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186話 嵐の前

翌日は、6時に起床した。大会2日目。日本チームに関係のあるところでは、9時から男子20キロ競歩の決勝。それから午前中に、男子400mと女子100mの予選がある。いずれも楽しみなレースだ。午後のセッションでは、18時39分から男子100mの準決勝。これには、日本のスーパースター星島望が参加する。そのあと、女子400mの準決勝に杏子さんが登場。そして、20時45分、最終種目。人類最速を決める、男子100mの決勝が行われる予定だ。「うはよーござます」食堂に降りていくと、男子400mハードルの3人と、杏子さんと水沢さんがいた。「おいっす」「おはよん」「おはようございます」杏子さんの隣に座ると、ぴらっと紙を見せられる。男子100m準決勝のスタートリストだった。オレンジジュースを飲みながら目を通す。僕は最終第3組で、優勝候補、アメリカの新鋭ギルバート・ガードナーと一緒。ジャマイカのダミアン・ロドリゲスの名前もあった。自己ベスト9秒台が5人。シーズンベスト9秒台が4人。別に、とりたててきついという組ではない。ほかの2組も、きついメンツが並んでいる。世界大会の準決勝なのだから当たり前だ。とにかく。準決勝は2着プラス2なので、はいごくろうさんという感じだ。仲浜の戻りガツオは、決勝はスタンドでご観戦ください、と。「まあ、まあいいですよ。どの組入ったって同じだから」「んだね」「ほかのみんなは?」「あー、もう上行って準備してる」「そか」今日から女子100mも始まる。世界的には男子100mのほうが注目されるが、日本人としてはこちらのほうが楽しみだ。世界大会に3人も出場するのは初めてのことなのである。復活したエース、新見沙耶が世界を相手にどこまで食い下がれるか。大舞台にめっぽう強い千晶さんはどうか。秘密兵器、加奈がいよいよ爆発するのか。日本人初の準決勝進出はあるか。「楽しみですねえ」つぶやくと、杏子さんはニコニコ笑顔で僕の頭をすりすり撫でた。「せっかくの準決なんだし、なんてったって世界大会なんだから楽しまなくちゃ」「あ、はい」何か勘違いされてしまったが、黙っておいた。「そのためにも、星島君、おれにも、充電、な」男子400mハードルのエース、東南銀行の山崎雅史に頼まれる。 昨日の、女子1万メートル。我らが亜由美さんは、世界の強豪選手に混じって力走し、4位に入った。トラック種目で4位なのだから大健闘、いや快挙といってもいい。亜由美さんまで結果を出したので、日本チームの中では充電の効果が注目され始めていた。ただ、キスしたら4位、キスしたら4位と亜由美さんが触れ回っていて…。「何ならキスしてもいいぞ、おれ」笑いながら、山崎さんもそんなことを言う。「いや、それはあれですけども」「ディープか?ディープで?」「勘弁してください…」さすがにそれは断る。だけど、わらにもすがりたい気持ちがよく分かる。ただの偶然だろうし、根拠などない。でも、いい流れに乗っていきたいというのは分かる。勝負の世界で生きる者にとっては当たり前のことだ。僕も、その流れに乗っていきたい。頑張るしかない!いったん部屋に戻ってあれこれ準備をしてからロビーに集合して、出発。今日のブリスベンは曇り。新見と千晶さんは比較的リラックスした表情だったが、加奈の表情が暗かった。きっとお腹が空いているからだろう。「お腹空いた…」小さく言ってお腹をさする。予知能力なんて持っていなくても、そのくらい分かるのだ。「レースが終わってからいくらでも食え」慰めたけど、加奈の表情は暗いままだった。「お腹いっぱい食べたいほど美味しくない…」「それもそうか」「一番美味しいのがハンバーガーだなんて、ありえないよね」と、新見がぷんぷんと唇をとがらせながら参戦する。「しかも日本のハンバーガーのほうが美味しいし」「んだなあ」「こんなんじゃ、力出そうと思ったって出せないよ!」拳を握って新見が力説すると、前を歩いていた稲森監督が振り返った。「なんだお前、もう負けたときの言い訳か」笑いが起こって、新見は少し顔を赤らめた。「違います、食事は大切だっていう」「それは栄養価の話だろう」「きぶ…、精神的な問題です!」「前回はうまかったのになあ」と、本間さんがフォローする。「オリンピックのときなんか、もっといっぱい種類があっていろいろ選べたんだけど」とかく、食べる話ばかりしているような気がする。でも、アスリートにとって食事は大切なのだ。決して僕らが食いしん坊だというわけではないのだ。一部を除いて…。

185話 いくらなんでも6人はない

惰性で走りながら、横目で確認すると、速報タイムは9秒95だった。観客の声援が、どよめくような声に変わった。予選から9秒台だ。(…っ)国際影像のカメラマンが、慌ててジャマイカの選手のほうに走っていった。彼が1着なのだろう。無意識だった呼吸が、意識的になる。エンジンブレーキをかけたかのように停止し、何人かと握手をしながら戻ってくる。歩きながら、ボランティアの女の子からスポーツドリンクのペットボトルを受け取る。一口、もう一口飲んでふたを閉める。 電光掲示板には、1着以外の結果は出ていない。正式タイムが9秒96で、ジャマイカの選手。あとはどうか…。「はあ、ふう、ふう…」大きく呼吸をする。たぶん、3着か4着。下手すれば5着かもしれないが、混戦でよく分からなかった。戻っていくと、1着だったジャマイカの選手に背中を叩かれる。叩き返そうと思って空振りし、ちょっと恥ずかしかった。ミックスゾーンにいた日本のテレビ局に呼ばれたので、僕は息を整えながら歩いていった。インタビュアーの女の子が、笑顔でマイクを差し出してくる。「見事、3着で準決勝進出を決めました、星島選手に来ていただきました。おめでとうございます」「あ、ありがとうございます。え、3着?」「3着です。3着で、タイムのほうが10秒13ということです」インタビュアーの言葉に、慌てて電光掲示板を確認する。本当だった。追い風0.3mで、自己ベストを大きく上回る10秒13。4着が10秒15、5着が10秒22だから、やはりかなりの接戦だ。内心、僕はガッツポーズをした。「いやあ。やりましたね!」「そうですね。うれしいです」予選突破。準決勝進出だ。 心底、本当にうれしい。満面の笑みでテレビのインタビューを受けた後、専門誌のインタビューも受ける。聞くと、後藤さんは10秒23の4着。本間さんは10秒18だったのに5着で予選落ち。悲しいかな、予選7組中6組で9秒台の決着となったようだ。後藤さんも本間さんもタイム的には素晴らしいのだが、全体的に速すぎだ。そんな中、予選突破できた。これはもう、胸を張ってもいいだろう…!「のぞみーん!」「お疲れさまーっ!」裏口からスタジアムの外に出ると、知香ちゃんと宝生さん、ミキちゃんが待っていた。知香ちゃん、宝生さんとハイタッチをして予選突破を喜び合う。僕のレース結果をこれだけ喜んでくれる人がいるというのは、とてつもなくうれしい。アスリート冥利に尽きるというものだ。「これで一気にファンが増えたんじゃない?」知香ちゃんがニヒヒと笑って、ぐいぐいとひじで僕を押す。「3人ぐらい増えたと思うよ!計6人」「ナニそのやけにリアリティのある数字」「宮城の龍は、伊達に二番煎じの飾りじゃないね!」うん。何を言っているのかさっぱり分からない。「まあでも、結局は前座なんだろうけどね」「前座?」「沙耶が出てきたら、星島君のことなんかみんな忘れちゃうでしょ」「よーし。目をつぶって歯を食いしばれ!」「専守防衛っ!」すかさずグーで殴られる。神様、いったい僕が何をしたというのでしょうか。手荒い歓迎か、運動不足解消のためか。知香ちゃんはフットワークを使いながらぽこぽこ僕を叩く。宝生さんも真似して2対1になる。適当にあしらいながらミキちゃんを見ると、少しだけ唇の端を持ち上げていた。「まあまあよかったんじゃない」お褒めの言葉をいただいて、僕は軽く頭を下げた。「ありがとうございます」「反省は後からにして、とりあえずダウンしてきたら?」「はい」世界の舞台で堂々の自己ベスト。しかも10秒13の好タイムでの準決勝進出。僕としては満点の内容だったのだが、天才から見たらそうでもないらしい。つまり、僕はもっと速く走れるということだ。以前もそんなふうに思ったことがあったが、それは間違っていなかった。ミキちゃんに付いていけば間違いない。こうなったらもう一生、付いていこう。絶対にそうしようと思った。(なんか、ミキちゃんにうまいこと操られてるなあ…)そう思ったけど、もちろん、悪い気はしなかった。

184話 男子100m予選第6組

8人の選手がぞろぞろと、通路を通ってレーンまで歩いていく。この組では本命のジャマイカの選手は4レーン。バハマの選手は2レーンで、僕は大外の9レーン。観客の視線にさらされるような気がしてちょっと苦手なレーンだ。無性にのどが渇いて、僕はバックからペットボトルを取り出して水分を補給した。それから大きく息を吐いて、いつもどおりスターティングブロックを調整した。ピカピカ光る、新品のスターティングブロックだった。軽く、出てみる。身体は軽い。いい感じだ。戻ってきて、心を落ち着かせながらスパイクを履いて丁寧にひもを結ぶ。いつもどおりのルーチンだった。ジャージを脱ぐと、いつもどおりのタイミングで選手紹介が始まった。(ふう…)いよいよ、スタートだった。僕は大きく、深呼吸をして目を閉じた。世界陸上初日、男子100m予選。3着+3。ついに、そのレースが始まる。(近っ)国際影像のカメラが、目の前で僕の姿を映す。「ノゾミン・ホシジーマっ、ジャッパーンっ!」どんな表情をすればいいのか分からなかったが、右手でガッツポーズをしておいた。レースに赴く前の杏子さんのガッツポーズがかっこよくて、それを真似たのだ。だけど、してから急に恥ずかしくなった。似合わないことはするもんじゃない…。「on your mark」始まる。スターターの合図でスタートラインにつく。9レーンなので、真横から撮るアーム型のカメラが僕のすぐそばにきた。緊張はさほどしていなかったが、何だかそんなことばかり気になって落ち着かなかった。浮ついているのかもしれなかった。狭い舞台に、乗せられてしまったような感覚。僕の世界はもはや、万華鏡を覗いているかのようにものすごく小さくなってしまっていた。だけど、徐々に静まり返っていくスタジアムのどこかで、子どもの泣き声が聞こえた瞬間。その瞬間に、世界がふわっと広がっていつもどおりに戻った。大丈夫。言い聞かせて、スタートラインに手を添えて、一つ大きく呼吸をする。ゴール地点を目視してから、頭を垂れる。いい意味で、頭の中は空っぽだった。「set」号砲とほぼ同時に飛び出すと、世界がまた急激に狭まった。リアクションはまずまずだった。軸をまっすぐに、斜め上へ飛び出すイメージ。スタートから序盤の加速は、自分でもよくできていると思った。足が軽かった。例の、オーダーメイドのスパイクもその機能を十二分に発揮しているように思えた。大事な大事な、加速フェイズ。一気に、トップスピードまでの加速を図る。重心移動。低く飛び出して身体を起こして前を向いたとき、僕の視界には誰の姿も映らなかった。いや、何かが見えているようで何も見えていなかった。悪くない。身体の動きはかなり切れているような気がする。追い風なのか、スピードにも乗れているようだ。確信はないけど、いまだかつてないスプリントをしている直感があった。(いけ、いけ…)中盤を過ぎても、誰も前に出てこなかった。ミキちゃんに口酸っぱく言われたとおりに、足が流れないように骨盤の下から前へ。バネのように足を回転させ、温存していたハムストリングスを使って爆発させる。内燃機関のようだ。身体を前方に押しやり、減速を最小限にとどめると、もうゴールが見えてきた。(……っ!)終盤、さすがに世界のトップアスリート、イン側の選手がぐぐっと前に出たのが分かった。それが1人なのか2人なのか、あるいは3人なのか、判然としなかった。とにかく誰かが前に出て、ほかの誰かと並ぶような形でのフィニッシュだった。

183話 舞台へ

杏子さんが手早くダウンを終えて、みんなでわいわいとスタンドに戻っていく。残ったのは、コーチ数人と僕と本間さんと後藤さん。それと女子1万mに出る選手だ。さあ。今度は、僕らの番だ。「ヘイヘイ、星島君」亜由美さんに呼ばれる。まあ、大体、用件は分かっているけれども。「あたしにもいっちょお願いね」「はあ」軽く、亜由美さんを抱きしめる。しばらく充電すると、離れ際に、ほっぺたに軽くキスをされた。少しだけ、亜由美さんは恥ずかしそうな表情だった。「サンキュっ」「が、頑張ってくださいね」亜由美さんが、軽く手を振って戦いの舞台に出かけていく。僕だってみんなと一緒に亜由美さんを応援したいが、もうすぐ出番だから仕方あるまい。「いいね、若いって」肩のストレッチをしながら本間さんが言った。「こっちは、星島君以外はおっさんばかり…」「おれだってまだ23歳ですよ!」後藤さんが言って、暗やみの中に男臭い低い笑いが響いた。ひたすら、丁寧にアップを続けていく。ドリルをして、息を弾ませつつ体を温めていく。テレビ局のアナウンサーと、ちょっとだけ話をする。サブトラックの外から声をかけてきたファンに、軽く手を振る。徐々に、出番が近付いてきていた。時間は凝縮され、空間は狭くなっていく。「よし。行ってくる」「ガンバ」「ガンバです」刻々と時が過ぎていって、いよいよ1組の本間さんがコールに出かけていった。もうすぐ僕も呼ばれることだろう。ついに、このときがやってきた。熱い夏の、集大成だ。「よし、おれもいく」「がんばです」後藤さんもスタジアムに向かっていく。サブトラックの人影は少なく、寂しい感じになってきた。雰囲気としては、どうだろう。深夜の高速のサービスエリアみたいな感じだろうか。スタジアムのほうからは、時折、歓声が聞こえてくる。風はほとんど吹いていなかったが、たまに肌を撫でる風は冷たかった。(……)無心で、オーダーメイドスパイクのピンを締め直す。調子はいい。うまく超回復にはまったのか、身体もよく動いていてコンディション的にはベストだ。客観的に見て予選突破は難しいと思う。だけど、負けるにしても、この大舞台で何かつかんで帰ってきたい。加納コーチの言葉じゃないけど、とにかく勉強だ。来年のオリンピックのためにも、何でもいいからたくさんの収穫を得て日本に帰りたい。経験をする。それだけではなく、その経験を肉化する。それが重要だ。「よし、そろそろいくか」「あ、はい」あっという間に、時間だった。鷹山コーチに付き添われて、サブトラックを出る。まだ、自分が今から世界大会のレースの走るんだという実感を得られていなかった。何だか夢の中の大地を歩いている感じで、感触がなかった。 だけど、最終コールを受けて。係員に誘導されてトラックの中に入ると、それらすべてが急激にのしかかってきた。スタンドで見る観客の多さと、トラックの上で見るそれとはまったくの別物だった。(うへ)これが、世界だ。実感して、僕は武者震いをした。別にびびったわけじゃない。中学生のころから、ずっと夢見ていた舞台。そこに立つことができて、まさしく言葉どおりの武者震いだった。

182話 援軍到着

ミキちゃんだ。サブトラックの外まで走っていって、僕は稲森監督とミキちゃんの話が終わるのを待った。ちょっと、忠犬みたいだったかな。新見と加奈と真帆ちゃんも走ってきて、知香ちゃんと宝生さんと一緒に踊りだす。この人たちは、オーストラリアまで来て何をしているんだろう。黙って見ていると、ひとしきり躍った後、ハイタッチをしあって笑顔を見せた。「あはははは」「あはははははは」ノリが、さっぱり分からない。しばらく黙って待っていると、稲森監督がサブトラックに戻っていった。ミキちゃんは白いキャップをかぶっていて、表情がよく見えなかった。何かこう、服装といい見た目といい、美人女優が一般人のフリをして変装してる感じ。「調子はどう?」いつもどおりの声にほっとする。覗き込んでみると、目が合ってミキちゃんは少しだけほほ笑んだ。長旅のせいか、ちょっと疲れているようだ。「ミキちゃん見たら元気が出た」「いやーんっ」小耳に挟んだのか、ぐいっと知香ちゃんに背中を押される。「いいんだよ。レース前だけど、ちょっとぐらいいちゃいちゃしてもいいんだよ?」「相変わらず元気だね」「まあね!」知香ちゃんがびしっと変なポーズを決めた。通りすがりの外国人選手2人組が、知香ちゃんを見て笑っていた。「コテージは、どうだったの?」聞いてみると、知香ちゃんは眉を開いてぽんと手の平を叩いた。「大丈夫だった!」「そっか。よかったね」「ちょっと遠いけど、広いし、わりときれいなところだったよ」代理店を通じてコテージを借りる契約をしたのだが、心配していたのだ。わざわざ現地に下見に来れるわけがないし。「立派なキッチン付いてるし、一流シェフがいるから、毎日ご飯が楽しみ!」知香ちゃんが無意味に飛び跳ねながら言うと、新見がしょぼんと肩を落とした。「選手村のご飯、美味しくない…」「美味しくないの?」「美味しくなさすぎ…」新見の言葉に、僕と加奈と真帆ちゃんも肩を落とす。僕らは別に、食い道楽の旅をしているわけではない。でも、せっかくオーストラリアくんだりまで来て、レトルトと作り置きが基本の学生協食堂を下回るものを食べさせられると、さすがにがっかりする。「早く日本帰りたいなあ」新見が言うと、加奈はコクコクとうなずいて拳を振り上げた。「帰ったら焼き肉行く!」「焼き肉か」「カルビ!牛タン!冷麺!」よだれを流しながら加奈は連呼した。世界陸上は開幕したばかりなのだが、早くもホームシックにかかってしまったようだ。この場合、フードシックというべきか。「姐さんの手料理、食べに来ればいいじゃないすか」宝生さんが言ったけど、新見が首を振った。「そういうわけにもいかないから」「じゃあ姐さん、お弁当でも差し入れしてあげたら?」宝生さんの言葉に、新見はぴくんと耳を動かした。「お弁当、食べたい!」そう言って、ミキちゃんにすり寄ってぎゅっと手を握る。 それからその手をぶんぶんと振り回して、ミキちゃんの体が振り子のように左右に揺れた。ミキちゃんはちょっと慌てた顔だった。「食べたい、食べたい、食べたーいっ!いいでしょ?ねえねえ、いいでしょ?」「わ、分かったわよ。分かったから」「わーい!」ミキちゃんの手を握ったまま、新見が万歳をして、それからぎゅっと抱きつく。 迷惑そうな顔をするかなと思ったけど、ミキちゃんは新見には弱いらしい。スキンシップがうれしいのか、まんざらでもなさそうな表情だった。

181話 メダル第1号

やがて、女子マラソンの選手が競技場に戻ってくる。現在、長距離の世界はエチオピアやケニアといったアフリカ勢の勢いがすごい。だからどうしても難しいと思われたが、鈴木沙織が頑張った。30キロ付近で先頭集団から離されかけたものの、粘って粘って3位でゴール。見事銅メダルを獲得したのだ。「充電っ、あれ、マジで効くかもっ!」選手たちが続々ゴールしていく中、興奮気味に亜由美さんが騒いだ。「だって、沙織さんとまおちゃんだよ、充電してもらったの!」銅メダルの鈴木沙織と、6位の高山奈緒美。上位の選手は、どちらも、僕が充電した選手だ。「偶然ですよ、偶然」「偶然かどうか決めるのはあんたじゃないっ!」亜由美さん、壊れちゃったかもしれない。大声で騒いで、周りの人の半分は苦笑い、残りの半分は興味津々といった感じだった。杏子さんは、何も言わずにアハハハと笑って手を叩いている。水沢さんは熱い視線。何というか、もう、好きにしてください…。「今日、絶対、レース前に充電してもらうからね!」「はい…」女子マラソンが終わって、午後になる。日本チームとしては、最高の滑り出しだ。明るくおしゃべりしながら、いったん選手村に戻って食事をとる。1時間ほど休憩したけど、午後のセッションは19時からなのでまだだいぶ時間があった。男子100mの予選は、20時45分から。こんな遅い時間にレースをしたことはない。だけど、オリンピックや世界陸上では大抵このくらいの深い時間になる。その点でも、調整は難しい。「そろそろ、行こうか」「はい」16時過ぎ。選手と指導陣がロビーに集まって、ぞろぞろと競技場へと向かう。微風。白い雲が空を走っていて、気温はさほど高くはなかった。まだだいぶ時間はある。のんびりサブトラック内を歩いたり、ストレッチをしたり。おしゃべりをしながら徐々にエネルギーを体内に蓄えていく。各国の選手が、色とりどりのジャージでそこかしこにたたずんでいる。それを見ただけでも、何だか妙に緊張感が高まってくる感じだ。「スタートリスト、出たぞ」日が落ちて、サブトラックの照明が点灯したころ、加納コーチが戻ってきた。予備予選の結果を受けて、予選の振り分けが終わったらしい。「どれどれ」関係のない杏子さんが受け取って、それをみんなが覗き込む格好。目で追っていくと、本間さんが1組、後藤さんが3組、僕は6組といった感じだった。6組の選手は、と見ると、シーズンベスト9秒台が2人。ジャマイカの選手とバハマの選手だ。それぞれ、世界大会でよく見かける名前である。トップアスリートと呼んでも過言ではないだろう。金メダルはともかく、決勝でも上位を狙える選手だ。それから10秒09が1人、10秒14が1人。シーズンベストで見ると僕は5番目といったところだった。「うーん。死ねる…」後藤さんの入った3組には、優勝候補、アメリカのギルバート・ガードナーがいる。さらに、ジャマイカのダミアン・ロドリゲスもいた。予選は3着+3なので、2人が抜けて当確になってしまうと残りは大変だ。  もっとも、日本の選手に限っての話ではない。楽な組などどこにもないのだ。どの組にも持ちタイム9秒台は2人以上いるので、予選突破はかなり困難なのである。ジャマイカの選手だって、アメリカの選手だって、準決勝に残るのは簡単ではない。「勉強だぞ。勉強勉強」加納コーチが手を叩きながら言った。それから、ありがたいお説教。特に真新しい話でもないし、無駄に熱くて長かったので割愛。要するに何事も勉強だぞ、ということだ。「分かったか」「はーい」「はーい」皆、返事はいい。別に、聞き流しているわけではない。コーチを軽んじているわけでもないのだが、暖簾に腕押しという気分になったのだろう。加納コーチが鼻白んだところで、新見が立ち上がってぶんぶんと手を振った。「知香ちゃんきた」「お」見ると、サブトラックの外で、知香ちゃんと宝生さんがこっちを見て踊っていた。その横で、帽子をかぶった美女が稲森監督と何か話している。遠目に見ても、風になびく長い髪がとてもきれいだった。

180話 競技開始!

さて。いよいよ開幕する世界陸上。我が日本チームにおける注目選手は、第一に男子円盤投げの室井和史33歳だ。前回の世界陸上では銀メダル。その前のオリンピックは金メダル。今シーズンも世界ランキング2位。ぐりぐりのメダル候補だ。あとはぐっと下がって、女子マラソンでメダルがとれるかどうか微妙といったところ。そのほかの種目は、8位入賞できれば上等というのが大方の予想だ。一応、日本陸連が目標としているのは、メダル2、入賞5である。「ファイトーッ!」その目標が達成できるか否か。大きな鍵を握っている女子マラソンが、午前9時にスタートした。競技場からのスタートを、大きな声を挙げて見送ると、とりあえずは暇になる。男子十種競技や男女100mの予備予選が行われるが、日本チームからは誰も出ない。「ミキちゃんたち、何時ごろ来るの?」新見に聞かれて時計を覗き込む。「12時半に着くって言ってた」「そっか。直接来るのかな?」「たぶん。迎えに行こうかな」何の気なしに言うと、前の席に座っていた加納コーチがぐるっと振り返った。慌てて、新見が僕の口を手でふさいでぶんぶんと首を振る。「冗談です。どこにも行きません。もう、陸上一筋」新見が言うと、加納コーチは無言で前を向く。遊びに行くわけじゃないからいいじゃないかと思っていたけど、そういうのも駄目らしい。まあ、彼女とイチャイチャしてるように見えるからね。実際、そうだし…。「誰来るんだっけ」亜由美さんが聞いてきたので、僕は何となく小声で答えた。「えと、ミキちゃんと知香ちゃんと宝生さんと、金子君」「ふうん。大丈夫?男の子まざってて」「大丈夫」「金子君も男の子だから、危ないよ?」「いや、あのメンバーだし大丈夫でしょ」「いやいや。男ってのはねえ…」ふっと、達観したようなため息を亜由美さんは吐いた。もちろん、僕も男だからまあ分かる。でも、今回は金子君が若干気の毒のような気もする。代わってあげたいような、絶対に代わりたくないような感じだ。あのメンバーだからねえ…。「星島は、予選突破できそうなの?組み合わせ的に」女子マラソンをオーロラビジョンで見ていると、杏子さんに聞かれた。今日は午後のセッションで、女子1万m決勝がある。それと、男子100mの予選と、女子400mの予選も。「まだ組み合わせ出てないんですよ。100mは予備予選あるから」「ああ…」一瞬、杏子さんは納得しかけたが、「予備予選って何であるの?」とさらなる質問をぶつけてきた。 予備予選は、分かる。予選の前にある予選だ。しかしなぜあるかと聞かれると、ちょっと自信がない。ミキちゃんがいたらミキちゃんに聞けばいいんだけど、いないので答えようもない。なので、黙っていると、代わりに本間さんが答えてくれた。「普通なら選手団0人の国あるだろ。太平洋の島国とか、スポーツが盛んでない国。誰も標準記録を突破できなくて、選手を参加させれない」「うん」「そういう国は、男女1人ずつ、好きな種目に選手派遣できるんだよ」「ほー」「それで、別にマラソンでも棒高跳でも何でもいいんだけど、お手軽に100mに代表を送る国が多いわけだ」「ふんふん」「そういう人たちで予備予選をやって、上位の選手が予選に進む」「何となく分かった。つまり、俊ちゃんはそろそろ出番なんでしょ。予備予選の」「全然理解してないじゃん!おれは、シード選手!」後藤さんがでたらめを言ってみんなが笑う。後藤さんと杏子さんのおかげで、短距離チームはいつも明るい感じだった。

179話 開幕

翌朝、僕は5時半に目を覚ました。「んー…」あまり上手に眠れなかったが、いよいよ、世界陸上開幕だ。ついに、勝負の日がやってきた。んが、男子100m予選は20時45分からなので、こんな早起きしても意味がない。本間さんや後藤さんは、まだ眠っている。ベッドの上で伸びをして、もうちょっと寝ようと思ってごろごろしたけど、脳が目覚めてしまったのか眠れなかった。欠伸をしながら体を起こし、ゲームでもしようとスイッチを入れたけど、一人だと面白くなくてすぐに飽きて、僕はもぞもぞとベッドから脱出した。(うーん)寝起きだけど、お腹が空いた。散歩がてら、コンビニでも行こうかと思ったけど、ここは日本ではないことを思い出した。ブリスベンは治安がいいとは聞くけど、それでも日本と比べたら気分的に怖い。早朝だろうが深夜だろうが、1人で出歩けるのは日本くらいなものだろう。「お腹すーいた、お腹すーいた」加奈の真似をして歌いながら部屋を出る。6時ころに食堂が開くかもしれない。あくびをしながらエレベーターで一階まで降りていったんだけど、既にけっこうな人数の選手が食事をとっていた。午前中のセッションに出る選手だろう。食事は、基本的に無料。ヴァイキング形式でいろいろな料理が並んでいて、注文すれば出してくれるものもある。「おはようございます。これを、ください」4番のカウンターのところで、無表情の女の子にメニューを指差してチキンサンドみたいなものを注文すると、無言で番号札を渡される。ミキちゃんみたいだなと思った。「オープンは、何時ですか」「open for 24 hours」「大変ですね。ありがとう」そこまで言うと、やっとちょっとだけえくぼを見せる。コーヒーを入れてトレーに乗せてしばらく待っていると、番号を呼ばれる。チキンサンドをゲットしたぞ。それから、洋梨があったので一つ選んで、チョコケーキと目が合ったのでトレーに乗せた。一人暮らしではできない豪華な朝食だ。まあ僕の場合は、ミキガミサマがいるからあれだけども。「…しじま君、星島君」誰かに呼ばれて、キョロキョロと探すと、奥のほうに亜由美さんの顔が見えた。手を振って呼んでいる。トコトコと歩いていって、遠慮がちに隣に座る。女子マラソンの鈴木沙織と高山奈緒美がいて、ニコニコと僕を見ていた。女子マラソンは朝9時にスタートだから、もうすぐだ。「おはようございます。早いですね」「4時に起こされた」「星島君はなんでこんな早いの?」「あ、何か目が覚めちゃって」軽くおしゃべりしながら食べる。 洋梨は大味でいまいちで、チキンサンドも微妙だった。夕べ、前回のオタワ世界陸上の選手村の食事は美味しかったのにと、本間さんがため息まじりで言っていた。今回はハズレらしい。「チョコケーキ、美味しい?」鈴木沙織が覗き込んで言う。「まあまあ。レース終わったら食べてください」「そうしよ。ね、星島君、充電ってのしてもらっていい?」「あ、あたしも!」女の子からこんなふうに言われてですよ。駄目ですとか嫌ですとか、断ることができますでしょうか。むろん、断ることもできず、食堂を出たところの柱の影で2人をぎゅっと抱き締めた。もちろん、こんなことをしてもどうならないと思う。だけど、プラシーボ効果というものもあるし、とにかく頑張ってほしいと思った。

178話 開幕前夜

しばらくすると、料理が次々と運ばれてくる。 「お、きたきた」豆のスープとパン。パンもうまいが、スープがやたらとうまい。前菜が、なんかごちゃごちゃっといっぱい。キャベツにヨーグルトみたいなのがかかったサラダ。ほうれん草にヨーグルトがかかったやつ。それとピリ辛のミックス野菜。豆をオリーブオイルで炒めたやつ。なんか、豆、ヨーグルト、野菜みたいな感じ。全体的にヘルシーな感じだが、けっこううまい。「いけるね」と新見。食いしん坊のお墨付きが出ました。そのあと、春巻きとピザ、トマトとヨーグルトで煮込んだ水餃子。おまちかねのケバブ、ピラフが出てくる。満腹になったところで、デザートのトルコアイス。最後にチャイで〆て終了。「美味しかった!」「ごちそうさま!」どれが飛びぬけてうまいというわけではなく、全体的に満遍なくうまい。これは、いいかもしれない。トルコ料理、くるかも!マイブームになるかも!社長にごちそうになって、みんなニコニコ顔で店を出る。当の社長は、スープがお気に入りのようだった。「スープ、うまかったよね」「あ、美味しかった!」 加奈が手を挙げる。笑顔で、新見も手を挙げて、水沢さんも手を挙げる。やっぱりみんな美味しいと思ったらしい。「あれ、ミキにつくれるかな?」「うーん、トルコ料理はどうだろ…」「まあでもパンは難しいか。どっか日本でうまい店探したほうが早いかもね」自己解決して、杏子さんはうーんと背伸びをした。「さあ、帰ってビール飲も!」杏子さんは馬鹿じゃない。いくらなんでも外で酒をかっくらっていたらまずいので、お酒は我慢していたようだ。「一杯だけビール飲んで、ごろごろしようぜい」「いいですねえ」「7時ごろになったら前夜祭ちょろっと見にいこか」「さんせーいっ!」みんなが声をそろえる。浅海軍団は、独裁者がいて旗振りがはっきりしているから楽だ。集団にありがちな、どうしよう、ねえどうしよっかみたいなのが一切ない。「夜は、お酒は飲まないよ!」「そうですね」「今日は、飲まないからね!明日はレースあるんだから」「うん」「我慢だよ。お昼に一杯だけだからね!」めちゃくちゃ飲みたそうで、みんなで笑ってしまった。いったん選手村に帰り、みんなで杏子さんの部屋に集まってごろごろする。当然、焼肉だ。おみやげのケバブを食べながらビールを1本だけ飲んで、ゲームで肉を焼く。つかの間の、休息だ。それで、本当に夜までごろごろして。前夜祭に行って一通り見て、戻ってきて、大人しくベッドへ。眠れる気がしなかった。いよいよ、明日なのだ。全く眠れる気がしなかったが、僕はすぐに眠りに落ちていった。

177話 開幕前日

金曜日。世界陸上開幕前日。いよいよ明日、開幕ということで、ブリスベンはお祭りのようなムードが漂っていた。テレビや新聞も、世界陸上一色。各種目のメダル予想、注目選手の動向などが取りざたされている。「はい、お疲れさま。短距離チームは、午後はオフ」午前中いっぱい体を動かして、に選手村に戻ろうかというところで加納コーチが言った。誰からともなく、拍手が起こる。別に拍手するようなことでもないのだが、僕もつられて手を叩いてしまった。「だからといってはしゃぎすぎないこと」「はーい」「外出するときは必ず言うこと」「はーい」「無断外出して、カジノに遊びに行って、次から代表に呼ばれなくなったやついるの知ってるな?」「はーい…」理屈としては、オフなんだから何したって自由なわけ。だけど、派手に遊んでたら、気に食わないって文句をいう人がいっぱいいるわけ。それって単なる難癖にすぎないわけ。だから理屈を振りかざして反論してもいいんだけど、それだと疲れるわけ。わざわざ、競技外のことで集中を乱される必要はないわけ。そんなようなことを、出発前にミキちゃんに説教いただきました。要するに、脇を締めていけってことかな。「まあ、食事くらいならいいだろう。変なもの食べるなよ。特に前原は買い食い禁止」「ぎゃふーんっ!」名指しで言われて、加奈はばたんと芝生の上にひっくり返った。みんな笑っていたけど、加納コーチだけ笑っていなかった。もしかすると本気だったのかもしれない。食べすぎでお腹痛くなったとか、加奈だといかにもありそうだからだ。「ほしじまーん」サブトラックを出て。選手村に向かって歩いているときにわめいて飛びかかってきたのは、杏子さんだった。すぐ後ろにいたようで、どすーんと僕の背中にぶつかってくる。いつもいつも思うんだけど、転んでケガでもしたらどうするのか。「ご飯いこ」「いいですけど。どこ行くんですか?」「それは、男が調べて連れてくもんでしょ」「うーん。そういうのは自信がないなあ…」「自信あるのはエッチだけか」「えーい、毎度毎度めんどくさい!」ペシンと軽くチョップをすると、心底、杏子さんはうれしそうに笑顔を見せた。つっこまれたのがうれしかったらしい。ちょっと、可愛いなと思った。「コーチに言わないと?」「許可とった。ね、コーチ?」後ろを振り返ると、加納コーチがまじめな表情でうなずいた。「食事して、土産物屋の1軒とか2軒とか、そのぐらいにしとけ」「はーい」いや、千晶さんや新見や水沢さんはともかく。杏子さんや加奈と一緒に回るのは、ちょっと骨が折れそうかも。何だか、遠足の引率の先生の気分が分かったような気がした。「さー、行くよ!千晶、どこ行くか決めた?」「はーい」やっぱり、千晶さんの役目らしい。いったん選手村に戻って、僕らはブリスベンの街に繰り出した。先頭は、ガイドブック片手の千晶さん。はなはだ不安ではあるが、一応、僕が通訳的な立場でその横に立つ。「何食べるんですか?」聞いてみると、千晶さんはガイドブックを指差してみせた。「トルコ料理!」「トルコ料理」みんなニコニコとしている。女子の間では既にコンセンサスが取れているらしい。杏子さんも文句1つ言わず、ストリートに並ぶ店をきょろきょろと見回している。「世界三大料理ですね」 ぴったりと僕に寄り添って、水沢さんは笑顔を見せた。ときどき、肩がこすれあう。「世界三大料理っていうと…」「トルコ料理と、フランス料理と中華料理です」 「トルコ料理ってどんなの?ケバブとか?」「どんなのと言われると難しいですけど」「食べれば分かるっ…!」言いながら、杏子さんがどしんと突進してきた。ミキちゃんがいないので、ここぞとばかりに腕を絡ませてくる。「ご飯食べて、おやつ買って帰ってビール飲みながらごろごろしようぜい」「今、杏子さんが珍しくいいこと言ったっ…!」「もちろん星島のおごりでね!」「そんな、社長~」「社長って言うなあっ!」テンション高く、ブリスベンの街を歩いていって、少し迷い、トルコ料理の店に到着。わざわざオーストラリアまで来てトルコ料理とか思うけども…。「あー、シックスパーソン」少々混んでいたが、僕の鮮やかな英語で問題なく座れた。トルコ料理なんて初めてで、何を頼んでいいのか分からない。なので、コース料理にしようということで、みんなで豪華なイスタンブールコースを注文。お一人様38ドル。日本円で4千円弱といったところだ。ちょっとお高いが、社長がごちそうしてくれるらしい。もう、杏子さんには一生ついていくっ…!

176話 女王との邂逅

一方、女子100mの予想は簡単だ。大本命は、褐色の弾丸、クリスティアーネ・ベッカー。26歳になり、油の乗っているベッカーの一人旅でまず間違いない。去年のダイヤモンドグランプリでは、圧巻の7戦全勝。年間チャンピオンに輝き、陸上競技の年間最優秀選手にも選ばれた。今はちょっと、負ける姿を想像できない感じだ。「あ、ベッキーだ」見つけて、加奈が言った。それだとちょっと、あれな感じの別人になってしまう気がする。「おしゃべりしてこよっと」そう言って、まさに駆け出そうとした加奈の首根っこを、加納コーチが慌てて捕まえる。ミキちゃんがいないぶん、誰かがしっかり手綱を握っていないといけない。頑張れ、48歳!「うゆ?」当の加奈はきょとんとした表情だった。「おしゃべり、駄目。練習」なぜか片言の加納コーチ。それはちょっと違うぞ、48歳…。「おしゃべり、ちょっとだけ?」「駄目。昼ご飯、抜き」「じゃあ、練習…」加奈が肩を落とす。よく分からないが伝わったようだ。向こうもチームで動いている状況なので、押しかけていっても迷惑だろう。その後、僕らもチームで動く。軽目の調整なので無理はしない。意外と試合前の練習でケガをしたりする選手が多いのだ。目的は、今の状態をキープすることなので、無理は禁物だ。「ハーイ」しかし、午前中、大過なく過ごして昼食に戻ろうとしていたときだった。バックを背負ってサブトラックを出ると、ベッカーのほうからコンタクトをとってきた。数人の取材陣を背負っている。しかも、ベッカーが声をかけたのは、ほかの誰でもなく、この僕だった。思わず、慌てて周りを見回す。後ろの誰かに声をかけた…、わけではないようだった。どう見ても、視線が僕を向いている。「ミー?」自分を指差してみると、ベッカーは白い歯を見せて笑った。「イエス。ミキのスペシャル、そうよね?」「ウ、ウイ」なぜかフランス語で答えながら、僕は慌ててうなずいた。少し離れたところで、日本チームの選手たちが物珍しそうに見物している。さっきはおしゃべりしてくるとか言っていたのに、加奈も近付いてこない。なんかビビってるみたい。「英語できる?」「ちょ、ちょっとだけ」「ミキはどこ?まだ来てないの?」非常に分かりやすく、しゃべってくれる。それなら何とか。中学生レベルだし。「ええと、彼女は、昼に来ます、あさっての。飛行機で」「OK、あさってね。ええと、彼は今、注目の日本人スプリンターの一人よ。名前は確か、ノゾミン」「ノゾミン?」「ノゾミン…」ベッカーに説明されて、周囲の記者やテレビクルーが慌ててプログラムをめくる。日本国内ならともかく、世界的に見たら僕などまったくの無名。いくら専門の記者とはいえ、知っているわけがない。僕らがエジプトのスプリンターの名前などまったく知らないのと同様だ。「今回の日本チームは侮れないわ。特にカナッペと、この間、日本記録を出したサヤはね」ベッカーが言って、取材陣がざわつく。「サヤなら知ってるぞ。ニミだ、サヤ・ニミ」事情通らしく、はげ頭の記者が言った。「誰だ?」「このあいだニュースになっただろう。日本記録、11秒14を出した」「知らないな。それがヌミ?」「そうそう」「カナッペというのは?」「クラッベなら知っているが」「オー、知ってる!オレが日本にいたとき、よく食べていたアイスクリームだ!」「それはパナップじゃないのか」「変な名前だな」「しかし、なかなかにうまい」例えばの話。僕が、パナップってやっぱりグレープが一番美味しいよね!などと杏子さんあたりとくだけておしゃべりするのとは発言の重みが違う。女子100mの女王が、記者たちの前で、日本人の名前を挙げて侮れないと言ったのだ。普段から、アンテナを張って選手の一挙手一投足に注目している記者の人たちが、その言葉を聞き逃すわけもない。「あった。これじゃないか、カナ・メーハー」記者の一人がプログラムを示して、数人が覗き込む。何となく滑稽な様子だ。「カナ・メーハー?」「日本人にしてはでかいな。187センチ」「ベストは、11秒2台か」「大したことはないように思えるが」「タイムでは分からない底知れない部分があるということ?」「そのとおり。不気味な存在よ」ベッカーがうなずく。カナップじゃないし、カナッペと呼んでいるのも宝生さん一人のような気もする。しかし、記者たちはすっかりベッカーの言葉を信じ込んでしまったようだった。恐らく、クリスティアーネ・ベッカーの目に映っているのは加奈や新見ではないはずだ。かつて、世界ユースで、内側から飛んできた中学1年生の女の子。長谷川美樹の影が、加奈や新見の姿を必要以上に大きく見せていたようだった。

175話 足技を出さないので本気ではない

翌、木曜日は雨。ブリスベンの冬は、乾燥していて雨が少ないようだ。降水量は絹山市の半分くらいで、9月の日中の平均気温は25度前後。運動するにはちょうどいいくらいで、マラソンなどは行いやすいかもしれない。「お。晴れてきたんじゃないか」朝食を食べて部屋で休んでいると、晴れてきたようだった。本間さんがベランダに出て空を見上げる。僕もベランダに出てそれに倣ったけど、雨雲は遠く彼方へと駆け抜けていったようだ。「準備しておくか」本間さんがイヤホンを外しながら言う。弟の本間秀二もそんな感じだけど、兄もいつも何か聴いている感じだ。弟と同じく、何か、本間さんは独特の世界を持っている。雄弁ではないが、後藤さんとはわりと仲がいいようで、けっこうおしゃべりしている。「さ、いこう」すぐに電話が鳴って、8時半出発という連絡が来た。5分前に降りていくと、もうみんなそろっていたので出発する。何だか人が増えているなと思ったら、いつの間にか、長距離のメンバーも合流していた。初日に行われる女子マラソンの選手、それから女子1万mの選手だ。「亜由美さん、おはようございます」「あ、おはよ」歩きながら、亜由美さんにあいさつをする。将来の女子マラソンメダル候補だが、今大会でも頑張ってほしい。「星島君、あとであたしも充電お願いね」こっそり、亜由美さんが笑顔で耳打ちしてくる。あいまいに笑っていると、長距離の女の子が数人、口を挟んできた。「充電って何?」「あ、知ってる!充電でしょ」「何それ?」「うんとね、星島君にぎゅってしてもらうといい記録が出るんだって」「へーえ」僕は思わず赤面した。もうこんなところまで話が伝わっていたとは想像もしていなかった。「それでね、キスするともっといい記録出るんだって」「うっそーっ!」「ほんとほんと。沙耶ちゃんとはエッチまでしたんでしょ?」「キャーッ!それであの記録!?」その場にいた全員が新見を見る。いきなり、自分に話が回ってきたので、相当慌てたのだろう。新見はぶんぶんと手を振って否定した。「にゃ、ないですないです」「ホント?怪しいってみんな言ってるよ」「ないですよ、全然。手もつないだことないよね」「うん。全然」慌ててコクコクとうなずく。日本が誇る新見沙耶だ。変な噂が出ては困る。「それに星島君、彼女いますし」「いーや、彼女がいたって平気な男は大勢いる!」「カーッ…!」誰かの言葉をきっかけに、いきなり亜由美さんが叫んで女の子たちをチョップし始めた。「しまった!あゆの古傷を…っ!」「フォーッ…!」亜由美さんが暴れ出した後ろで、杏子さんがうれしそうに笑いながら手を叩いていた。やはり、この人の仕業のようだった。やいやいやりながら競技場まで歩いていく。雨上がりのサブトラックで、今日も各国の選手が体を動かしていた。サブトラックの向こう側に、アメリカチームがいる。かつては短距離王国と言われ、世界大会でメダルを量産してきた国だ。しかし、最近の没落ぶりは見ていて悲しくなるほどである。前回の世界陸上では、個人種目での金メダルはゼロ。辛うじて、銀メダルが1つ、銅メダルが2つあっただけである。かつての有力選手は、半分はドーピングで、半分は年齢とともに消えてしまった。今、世界のスプリントの主力はカリブに移っている。ジャマイカ、トリニダード・トバコ、バハマ…。「お。ガードナー」アメリカチームの一人を、後藤さんが目ざとく発見した。ギルバート・ガードナー。短距離王国の復権をかけてアメリカが送り出してきた、23歳の若武者だ。ガードナーは、今年の4月、いきなり9秒78を叩き出して脚光を浴びた。前回の世界陸上では決勝7位。特に目立った存在ではなかったのだが、一気に急成長して、このまま世界のトップに駆け上がろうかという勢いだ。「今シーズン、ガードナーと走ったけど、あれはすさまじいな」「そうっすね。加速がすごい」本間さんと後藤さんが雲上人の会話をする。「ダイヤモンドグランプリ呼んでくれないかな」「200mなら呼んでもらえますかね」「だといいけど」すごい話をしているなあと思いながら聞いていると、おなじみの、赤と黒と黄色のジャージがサブトラックに入ってきた。カリブを代表するスプリント王国、ジャマイカだ。その中心は、男子100m世界記録保持者のキングダム・テイラーであろう。今年で31歳。年齢的に、あるいは最後の世界陸上になるかもしれない。来年のオリンピックまでで、区切りをつけるはずだというのが大方の予想だ。メディアの予想では、好調のギルバート・ガードナーが有利。キングダム・テイラーが、レコードホルダーの意地でそれを迎え撃てるか。大体、そんな感じである。伏兵として、ジャマイカの小兵、ダミアン・ロドリゲス。それと、村上道場メンバーにはおなじみ、ビデオで散々研究したトリニダード・トバコのクインシー・ロジャースの名前も挙げられている。男子100mの状況は、概ねそんなところだ。