってきた。別に、急ぐことでもない。僕のいないときに、話の流れでこっそり聞いてくれるものだと思っていた。しかし、杏子さんはごほんとせき払いをすると、無意味に立ち上がってまた座った。落ち着かない様子に、ミキちゃんが眉を動かす。嫌な予感がしたけど、制止するわけにもいかなかった。「あのさあ、ミキが彼氏からもらうとしたらさあ、どんなアクセサリーもらいたいワケ?」さりげがありすぎて、僕は思わずがくんと首を落とした。そうだった。油断してすっかり忘れてた。この人、ぎこちない女王なんだった…。たぶん、自分でもまずいと思ったのだろう。杏子さんは慌てて手を振って言い訳をした。「いやね、何というかさ、アサミACでも何かそういうのやっていこうかなってさ」「アクセサリーを?」「そうそう。例えばさ、新見沙耶モデルのネックレスみたいな?」口調がおかしいもん。「そういうのもいいんじゃないかって?思うんだけど?ミキのもつくる?」「いいえ」無表情のミキちゃん。にべもない。「じゃあさ。もらえるとしたらどんなの欲しい?」「要らないです。あまり興味ないので」「だよね…」杏子さんは、ここで心が折れたようだった。ちょびっと肩を落としていたけど、ぱっと顔を上げて話題を変える。「そういや、もうコーラなかった?」「ありますよ」「飲みたいな。あたしもコーラ、飲みたいな」「持ってきましょうか?」「おねがーい」「分かりました」ミキちゃんが快諾して、来た道を戻っていく。別荘まで200mくらいの上り坂を、テクテクとゆっくりと上っていった。その背中が遠ざかったところで、僕は杏子さんに抗議した。「全然さりげなくないじゃないですか!」あれはひどすぎる。だけど、杏子さんに反省の二文字はなく、ぷくっとほっぺたを膨らませた。「だって!意外と難しかったんだもん!」「それに、おれの前で聞かなくたっていいでしょ!」「うるさーいっ!」「この、ぎこちない女王が!」「う、うるさいうるさいうるさーいっ!」ばさばさと、足元の砂をお互いの足に足でかけあう。じたばたとみっともない戦いを続けていると、水沢さんが微笑を浮かべながら戻ってきた。真夏の日差しの下、まぶしそうに目の上に手をかざしてじゃれ合う僕たちを見る。「どうしたんですか?」「いや、それがさ」杏子さんが事情を簡単に説明すると、水沢さんは二度、うなずいた。「村上さんは、もっと実用的なもののほうが喜ぶかもしれませんね」「実用的…、包丁とか?」試しに言っただけなのに、水平に、杏子さんのチョップがばちーんと飛んできた。意外と痛かった。「包丁もらって喜ぶ女子がいるかっ!」「でも、実用的って…」「違うでしょ。実用的でも、もっと色気があるもんでしょ」「例えば?」「例えばさ、化粧品とか、下着とか」「それは、アクセサリーなんかより数倍難易度が高いのでは…」世の中の多くの男性にとって、未知の世界だ。「本人に聞いてみるとか?」水沢さんに言われたけど、僕は首を振った。「たぶん、別に何も要らないって言うと思う」「ああ。言いそうですね」水沢さんが手を打って賛同した、そのときだった。ミキちゃんが慌てた様子で別荘のほうから走ってきた。一体、何があったのか。いやそれより走って大丈夫なのかと心配になったが、息を切らして砂浜まで来る。そして、左手のコーラを杏子さんに差し出して、すうっと深呼吸をした。「どしたの?」杏子さんが聞いてコーラのふたを開けると、予想どおりぶしゅっと少しこぼれる。それをミキちゃんに渡すと、ミキちゃんは一口、飲んで僕を見た。「監督から電話きて」「ん?」「玉城さんが、代表取消になった」「え?」思わず、目を丸くする。「ひざ、痛めてたらしいけど、本格的に駄目そうだって」「あー」そういえば、玉城豊は日本選手権は決勝を棄権した。それ以後、どうも見かけないと思ったら、そういうことだったのか。「それで、代わりに、星島君が追加で選ばれた」「え?」「世界陸上。短距離代表」「すごいっ!」「やったじゃん!」僕が喜ぶ前に、水沢さんと杏子さんが喜んでくれた。なのでタイミングを逸してしまったけど、僕は大きく両手を上げて砂浜に倒れ込んだ。空は今日も真っ青だった。世界陸上。僕が、夢の、世界陸上代表だ。「うおーっ!」目の前に転がり込んできた幸運を実感し、咆哮する。杏子さんに身体をばしばし叩かれる。おでこを何度もチョップされて、起き上がって反撃すると、うれしそうなミキちゃんの笑顔が飛び込んできた。間違いなく、世界一の笑顔だと思った。

168話 ブラジル戦の記憶

翌朝、起きてみると外はよく晴れていた。夏の暑い日差しが戻り、庭の水たまりがあっという間に消えてなくなっていく。草のにおいが夏らしく漂ってきた。これは、午後は相当に暑くなりそうだ。「さ、ちょっと動くかね」杏子さんがリーダーとなって、午前中はいたってまじめに練習。体を動かして調子を維持するのと、あとは細かい技術的な確認だ。世界陸上まで1カ月を切っているので、今から走力が付くということはほぼない。しかし、今、持っている力が60だとして、世界陸上で60出せるか50しかだせないか。あるいは40しか出せないか、ちょっとだけ上乗せして61出せるようになるか。それはこの1カ月が重要になってくる。とにかくみんな頑張ってほしい。もちろん僕も、インカレがあるので怠けてはいられない。練習あるのみ。聡志が一緒だといつもぐだぐだだが、今回は本間君がいるので締まった練習ができた。「やることは、びしっとやるんですね」汗だくになりながら、本間君が感心して言った。まあ普段はぐだぐだなわけだけど、僕らだってやるときはやるのだ。「ま、浅海軍団だからね。緩急はびしっとついてるよ」「緩が多いけど」千晶さんが呟いて、笑いが起きる。「浅海軍団はそうだけど」と織田君が補足。「村上道場は急だけですよ。急、急、急ときて急!」「でもおかげで、オーストラリアっ!」汗だくの真帆ちゃんが踊る。加奈も踊り、新見も踊る。いいよなあ、世界陸上。羨ましい…。僕は出ないんだけど、それでも一緒に午前中いっぱい練習。ゆでダコのようになって別荘に引き上げてくる。練習のサポートは詩織ちゃんがしてくれて、お料理はミキちゃん担当。ナイスコンビネーションだ。午後。ちょっぴり辛い冷麺とスタミナ丼を食べて、若さで回復すると、砂浜へ突撃。相変わらず、ビーチには人がいなくて、すっかり凪いだ海は泳ぐのに最適だった。もうプライベートビーチに認定してもいいでしょう。まあ、民家も少ないし、広くないし、穴場だね。「あれ。ミキちゃんは?」少し泳いで帰ってくると、ミキちゃんがいるはずのビーチチェアに加奈が座っていた。「あ、なんか別荘戻ってるって」「そか」隣に座ると、加奈がクーラーボックスからささっと飲み物をとりだしてくれる。変な飲み物じゃないか、思わず警戒してしまったけど、普通のコーラだった。ありがとうといって受け取ると、ぷしゅっと蓋を開けてぐいっと飲む。何というか、久々のコーラで最高にうまかった。ミキちゃんの前では、炭酸は飲めません…。「お腹すいてない?大丈夫?」立ち上がって、加奈が笑顔でじりじりと距離を縮めてくる。ちょっと不気味だ。「さっき食べたばっかだろ」「そだっけ。肩でも揉む?」「何だよ。気味が悪いな」「えへへ。聞きたいことがあって」「何だよ」「あのね、どうやったら緊張しないで走れるか、教えて」「今さらか」「みんなに聞いて回ってるのっ!」簡単に言うけど、そんなの人それぞれだし、僕だって緊張しないわけじゃない。まったく緊張しないのも困るわけで。「てか、お前さ、なんで毎度毎度あんなにガチガチになるわけ?」聞いてみると、加奈は唇をとがらせた。「だって、ほら、緊張しちゃうんだもん」「うーん」まるきり答えになっていないけど、コーラをちびちび飲みながら僕は唸った。なかなか難しい問題だ。「サッカーはやってて緊張しなかった?」「しない」「ふーん。なんでだろ」「だって、キーパーだもん」当然、みたいな顔で加奈は言った。「意味分からんけど、キーパーだと緊張しない?」「だって、ボール、いつ来るか分かんないでしょ?」「うん」「100mって、スタートするの分かるじゃん」「ごめん、もうちょい分かりやすく」「だから、ほら、注射と一緒でさ。くるぞ、くるぞ、もうすぐくるぞって思ったら」「ああ…、なんとなく分かった」注射か。大して痛くもないのに、苦手な人多いよね。「待ってるうちにどきどきしちゃう」「そっか。それは確かにあるかもなあ…」「だからね、幅跳びとかのほうが合ってると思う。自分のタイミングでできるし」「でも、その理屈でいくとPKも駄目か?」「あ、PKは得意だったよ」加奈はぐいっと胸を張った。「PKはいいのかよ」「だってあれは、止めれなくても仕方ないもん」ヒントが、与えられた気がする。僕はちょっと考えて、じっと加奈を見た。とても大事な役割を、与えられたような気がした。「仕方ないっていうのは?」「だって、PKってほとんど決まるでしょ」「うん」「だから、駄目でもともと。うまく止めたらヒーローになれる!」「よし。じゃあその感覚でいけ!」「え。伝説の中指セービング?」今の会話の流れで、どうしてそうなるのか。よく分からないけど、どんな伝説なのかちょっぴり気になった。「そうじゃなくて、駄目もとで」「駄目もとで?」「お前、陸上始めて何年?」「えと、2年。2年半?」「それっぽっちだろ。失敗しようがビリだろうが、恥ずかしいことなんてないじゃん」「そっかなあ…」「第一さ、お前、今、世界で上から何番目だと思ってるんだよ」一瞬、加奈は考えてから言った。「…下のほう?」「10秒台で走ったことは?」「ない」「世界大会に何回出た?」「えーと、0回?」「それが分かればもう分かっただろ」「はうん?」「お前、チュニジア人のスプリンター、誰か知ってるか?」「ううん。知らない」「そうだろ。それと一緒で、10秒台出したこともない初出場の日本人選手なんか、誰も知らないし注目しないから。注目を集めるのはベッカーに任せとけばいい。日本人なら新見に目がいくから」「そっかな。そっかな?」女の子らしく、加奈は首を傾けた。ちょっとだけかわいい。「一生懸命やってるのはみんな知ってるし、失敗してもいいから、今は経験積むのが大事なんじゃないの。だいたい、今までさんざん失敗レースしてきてるんだから、今さらもう恥ずかしいことないじゃん」「あ。それ、村上さんにも言われた…」「そうだろ」「そっかあ。やっぱそうなんだ…」「言っとくけど、ミキちゃんの言うことはほぼ正しいんだからな。嫌ってないで素直に耳を傾けろよ」「え~?別に嫌ってないけど」「…前に嫌いだとか言ってたじゃん」「やーねえ。何年前の話してるの!」どこぞの奥様みたいに、手をひらひらさせて笑う。そんなに昔のことじゃ、ないと思うんだけどね…。「まあいいけど…、とにかく駄目もとで、PK戦と同じ要領」「なるほど」「失敗上等。まかり間違って予選突破したら万々歳。その気分でいけ!」「ちょっと待って!」「ん?」「メモする!」わざわざ、メモするようなことではないと思う。だけど、加奈はごそごそとバッグをあさって手帳を取り出し、一生懸命ペンを走らせた。気になってちょっと覗いてみると、伝説という2文字が見えた。

167話 ミキちゃんチェック

とりあえず、アイスコーヒーを飲みながら一服する。天気はよろしくないが、アイスコーヒーは美味しい。いつも飲み過ぎるのでミキちゃんはいい顔をしないけど、夏場のアイスコーヒーは格別だ。本間君と詩織ちゃんは初めてなので、ものめずらしそうにキョロキョロ中。まあそうなるよね。「今年は、ほんとに合宿になりそうだねえ」コーヒーをストローでぶくぶくさせながら杏子さんが言う。毎年、泳いで食べてごろごろするだけの合宿なのだが、今年はさすがにそうもいかない。何しろ世界陸上の代表が集まっているのだ。いつものように、のんびり遊んでいるわけにもいくまい。僕はまあ腐るほど遊ぶけど。「午前中は汗流して、暑くなってきたら泳いで、涼しくなってきたらまた練習かな」「こら、やめなさい、みっともない」思わず、杏子さんをたしなめる。いつまでもコーヒーをぶくぶくさせていたからだ。「う…、癖なんだよね」「裏の野球場とか使っていいのかな?」「いいんじゃない。ときどき、草野球とかしてるみたいだけど」「市営?」「たぶんね。千晶、ニュー水着買ったんだっけ?」「え、まだ…」「今度買い行こ。オーストラリア用に。悩殺水着」誰を悩殺するつもりなのか、あえて聞かないでおく。 テーブルの上では、ノートパソコンを開いて、ミキちゃんたちが何か始めている。ちょっと覗いてみると、グランプリのビデオを見てフォームのチェックをしていた。新見と加奈、真帆ちゃんがそれを食い入るように見つめる。真剣な表情だ。僕と本間君も、それを後ろから覗き込む。「接地時間みじかっ…」真帆ちゃんが感心している。横からのアップで、新見の走りがスローで映っていた。「足がよく回ってるわ。軸もぶれてないし」ミキちゃんが真正直に褒めて、新見が少し恥ずかしそうに笑った。「何かちょっと感覚がつかめてきたかも」「骨盤がちゃんと動いてる感じね」「あまり意識してないんだけど…」「意識しすぎるとかえってよくないのよ」「そっかあ」それから少し、物理学的な講義が続いたけど、省略。「前原さんは、どうしていつも硬くなるのかしら」「うう…」ミキちゃんが真正直に指摘して、加奈が泣きそうな顔をした。「何か、どうしても緊張しちゃって…」「ちゃんと力を出せたら、このへんにいるはずよ」トントンと、ミキちゃんはディスプレイを叩いた。それは疾走する新見の数m前だったけど、誰も何も言わなかった。「あなたは、フィジカルはすごいし」珍しく、ミキちゃんが加奈を褒める。「技術はまだまだだけど、努力を苦にしないタイプだから、世界も狙えると思うんだけど」「そ…、そうですかね…、え、今、褒められた…?」「半分はね」「そっかあ。えへ、えへへへ…」うれしそうな加奈。「あたし、あたしはどうですか?」真帆ちゃんが言って、また少し、物理学的な講義。スプリントは、物理学である。そんなことができるかどうか分からないが、僕の肉体をコンピューターで解析し、理想的なスプリントをさせたら、きっと9秒台は楽々出ると思う。だが、実際にやるとなるとこれが難しい。「うーん」唸りながら、真帆ちゃんが立ち上がってソファーの後ろのほうに歩いていく。それで、足を振り上げて走る動作をしようとしたけど、実際にリビングの中を走り回るわけにもいかず、すぐに戻ってきて座った。「あたし、接地が近過ぎますかね。体に」「にゃんにゃんにゃん」もちろんミキちゃんの返事じゃない。モモちゃんが鳴いているわけでもない。キッチンから聞こえてくる水沢さんの声だ。あれはそっとしておいてあげよう…。「接地はいいけど、蹴りすぎだと思う」「にゃーん」「加速の段階で、足が流れてるのよね」「にゃんっ」「一応、意識はしてるんですけど」「それと、もうちょっと体幹強くしないと」「にゃんにゃーんっ」それに、個々によって変わってくるので難しい。例えば、真帆ちゃんと加奈を比べたら、身長差が30センチ近くある。当然、動きがだいぶ変わってくるわけだ。人によって、足の長さも骨盤のかたちも違ってくるだろう。マニュアルがあって、そのとおりのスプリントをすればいいというわけではないのである。大型トラックと軽自動車では、カーブの曲がり方も違うでしょ?「ん?」しばらく、ああでもないこうでもないと試行錯誤を続けていると、退屈なのか、シャクトリムシみたいに、杏子さんが寝そべったままずりずりとソファーの上を移動してきた。新見の太ももにあごを乗せ、手を伸ばすとミキちゃんの足をぺたぺたと叩く。少し眉を動かして、面倒くさそうに杏子さんを見下ろすミキちゃん。「何ですか」「晩ごはんナニ?」「にゃーん?」おや。何かシンクロしてきたぞ…。「立派なクルマエビがあるので、天ぷらかエビフライにしようかと思ったんですけど」「トンカツ屋さんみたいなエビフライ食べたいな~。サクサクの」お。それはいいと思います。「できる?トンカツとエビフライ。タルタルソースたっぷり付けて」「まあ、うまくできるかは分からないですけど」「トンカツ!エビフリャーッ!」加奈が騒いで、新見が満面の笑みを浮かべた。名古屋風になっている理由は不明だが、真夏だというのにみんな食欲旺盛だ。「ただいまーっ」美味しい揚げ物の話をみんなでしていると、ようやく聡志と織田君が戻ってきた。 だけど、頼んでいたのをすっかり忘れていたらしい。杏子さんは、両手にファストフードの袋を持った聡志を見て、あっという顔をした。「ああ。そうだった、すっかり忘れてた」「ひどい。大雨の中買いに行ったのに!」「ごめんごめん。おつかれさん」「はい、お待ちかねのチーズバーガーとチョコシェイク。みんなのぶんもありますよ!」「んー、やっぱあたしいいや」得意の、気分屋的わがまま大爆発。聡志はがくんとじゅうたんの上にひざをついたが、すぐに立ち上がって鼻を膨らませた。「でも、一応ちゃんと買ってきたわけだから、例のアレをですね」「ん?」「その、約束を、ぶちゅっと…」「ああ。そんなの嘘に決まってるじゃん」「嘘…?」「うん。うっそでーす」聡志がばたんとじゅうたんの上に倒れた。 その隙を見計らって、加奈がささっと袋を奪ってテーブルの上に乗せた。野獣のような素早い動きだった。

166話 恒例の夏合宿

学生最後の、夏。それを締めくくるのは当然、世界陸上。と言いたいところだが、僕は出れないので、そのあとのインカレになる。締めくくるには若干早い。まだ夏はしばらく続いていくが、中休みということで、僕らは恒例の夏合宿へ出発した。みんな、本当はそんな暇ないんだけど、ちょっとだけ。「とうちゃーく!」運転していた杏子さんが、別荘のガレージに車をとめてサイドブレーキを引く。参加者は、杏子さんと千晶さんと新見。それに僕とミキちゃんと聡志と加奈、真帆ちゃん、水沢さん、織田君。まあ、去年とほぼ同じメンバーだが、初参加の本間君と詩織ちゃんがいる。知香ちゃんと金子君と宝生さんは、不参加。世界陸上を見に行くために鬼バイトをしているみたい。亜由美さんは、マラソン代表のメンバーと一緒に、メキシコで高地トレーニング中。すごいよね。メキシコで合宿とか。将来は本気で金メダルを狙えそうだし、帰ってきたらサインをもらっておこうと思う。「さーて。さっそく泳ごうかね!」車を降りて元気よく杏子さんが言ったけど、誰一人として賛同しなかった。ざんざん降りで、すっかり雨模様だったからだ。「去年は全然降らなかったのに」千晶さんがぽつりと言うと、杏子さんが新見のほっぺたを両手でぷにっと挟んだ。「雨女発見!」「違いまふよお」女性陣がじゃれあっていると、ちょっとだけ遅れていた聡志の車がやってきた。 車から荷物を下ろし、ガレージの中からそのまま家に入る。お勝手口みたいなものだ。短い廊下がキッチンの横につながっていて、僕たちはそこを通ってリビングに出た。「荷物置いたら下りてきて」言いながら、杏子さんはソファーにごろんと横になった。「ちべたいアイスコーシーでも飲もうぜい」「はーい」みんな、ふかふかのじゅうたんを歩いていって2階にいき、適当な部屋に荷物を置く。勝手知ったるじゃないが、毎年のことなので慣れたものだ。いくつか二人部屋もあるので、ミキちゃんと一緒に…、と考えなくはなかったが、向こうがさっさと奥のほうの一人部屋に入っていってしまったので、僕は聡志と二人部屋に入った。反対側の角部屋で、窓からの見晴らしがよかった。本間君と詩織ちゃんが、堂々と2人部屋に入っていく。ちょっと羨望の眼差しを向けてしまう。「モモちゃんも、おやつにしましょうね」下りていくと、リビングで、水沢さんが目を細めてモモちゃんを抱っこしていた。亜由美さんの飼い猫のマンチカンだ。亜由美さんがメキシコ合宿から帰ってくるまで、預かることになったらしい。水沢さんが目を細めて頬をすり寄せると、モモちゃんは舌を出してぺろぺろと舐める。どっちの立場もうらやましい。「モモちゃんより、先にあたしに何かつくってえ」ソファーにうつ伏せになって、杏子さんが長い素足をぶらぶらさせていた。おやつの時間だけに、小腹が空いたらしい。「フライドチキン食べたーい」「フライドチキン…」キッチンで、ミキちゃんが冷蔵庫の中を確認してちょっと困った顔をする。「骨なしでもいいですか?」「あとシェイクが飲みたいな。チョコシェイク」「それはちょっと時間かかるかも」「つくれるんかい」自分で言ったくせに、杏子さんがつっこんだ。それから、顔を上げて僕らのほうを見て、聡志を見つけると手をくるくると回した。「橋本、チーズバーガーとチョコシェイク買ってきて!」フライドチキンがどこかにいってしまったが、聡志は露骨に嫌そうな顔をした。「えーっ…」「あとでキスしたげるから」「嘘だ。絶対嘘だっ!」信じない聡志。それはそうだけど、杏子さんはいたって真面目な顔だった。「ほんとだって」「嘘だ…、ほっぺに?」「いやいや、ちゃんと口に」「おれと、杏子さんが?」「キスだけね。ディープキス可」「でぃ、ディープ?」「5分間だけね」「絶対嘘だ…」「そんな嘘ついてもしょうがないでしょ。みんなのいる前で」「マジすか…」「行くの?行かないの?」「えと、何個買ってくればいいのかな?」けっこうな風雨の中、織田君をお伴に連れて、聡志は車に乗って来た道を戻っていった。絶対騙されていると思ったけど、黙っておいた。

165話 サプライズ

翌日の昼遅く。新見はトラックに顔を出すと、ストレッチをしていた村上道場のメンバーのところにやってきて、どてんと倒れた。例によって、密着取材のカメラが付いてきている。最初はカメラの存在に緊張したけど、最近はもう慣れてしまった。「疲れた…」大きく、息を吐く新見。たぶん、あまり寝ていないんだと思う。「お疲れさん。大丈夫?」「ミキちゃんのご飯、食べれなかった!」横になってごろごろしながら、ぷいぷいと唇をとがらせる。それどころじゃないような気がするが、心残りだったらしい。「いや、昨日は何もしなかったよ。杏子さんも千晶さんもいなかったし」「ふうん。まいっか、高級焼き肉弁当食べさせてもらったから」「焼き肉?」その言葉に反応して、身体を起こしたのは加奈だった。「焼き肉弁当。焼き肉屋さんがつくったやつ」「焼き肉屋さん…」「1個3800円だって」「3800えんっ!」「ふたつも食べちゃった」「ふたつうううっ!」奇声を上げて後ろにばたんと倒れる加奈。「お腹すーいたっ、お腹すーいたっ」「お昼食べてないの?」真帆ちゃんに聞かれたけど、加奈は無言。もう消化してしまったんですね…。「今日?今日やる?」「ん?」「ごちそう的な」新見がやっと、笑顔を見せる。偉業を達成したのに、それを誇るでもなく、いつもどおりだった。「いいけど、ミキちゃんが何というか」「ミキちゃんは?」「あれ。部室にいなかった?」言っていると、ミキちゃんが部室から出てきた。何かプリントを持っている。待っていると、こちらに歩いてきて、新見を見て少し眉を持ち上げた。「おはよう」「おはよ。何それ?」「日本代表、発表されたから」「わっ。見せて見せて」みんないっせいに集まる。首を傾けて、僕もプリントを覗き込んだ。 視線を走らせたけど、男子短距離のところに、星島望の名前は載っていなかった。本間隆一、後藤俊介、玉城豊。それから、土井恒星、本間秀二と載っていて、あとは400mの選手だった。4Kは男子100mの3人と、200mに出る土井恒星か本間秀二がメンバーだろう。仕方あるまい。覚悟していたので、さほどショックはなかった。そして、女子短距離のところに視線を移すと、新見沙耶の名前が載っていた。「おおお」日本選手権に出ていない新見が、世界陸上の代表に選ばれている。グランプリを日本記録で優勝したことが、考慮されたのか…?「新見、載ってる!」「え、嘘」新見が目をぱちぱちさせて覗き込んだが、嘘じゃなかった。堂々、一番最初に山田千晶と載っていて。新見沙耶、前原加奈、山本幸恵、宮本真帆と続いている。「わっ。ほんとだ!」「おめでと!」「やったーっ!」新見がうれしそうに万歳をした。手を伸ばすと、うれしそうにハイタッチしてくれる。「いやーっ、超うれしい!」「おめでと!」真帆ちゃんと加奈も代表に選ばれた。何かやけに静かだと思ったら、二人とも抱き合ってわんわんと泣いている。「うれしいよう」「あーん」「うわーん」新見までぼろぼろと泣き出して、危なくもらい泣きしそうになってしまう。その点、ミキちゃんはさすがです。眉毛をちょっと動かして、やれやれといった感じで見ているだけなんですから…。並び順を見る限り、女子100mは千晶さんと新見と加奈だろう。「結果的に、A標準を突破した3人ね」ミキちゃんの言葉に、新見がぽんと手を叩いた。「あ、そうかそうか。2人しかいなかったんだ」「山本さんあたりがB標準出してきてたら、また事情も変わってきてたんだろうけど」「そだね。日本選手権3位だから…」A標準突破者が、千晶さんと加奈。B標準は誰もいなかった。1枠空いているところに、新見が滑り込んだ格好だ。日本選手権は出てないけど…、まあほかにいないからいいんじゃない?みたいな。そのほか、杏子さんと亜由美さんも代表入り。水沢さんは女子フィールド種目で唯一の代表だった。まず、順当なところか。(うーん。ミキちゃんと2人で、オーストラリア旅行しようかなあ)ゴルフクラブを売ったお金で、そうしたい。だけど僕がお金を出すだなんて言ったら、ミキちゃんはいい顔をしないだろうなあと思った。

164話 目撃

白い雲が何度も流れていって、競技はどんどん進行していった。女子400mは、52秒05の自己ベストで杏子さんが完勝。今シーズンに限って言えば、小林由紀との対決は杏子さんに軍配が上がった。若い杏子さんが、小林由紀に追いついたという感じだ。「さあ、いよいよ最終種目です」午後6時、司会の声が響く。2日間にわたって行われた日本スーパーグランプリの最終種目は、女子100mだった。CMでも、この種目にスポットを当てて放送していた。「出てきた出てきた」いつの間にか、後ろに十文字と本間君と詩織ちゃんがいた。金子君やベースマン、知香ちゃんも店を閉めて観戦に来ている。宝生さんや水沢さんの姿は見えないが、きっとどこかで見ていることだろう。横井もいたし、マネージャーの悠子ちゃんもいる。長距離ブロックの子もそろって観戦している。みんな、注目しているようだ。「沙耶ちゃん、筋肉付いたなあ」聡志がつぶやく。「足太くなるの嫌だなんて言ってたのに」確かに、以前と比べて太ももの筋肉がかなり発達している。筋トレをかなり増やしていたようだ。 それに、練習嫌いだったのだが、サボらなくなった。ちゃんと毎日、誰よりも遅くまで頑張っている。陳腐な表現だが、生まれ変わったかのように、熱心に練習している感じだ。「むしろ、ケガしてよかったのかもしれないわね」ミキちゃんがつぶやいた。「そういうところもいろいろ含めて、初めて真剣になれたみたいだから」「そっか…」そうだといいなと思った。そうだったら、僕も少しは救われる。「ここにきて調子もぐんと上がってるみたいだし、楽しみね」確かに。勝負という意味では、面白いレースになりそうだ。「さあ、始まるぞ」ライバル勢の動向も気になるところだが、いよいよ、スタートだった。風が、夏の夕暮れの中を静かに吹き抜けていく。いい風だった。僕のときもこのくらい吹いていてくれればと思うくらい、絶好の追い風だ。「いいねいいね。まさしく追い風だね」後ろから知香ちゃんの声が聞こえた。ちょっと振り返ってみると、詩織ちゃんと一緒に体を左右に揺らして踊っている。ざわめきの場内の中、選手紹介が始まる。何しろ、粒がそろった非常にハイレベルなレースなのだ。「第1レーン、北条沙織、庭沼南高校所属。自己ベスト11秒55」1レーンの北条は、去年、2年生でインターハイを制した。この夏は連覇を目指している期待の若手だ。新見沙耶の持つ高校記録を塗り替えるか、期待されているニューエイジである。「第2レーン、山本幸恵、ライテックス所属。自己ベスト11秒36。前年度日本選手権優勝者」山本幸恵はライテックスのベテランだ。イメージは、クールな侍。去年の日本選手権チャンピオン。もちろん、優勝と世界陸上の代表入りを虎視眈々と狙っている。「第3レーン、宮本真帆、絹山大学所属。自己ベスト11秒48」ちょんまげ真帆ちゃんは、絶賛成長中の新鋭だ。100mでの代表入りはちょっと難しいかも。だけど、ここでいいタイムを出して4Kのメンバー入りをアピールしたいところ。11秒5を切ってきたし、間違いなく、絹山大学の次を担うタレントだ。「第4レーン、鈴木恵美子、辰川体育大学所属。自己ベスト11秒43。本年度関東インカレ優勝者」鈴木は、関東インカレで自己ベストを0秒21も縮めて優勝し、周囲を驚かせた。今まで大した戦歴はなかったが、今シーズンはすこぶる好調。はまると怖い一発屋だ。ここでもジャイアントキリングを起こせるか。「第5レーン、山田千晶、アサミアスリートクラブ所属。自己ベスト11秒29。本年度日本選手権優勝者」本格化した大和撫子。今年、堂々の日本歴代3位をマークした。日本選手権で優勝し、B標準を突破しているので、世界陸上代表に選ばれるか。大舞台にめっぽう強く、安定性抜群なので、今回もいいレースをするのは間違いない。「第6レーン、前原加奈、絹山大学所属。自己ベスト11秒25」加奈は、粗削りの大器といったところだが、例によって緊張してカチカチになっている。千晶さんとは正反対で、大舞台に弱い。安定性皆無なので、例によってドタバタ走ることになるだろう。何だろう、日本歴代2位の記録を持っているのに、この期待感のなさは。「第7レーン、相川佑菜、三春屋所属。自己ベスト11秒62。本年度関西インカレ優勝者」この子のこと全然知らないけど、可愛い。「第8レーン、新見沙耶、絹山大学所属。自己ベスト11秒23。日本記録保持者」新見は、日本選手権に出ていないので世界陸上は無理。しかし、とにかく頑張って奇跡の復活を狙いたい。というか、女子の選手紹介、なんでこんなまじめなの。僕の時はひどかったのに…。「on your mark」選手紹介が終わると、スターターの合図でスタンドに静寂が広がっていく。 選手がスタートラインにつく。緊張感が伝わってきて僕は思わず息を飲み込んだ。夏の暑さも忘れ、ぎゅっと手を握り締める。いいレースになるような気がした。「set」スタートと同時に、加奈がわちゃっと立ち上がった。ほかの7人が爆発的な勢いで飛び出す。横一線。加奈以外、横一線だ。横一線のまま、横一線のまま…、横一線のままダーっと一気に加速していく。盛り上がるスタンド。これは好レースだ。混戦で、誰が抜け出てもおかしくない。「おおっ」しかし中盤で抜けたのは、やはり大舞台に強い千晶さんだった。そしてもう一人、大外の新見沙耶だ。「おおおっ!」徐々に、マッチレースの状態になっていく。両者とも、一歩一歩のストライドはさほど大きくなかった。しかしそのぶんピッチが早かった。むちのように足がしなって、身体を前へ前へと押し進めていった。真帆ちゃんや山本幸恵の走りも、決して悪いわけではなかった。しかし、千晶さんと新見の走りがそれ以上によすぎた。「素晴らしい…」辛口のミキちゃんが、舌を巻く。それほどのスプリントだった。まるでそのまま、2人だけでどこまでも走っていってしまいそうな。永遠に並んで走っていきそうな時間が、しばらく続いた。しかし、終盤、その瞬間は訪れた。均衡状態を打ち破ったのは、新見沙耶だった。わずかばかり前に出ると、すすっと先頭に立ち、千晶さんを半歩リードする。序盤の加速も素晴らしかったが、終盤のスピード維持も素晴らしかった。筋力がついたためか、最後まで軸がぶれなかった。あの事故から、1年半。土壇場で、新見沙耶は復活した。久しぶりの大舞台で不死鳥のように舞い上がり、先頭でゴールを切った。「……っ!」観客の視線が記録ボードに集まって、一瞬後、スタンドは狂乱の渦に巻き込まれた。あまりの歓声に新見が驚いて記録を確認して、驚いて目を見開き、笑顔で両手を挙げた。 速報、11秒15。 「うおおおおおおおおおおーっ!」速報タイムは、堂々の11秒15を表示していた。日本人初の11秒1台だった。「うおおおおおおーっ!」「ひょわああああーっ!」「きゃあああああーっ!」人はなぜ、心から感動すると、声を上げたくなるのだろうか。僕らはみんな立ち上がって叫んだ。「ばんざーい!ばんざーい!」後ろで知香ちゃんと詩織ちゃんが万歳を始めて、僕らもつられて万歳をした。あのミキちゃんが、満面の笑顔だった。場内アナウンスが何か言っていたが、地鳴りのような歓声で聞き取れなかった。普段と違って数万単位の歓声だったので、とにかくものすごかった。国内の大会では珍しい、スタンディングオベーション。日本記録樹立を祝うファンファーレが鳴り、花火が上がった。すぐに追い風0.9mと表示され、正式記録が11秒14に訂正されてまたスタンドが沸いた。新見はもう、顔中が笑顔だった。花火がぼんぼん上がり、大歓声の中、笑顔で手を振りながらスタート地点に戻り、何人かと握手をして、千晶さんと抱き合い、真帆ちゃんのちょんまげを軽く触って笑う。それから、リクエストに答えて記録ボードの前でやったぜポーズを決める。ものすごい数の記者が、新見の周りに群がってシャッターを切った。「うおおおおおおーっ!」聡志がぶんぶんとタオルを振り回して、それが織田君にびちびちと当たった。「見に来てよかったーっ!」酔っているのか、暴れながら喜びの声をあげる。数万人の気持ちを代弁しているかのようだった。 2着が千晶さんで、11秒23。終盤にリードを許してしまったが、これも従来の日本記録タイとなるものすごい記録だ。そして3着が山本幸恵で、11秒34。真帆ちゃんが11秒41の4着。前の2人に引っ張られたのだろうが、二人とも文句なしのいいタイムだ。国内の女子100mでは、過去にないハイレベルなレースだった。最高のレース。とにかく、最高のレースだった!「あ、千晶さん!」「ちあきさーん!」最高のレースを演出した千晶さんが、笑顔で僕たちに手を振る。負けて悔いなし、千晶さんも素晴らしいパフォーマンスだった。千晶さんがいなければ、今日のこのレースは成り立たなかった。「ばんざーい!」「大和撫子ばんざーい!」何だかよく分からないけど、とにかく万歳をする。千晶さんは拍手をしながらトラックを出て、くるりとトラックを向く。そして、いつものように丁寧にお辞儀をした。「さすが!」「さすがだなあ!」何から何まで、天晴れだった。この、奇跡の復活の瞬間。ちょうど、6時のニュースの時間だったこともあって、テレビ局各社が新見復活・日本記録誕生をニュースで流したらしい。しかも達成の瞬間、いくつかの局ではニュース速報を流したようだ。新見はそのまま、杏子さんとマスコミの人に拉致されて東京へ。NHKの夜9時のニュースに生出演し、10時ごろから日付が変わるまで各局のスポーツニュースを渡り歩き、翌朝の情報番組にも何本か出て、午前中のワイドショーをはしごした。とにかく、ドラマチックな復活劇に列島が大きく揺れて、新見沙耶の名前は世界にまでとどろいていったのだった。

163話 不労所得

ミキちゃんと、ご飯を食べる。たっぷり1時間くらいかけて、何とか機嫌を直してもらった。コツは、ひたすら謝罪することだ。ミキちゃんを言い負かそうと思っても無理。僕より何倍も頭がいいし、理論武装はできているし。嘘をついてもばれるので、正直に言って謝るしかないのだ。まあ、謝るようなことは、してないんだけど。そんなには…。「ごちそうさまでした」大体機嫌が直ったところで戻ってくると、大変なことになっていた。スタンドで、いまだに聡志と織田君が酒盛りをしている。いや、そうではなく、男子200mで日本記録が出ていたのだ。「おおお」思わず、感嘆の声を漏らしてしまう。記録板の前で、本間隆一が記者に囲まれていた。いつの間にか、トラックの上は風が巻いていた。追い風1.2mと条件がよかったのもあるのだろうが、堂々の日本記録だ。1千万円プレゼント、第1号である。本間隆一の横のほうで、当たったらしい女の子が大きな目録を抱えて半狂乱になっている。そりゃ、陸上見に来ていきなり1千万もらえたらね。でも、多分、来年も絶対来てくれると思う。友達をいっぱい連れて見にきてくださいね!「ごめんね。見たかったでしょ」座りながらミキちゃんが言う。もちろん、観戦するつもりで余裕を持って帰ってきた。しかし、階段のところで、人を避けようとしてミキちゃんが足をひねってしまったのだ。 慌てて、詩織ちゃんを呼んで。面倒くさがるミキちゃんを引っ張って医務室に連れていって。湿布とテーピングをしてもらって。それで、スタンドにきたころにはレースが終わってしまっていた。「あとでビデオ見るからだいじょぶ」「弟が2位だぞ」「お」聡志に言われて電光掲示板を確認すると、確かに本間君が2位に入っていた。兄の本間隆一が20秒03の日本記録。それに引っ張られてか、弟の本間秀二が20秒25。A標準が20秒60なので、かなりいいタイムだ。これは、もしかすると兄弟で代表入りか。確か、200mはA標準突破者が2人しかいなかったはず…。「はー。さすがだなあ」思わず感心してしまった。十文字は5位。タイムもいたって平凡。こっちは駄目だろう。何というか、実力の世界だから仕方ないのだが、ちょっとかわいそうだった。「兄弟で代表か。また何か騒がれそうな…」「そうね」「またテレビきそうだなあ」「そうかもね」ミキちゃんはあまり興味がなさそうだった。プログラムを開いて、スタートリストのところに何か書き込んでいる。「今シーズン終わったら、200mも始めてみる?」ふいに、ミキちゃんはそんなふうに言った。ちらっと僕を見て、それからまたプログラムに視線を落とす。200mか。やってやれないことはないけど…。「そんな余裕ないかしら」「いや、チャンスがあるなら何でもやる。オリンピックもあるし」「そうね」「おーれーはー、どうすればいいでしょう」聡志が割り込んでくる。ミキちゃんは顔を上げて、ちょっと考えるような顔をした。「橋本君は、どうすればいいのかしらね…」「あーん。さじ投げられた」「とりあえず朝練してみるとか」「ぐう…」聡志はまた眠ってしまった。おやすみなさい…。