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最終話 対角線に薫る風

朝、二度寝していると、ミキちゃんがやってきて耳元でごにょごにょ言ってきた。もうちょっと寝たいので、寝返りを打って顔をそむけたけど、まだ何かつぶやいている。いつまでも何か言っていて、それでも我慢して寝ていると、ペチンとおでこを叩かれた。手が出るのは、怒り始めてきた証拠だ。仕方なく、僕は大きく伸びをした。「はうーん…。キスしてくれたら起きる」「はい」キスされる。ぎこちないキスだ。何かいつもと違う。あれっと思って、目をごしごしして見ると、ミキちゃんではなく水沢さんだった。笑顔で僕を見下ろしている。「あ、ごめん、ミキちゃんと間違った…!」「起きてくださいね」「起きました起きました」「うふふ」水沢さんは優しく笑って寝室を出ていった。僕はもう、完全にノックアウトされて、ばたんとベッドの上に倒れこんでしまった。しばらくしてから、おそるおそるリビングに顔を出すと、いつものメンバーがいた。新見に知香ちゃんに聡志、それと水沢さんと真帆ちゃんだ。「うはよう」「おはーっ」「おはようございます」キッチンではミキちゃんが何かつくっていて、加奈がそれを覗き込んでいる。「ミキさん、あたし大盛り…、いや特盛りで!」「分かってるわよ。座ってていいから」「えへへ。待ちきれなくてお腹がぐーって!」「いいわね、いつも快食で」今日は、卒業式だ。ミキちゃんがつくってくれたパスタを食べて、準備をする。女性陣が着物を着ないので、準備は比較的早いはず。ミキちゃんと新見と知香ちゃんと、3人で寝室にこもってちょっと化粧をするぐらい。1時間…、2時間くらい?「星島さん、引っ越しはいつなんですか?」待っている間、水沢さんに聞かれた。「え。おれ?ここ?」「星島さんのアパート」「あ、一応、あさってに寮に入る予定」「私、お手伝いしますね」「いや、平気だよ。そんな荷物ないし」アサミACの練習拠点として、今年から、絹山大学を使えることになった。それで、杏子さんが名古屋のマンションを引き上げて絹山に戻ってくる。ミキちゃんはここを出て、アサミACの寮に引っ越すことになったのだ。僕も、そこに入る。千晶さんも亜由美さんも一緒だ。ここからすぐ近くだし、絹山大学にも近いし、便利だと思う。「私も早く、寮に入りたいなあ」水沢さんがそんなふうに言った。「うん…?」「公私ともに、星島さんと一緒にいたいです」「あーもうっ、いちゃいちゃすんなっ!」聡志がティッシュをちぎっては投げ、ちぎっては投げ。まあ、気持ちは分からなくもないです。そうそう。僕の近況をちょっとだけ。世界陸上が終わったあと。最後のインカレにて、僕は当然、決勝進出。そして鮮やかに、14秒56の8着と大活躍した。いや。夏場の疲労がたたってレース後半に足を痛め、歩くようにゴールしたんだけど、8着の1点のために頑張ってゴールしたのだから、そこは褒めてほしいところだ。幸い、加奈と同じく軽度の肉離れ。それから数週間で競技に復帰できたのだが、そのころには調子を落としてしまっていた。シーズン後半は、散々だった。来年はオリンピックなので、うまく来シーズンにつなげたかったんだけど、仕方ない。ちなみに、今年のインカレの覇者は本間秀二で、10秒22だった。これでインカレ連覇。国体では、向かい風0.4mなのに10秒08の自己ベストをマークした。来年以降のライバルになってくるのは間違いない。新見は、ダイアモンドリーグに初参戦して11秒16で4位。その後、危なげなくインカレを制覇し、国体でも優勝を飾った。シーズン最終戦の静岡では11秒09の日本記録を樹立。来シーズン、加奈との勝負が白熱することは間違いない。もちろん、オリンピックも楽しみだ。千晶さんは、オリンピックは200mを中心に狙っていくそう。100mでスピードがついたので、本業のほうも期待が持てる感じだ。それと、これが世界陸上以後の最大のニュース。なんと!水沢さんが写真集を出しました!むろん、僕も買いました。「何か、引っ越し祝い贈りますね」水沢さんが言ったけど、僕は慌てて手を振った。「いやいいよ、そんなの」「でも、いつもお世話になってますし、私が頑張れるのは星島さんがいてこそですから」「だからそれは、水沢さんの実力だってば」「いいえ。違います」水沢さんは断言して僕の手をぎゅっと握り、目を覗き込んだ。「絶対、星島さんのおかげです」「は、はい…」いつもの、無限ループだった。「お待たせ。いきましょう」しばらく待っていると、寝室から3人が出てきた。普段、3人とも化粧などほとんどしないのに、今日はばっちり決まっていた。知香ちゃんも新見もかわいくて素晴らしかったんだけど、やっぱり、こんなふうにいうのはあれだが、ミキちゃんが最高だった。「わー。村上さん、すごいきれい…」素直な感想を真帆ちゃんが言って、知香ちゃんにちょんまげをつかまれる。「あたしらはスルーなわけ?」知香ちゃんがぐりぐりとちょんまげを引っ張ると、真帆ちゃんは慌ててじたばたとした。「ピョーッ!お、お二人はわんこ系です!」「にゃんこと言えば」水沢さんが表情を明るくする。誰もにゃんことは言ってないぞ。「寮に入ったら、毎日、モモちゃんに会えますね」「自分で飼えばいいのに。にゃんこ」「うーん。それも考えてるんですけど…」水沢さんは言葉を濁したけど、きっと飼うことになるだろう。最近、絹山駅前にできた猫カフェに通っているらしいし。「さて。行こか」「はーい」女性陣の1時間半に対して、僕は5分でぱぱっとスーツに着替えて準備完了。みんなでマンションを出た。3月末。春の風がかすかにミキちゃんの髪をなびかせて、草木の匂いがどこからか漂ってきていた。なだらかな坂を歩いていって、絹山大学に到着。駅のほうから続々と人が歩いてくるのが見えた。時々、見知った顔が見えて、声を掛け合いながら移動。水沢さん、真帆ちゃん、加奈と学生協前の広場で別れて、僕ら4年生は体育館へ向かった。卒業式だ。偉い人の、どうでもいい話を聞く。それが終わって広場に戻ると、カーテンコールだ。陸上部の後輩がみんな集まっている。「卒業おめでとうございます!」「おめでとうございまーす!」キャプテンの本間君が一人一人に記念品を手渡す。ちょんまげ真帆ちゃんも二枚目水沢さんも、ポニーのマネージャー詩織ちゃんも。高校の後輩織田君も、おべっか金子君も。金髪宝生さんもそのほかのみんなも、陸上部はみんな笑顔だった。不思議と涙はなかった。ほかのサークルには大泣きしている子がいっぱいいるのに。邪魔なやつらがいなくなると思って、喜んでいるのかもしれない。まあそういうのは、昨日の納会で発散したしね。「星島さん、写真一緒に撮ってもらっていいですか」どこぞの、見たことがない子に言われる。世界陸上以降、たまにそんなことがあったので、ちょっぴり慣れていた僕は快諾した。それがまずかったのか、どどっとたくさんの人が集まってくる。「星島さん、あたしもお願いします!」「世界陸上、しびれました!」「サインください!」「あ、あたしもお願いしとこっと」「売れるかもしれないしね」「えー、でも色紙代のほうが高そう」「だよね、新見さんにしとこ」「星島のくせに生意気だ!」「ぶっちゃけ、運がよかっただけだろ」「死ねばいいのに」「誰あれ?」まあ言うほどではない。全部で20人くらいだったのだが、ちょっとだけ有名人気分を満喫する。サッカーの日本代表だったら、こんなもんじゃないんだろうなあ。そう思いながらも大きな花束を2つもらって。そのほかにもプレゼントをもらって、僕の両手はいっぱいになってしまった。うれしくて頬を緩めていると、水沢咲希ファンクラブ初代会長、藤崎小春がやってきてネクタイをくれた。「卒業できるんだ。おめでと」「あ、ありがと」実は、冬にみんなで一緒に温泉に行って、何となく和解。その流れで、ちょっとだけ仲良くなったのだ。「夏、夏はあれでしょ」ひそひそと、藤崎小春が密談を持ちかけてくる。「夏は浅海さんの別荘に行くんでしょ」「うん。行くと思う」「あたしも、あたしも!」「OK。ゴールデンウィークも何かやると思うけど」「く、詳しく決まったら教えて!」「了解!」ぐっと親指を差し出しあう。何だか妙な関係だが、これはこれでとにかくよかった。 しばらくだらだらとしてから、みんなでトラックへ。新見は僕の10倍ほどのプレゼントをもらっていて、とても一人では持てないので、後輩たちがせっせと運んでいる。どうやって持って帰るつもりだろう。「卒業しても、そのへんうろうろすると思うけど」てくてく歩きながら、新見が笑った。「なんだ、卒業したと思ったのにまだいるよ、とか思われないかなあ」「確かに。それはちょっと嫌だ」「だよね」「今後はひっそりと生きていこう…」「あははは。アサミACでもよろしくね」「あ、うん。こちらこそ」にこにこしていると、後ろから頭をごつんとやられた。「ふんっ。調子に乗りやがって」「ペッ。とにかく腹立つ」振り返ってみると、後ろで、聡志と十文字が毒づいている。どちらに殴られたのか分からないが、新しいコンビを結成したようだ。「お前ら、さっきも何か言ってなかったか」「知らん」「黙れアホ」「まあまあ。2人とも、陸上続けるんでしょ」振り返って新見が言うと、聡志と十文字は顔を見合わせた。「うん」「まあ一応…」「じゃあきっとどこかのレースで会えるよ」「うん」「だといいな」「あ、2人にも渡しておくね、もう名刺できたから」「おお、名刺!」「携帯番号とメルアド書いてあるぞ!」2人は大きく万歳をした。もっとも、携帯の番号とメールアドレスを知ったからといって、新見とどうにかなるわけでもないだろう。そんな根性があるなら、チームメイトだった4年間でどうにかしようとしているはず。「これからもよろしくね」「よろしく!」「よろしく!」まあ、夢だけは見させておこう。「あ、星島君には私用の携帯教えておくね」「あ?」「え?」「う?」「そっちは仕事用だから、緊急の用事があるとき以外は連絡しないように」半分冗談だと思うけど、新見がそういって、聡志と十文字はがっくりと肩を落とした。夢、終了。「ミキちゃん、星島がまた浮気しようとしてるよ!」聡志が注進して、ミキちゃんは振り返って眉を持ち上げた。「そう…。この際、私も誰かと浮気しようかしら?」ミキちゃんが言ってぐるりと周りを見回したけど、男性陣は一斉に下を向いた。残念ながら、立候補者はいないようだった。「無理無理。村上さんみたいに面倒な人と付き合えるの、日本中で星島さんぐらいです」詩織ちゃんが言って、ミキちゃんは眉を持ち上げた。「どういう意味?」「そのままの意味です。大事にしなきゃ駄目ですよ。大事にしてあげてます?」「まあ、大事には、してる、つもりだけど…」珍しくミキちゃんが口ごもる。そうだ、いいぞ、詩織ちゃん、もっと言ってあげて。「村上さんは、星島さんに捨てられたらおしまいなんですからね」「そんなこと、ないと思うけど…」「そんなことありますよ。誰が好き好んで大魔王なんかと…」「…なんですって?」「ひゃっ!」慌てて宝生さんが水沢さんの後ろに隠れる。なぜか知香ちゃんもその後ろに隠れる。その後ろに新見が隠れる。「何よ。人を危険人物みたいに…」「村上さん、素晴らしい女性じゃないですか」と、おべっか金子君。「ピュアだし美人だし、最高だと思いますよ」露骨に褒められて、みんなのほうを振り返ったときのミキちゃんのドヤ顔。まさか、ミキちゃんの顔芸でみんなが笑う日が来るとは思いませんでした。笑いながら、僕らは陸上競技場のトラックに下りていった。ホームストレートの中央付近に稲森監督が立っている。その前に3人の女の子の姿が見えて、誰だろうと思ったけどすぐに分かった。杏子さんと、千晶さんと、亜由美さんだ。その中の一人が、僕たちのほうに向かって、ててててっとまっしぐらに駆けてきた。「きーん」どすんとぶつかってきてぐりぐりする。誰なのかは言うまでもないでしょう。「んー、久々の充電!」「はいはい。おととい会ったでしょ」「ご飯いこ!お腹空いた!」「あいさつ終わってからね」「早くして。中華がいいかな?中華食べたいよネ?」「うん…、同意の求め方がおかしくない?」「じゃ、じゃあ焼き肉でもいいよ。寿司でもイタリアンでもいいけど中華がいいよネ?」ばたばたと戻っていく。まったくもう、毎度毎度騒々しいと僕らは苦笑した。「ま、明日以降もここで練習することにはなるんだろうけど」さっきの続きを言いながら、新見は芝生の上をかみ締めるように歩いていった。スーツ姿なので誰もタータンの上は歩かない。タータンの上を走っていいのは、ジャージ姿のアスリートだけだ。僕たちにとって、トラックの上はそういうものだ。聖地みたいなものだと思ってもらっていい。「気持ちは、ちょっと違うのかな?」「どうだろ。そうなのかな」「なんか、複雑…」新見が、ちょっとだけ泣きそうな顔で笑った。「あーん。なんかいまさら泣きそう」「いまさらだなあ。新見は、笑顔がいいと思うよ」「あ。何それ、告白?」「いや、違うけど…、違うからね、違うからね!」慌ててミキちゃんに弁解すると笑いが起きる。何だか、久々のお約束だった。「でもあたし、絹山大学に入ってよかった。憧れだったミキちゃんにも会えたし」新見に告白されて、ミキちゃんはちょっと驚いて、それからすぐに恥ずかしそうにそっぽを向いた。「うそばっかり」「ほんとだよ。最初はさ、なんかあれだったけど、今はミキちゃんのこと大好きだし!」「はっきり言えば。嫌いだったって」「あははは。だから、今は大好きだってば」「新見さんが好きなのはご飯でしょう」「それも、あるけどね!」「うう…」黙っていた加奈が苦しそうにお腹を押さえると、ミキちゃんがびしっと指を差した。「ちょっと。さっき食べたばかりでしょ」「え、え、ミキさんなんで分かるの?超能力?」「あははは」新見沙耶は、太陽のように笑った。前原加奈は、お腹を押さえたままきょとんとした顔をした。村上美樹は、わずかに唇を持ち上げて髪を風になびかせた。3人の、天才スプリンター。きっと彼女たちが、これからもスプリントの歴史をつむいでいくに違いない。バトンを受け継ぐ次世代のスプリンターは誰なのか、今はまだようとして知れない。しかし、少なくともあとしばらくは、僕たちの出番は続いていくだろう。さあ、いこう。これからは、延長戦だ。「やっぱさ、相談したんだけど、焼き肉じゃなくて、中華だよネ?」歩いていくと、杏子さんが言って、僕らは顔を見合わせて笑った。「え、何?何笑ってんのさ」「お祝いしてくれるんでしょ」「そんで杏子さんは中華が食べたいんでしょ!」「今日ばかりは、さすがに自分が食べたいのゴリ押しできないみたい」「すごい!杏子さんでもそんな遠慮するんだ!」「だけど、どうしても中華が食べたいから、さりげなく中華に誘導しているつもり」「全然さりげなくないけど」「ぎこちない女王」「う、うるさいうるさいうるさーいっ!」「中華でいいよ。社長のおごりだよね?」「いえーっ!社長のおごりーっ!」「社長って言うな!」「あはははは!」いつものように。僕らの笑い声は、絹山大学のトラックの空へと消えていった。そして、いつものように。トラックの向こうから、ホームストレートの手前へ。対角線に薫る風が、僕らを撫でて無限の空へと駆け上がっていった。                  (完)

202話 優しい雨

一瞬、音が消えてしまったかのように僕には思えた。スタジアムが異様な雰囲気に包まれる中、ベッカーがそのまま1着で入線する。10秒77。これで世界陸上3連覇だったが、スタジアムは騒然としていた。ベッカーが少し驚いたような表情で後ろを振り返り、観客の視線も加奈に向けられた。日本人初のファイナリストになった加奈は、ゴールラインにたどり着くことなく、80m地点でうずくまったままだった。 何が、起こったのか。信じたくなかった。まるで、夢でも見ているようだった。 「加納君」即座に稲森監督と加納コーチが席を立ち、スタンドを下りていく。やっと、硬直していた僕らの時間が流れ始めた。だけど誰も何も言わずに、何ができるでもなく、ただ眼前の事実を見ているだけだった。水沢さんがぎゅっと僕のひじをつかんでトラックを見下ろしていた。杏子さんは呆然とした表情で頭を抱え、千晶さんは口元を手で押さえていた。「肉離れかな…」本間さんが言って、音が聞こえだす。 競技場はまだざわついている。杏子さんがとすんと椅子に座り、すぐに立ち上がった。担架が運ばれてきて、加奈はそれに乗せられ運ばれていった。それを見たベッカーが、大きく両手を挙げて手を叩く。それで雰囲気が変わって、スタンドから拍手が沸いた。ベッカーが笑顔を見せ、記者たちが群がる。僕たちも一応、軽くパチパチと拍手をしたけど、すぐに顔を見合わせた。「様子、見にいこっか。邪魔かな?」「分かんない…」「とりあえず、下行っとこ」僕たちはスタンドの階段を下って裏口のゲート前に向かった。おっつけ、ミキちゃんたちも駆けつけてきたが、知香ちゃんですら神妙な面持ちだった。誰もが言葉少なかった。ミックスゾーンの慌ただしさとは反対に、静寂で、物悲しい雰囲気だった。静かに、奇妙に平らな時間が流れていく。ブリスベンの、午後10時。しばらく待っていると、スタジアムをあとにする観客が遠くに見え始めた。熱戦が終わり。祭りのあとの寂しさのような、そんな感じがそこにはあった。僕たちの熱い夏が、終わりを迎えようとしていた。「あ…」水沢さんがつぶやいて、僕は顔を上げた。稲森監督やコーチ陣に付き添われて、加奈が出てきた。松葉杖をついて、背中を丸め、大きい身体をしょんぼりと小さくしている。「大丈夫?」真帆ちゃんが近付いていって肩を撫でる。加奈はちょっとだけ顔を上げて真帆ちゃんを見て、それからまたしょんぼりとした。ケガは仕方がないところだが、相当、落ち込んでいるらしい。「肉離れだ。すぐに治る」加納コーチが言って、みんなほっとする。肉離れなら、深刻になるようなケガではない。「まあ、その程度でよかったよ」「気にしない気にしない」「次もあるしさ」「頑張っていこう!」みんな口々に、加奈に声をかける。だけどミキちゃんだけいつもの表情で押し黙っていたので、僕はぐいぐいと背中を押した。驚いたのか、ミキちゃんは振り返ると眉を持ち上げた。「な、何?」「何か言ってあげてよ」「何かって…」「こないだ言ってたようなこと、言ってあげて」僕が言うと、ミキちゃんは眉をひそめた。何かを察したのだろう。水沢さんが細い目をますます細め、僕にならってミキちゃんの背中を押した。新見も、笑顔でそれを真似る。何だか分からないけど楽しそうだと杏子さんも参戦して、ミキちゃんは無理やり加奈の前に押しやられた。全員の視線が集まり、ミキちゃんは困惑の表情だった。だけど、何か一言、言わないといけない雰囲気だと察したらしい。背筋を伸ばしてごほんと咳払いをした。「えと。頑張ったわね」それきり、黙る。終わりらしい。「もうちょっと、何かあるでしょ!」杏子さんが言って笑いが起きる。半分だけ、ミキちゃんは振り返って杏子さんを睨み付けると、また前を向いた。「結果は、まあ、残念だったけど…」一言一言、言葉を選びながら言う。「でも、夢を見させてもらったわ。また世界の舞台で夢を見れるとは思わなかった。だから…、その…、感謝してるわ。ありがとう」ミキちゃんの言葉に、涙腺が切れたらしい。加奈は、ぼたぼたと涙を流した。大きな目から、これでもかという大粒の涙だった。「ごめんなさぁい…」泣いて、袖で拭って、また泣く。「メダルとれると思ったのに…、村上さんのぶんまで頑張ろうと思ったのに、ごめんなさぁい…」大きな口を開けて。鼻水まで流して。加奈は恥も外聞もなく、子どもみたいにわんわんと泣いた。ミキちゃんはバッグを開けて、ハンカチを取り出して加奈に手渡したけど、自分の頬を伝うものを拭おうとはしなかった。「何よ、もう」かすれる声で言って、ようやく、自分の涙を拭う。ミキちゃんの表情は、憑き物が落ちたかのようだった。「何よ。殊勝なこと言わないでよね…」「ごめんなさぁい。村上さん、ごめんなさぁい…」そして二人は、ぎゅっと抱きしめあった。さまざまなものが柔らかく溶けていって、ブリスベンの夜空が、優しい涙雨を流し始めていた。

201話 女子100m決勝

いくつかミートパイを買って、スタンドに戻る。席に座り、試しに一個食べてみたけど、本当に美味しかった。ただしこれ、一個2ドル75セントするのでちょっとお高い。まあ、お金は全部杏子さんが出したんだけどね。いつもいつもありがとうございます…。「飽きた。もういいや」さっき1個食べたのでお腹がいっぱいになったらしい。杏子さんは半分食べて、残りを僕の口の押し込んでくる。それで、今度はちゃんとハンカチで手と唇を拭いて、スポーツドリンクを飲み、腕時計を見て、それでやっと大人しくなって競技を観戦し始めた。 トラックの上では、男子砲丸投げと男子400mの準決勝が行われていた。「むい…」しばらく見ていると、後ろの席で後藤さんが唸った。眠いのか、目がとろんとしていて、はわわと大きく欠伸をする。「あーねむ。夕べあんま寝てねえからなあ」「誰も聞いてないよ、そんなこと」即座に杏子さんに言われて、後藤さんはがくっと頭を垂らした。「そんな言い方しなくても…」「あらごめんなさい。ゴリラの生態には興味がなくって」「ウホッ!夕べ一緒に飲んだろ!」「そだっけ」騒いでいるうちに、刻々と、時間が迫ってくる。スタジアムの雰囲気がどんどん濃密になっていく。女子400mのファイナル、男子110mハードル決勝とプログラムは進行。サブトラックで加奈についていた稲森監督と加納コーチが戻ってきて、僕は時計を見た。21時35分。あと10分だった。「出てきましたね」水沢さんが言って、視線を送ると決勝のメンバーが通路から出てきていた。例によってキーパーの格好で、加奈がずんずんと歩いてくる。いったん、ゴール地点の後ろのほうに座る。分厚い手袋なので開けにくそうにバッグを開け、スポーツドリンクを取り出す。ちょっとだけ飲んで、またバッグにしまう。ここからは表情はうかがえないが、準決勝と同じくらい、リラックスしているようだ。「うー」杏子さんが唸ってゆさゆさと身体を揺らす。係員が、ハードルを台車に積んでガチャガチャとトラックの外に運んでいく。そして、ついに、女子100mのファイナリストたちがトラックの上に姿を現した。拍手と歓声が、ブリスベングリーンヒルスタジアムを包み込む。見ているほうが緊張してしまって、のどが張り付いてしまう感覚を覚えた。水沢さんがぎゅっと僕のひじをつかんで、僕と視線が合うと、無言でうなずいてみせた。場内アナウンスが、早口で女子100mの決勝が始まることをまくし立てる。スタジアムのボルテージはいやがおうにも高まっていった。「うむーん」スタート地点と、電光掲示板と、僕はせわしなく視線を動かした。いよいよ、世界一のスプリンターが決まる時がやってきた。選手たちがそれぞれのレーンに出て、スターティングブロックの調整を始める。4レーンに前原加奈、21歳。そして、5レーンに女王クリスティアーネ・ベッカー、26歳。油の乗っている女王に、突如現れたニューヒロインがどう戦うか。決勝では一体どんな戦いを見せてくれるか、世界中が目を向けている。ベッカーは加奈をどう見ているのか、視線は絡み合わない。女王は淡々と、世界陸上3連覇、オリンピックも含めると世界大会4連勝に向けて準備を進めている。今回も、磐石といったところだろうか。しかし、隣に不気味な存在がいる。勝負は、持ちタイムで決まるとは限らない。加奈を意識して、硬くなってくれたら、あるいは…?「よいしょっと」後ろから声がして、振り向くと新見だった。サブトラックから戻ってきたのだ。「どう?リラックスしてる?」「うーん。分かんないけどたぶん」「そか。じゃあ大丈夫だね」日本人として初めての、女子スプリントの決勝。それに乗っかってきた選手に対して失礼かもしれないが、本当、加奈ほど見ていてハラハラする選手もいない。しかし、ゴールキーパー風の帽子と手袋を外した加奈の表情は、ものすごく凛としていた。もう、「わちゃっ」とか言っていた少女の面影はどこにもなかった。「いいね」「そうだね」新見と小声でささやきあう。選手が、ジャージを脱ぐ。かごにジャージを入れて、腰にレーン番号のシールを貼る。さあ、もう間もなくだ。あとはただ、見守ろう。「うー…」杏子さんが唸っているほかは、日本チームは奇妙に無言だった。選手紹介が始まる。ああ、もうファイナルが始まるのだ。早く見たいような、いつまでも見たくないような、そんな感じだった。「カナ・メーハルルァーッ、ジャペェァーンッ!」大歓声。スタジアム全体が、大歓声だった。加奈は軽く手を挙げてちょっとだけ笑ったが、すぐにきりりと顔を引き締めた。準決勝の走りができれば、メダルに手が届く。果たしてどうか。「クリスティアーネ・ベッカーッ、ジャッメーイカッ!」また大歓声。この、大歓声と、興奮。ファイナルなのだと思った。もうすぐ、世界一が、決まるのだ。選手紹介が終わり、スタジアムが徐々に静寂に包まれていく。観客も含めた全員でつくり上げていく、興奮の中の緊張感。その中心で、8人のファイナリストたちがその瞬間を待っていた。「on your mark」21時45分。何度も繰り返されてきたコールが、ついに、女子100m決勝でも発せられた。選手たちがゆっくりとスタートラインに歩み寄る。加奈がまず、大柄な身体を動かして、スターティングブロックにゆったりと足を乗せる。ベッカーは軽く肩を動かしてから、引き締まった肉体でその準備を終える。小さな風がトラックの上に吹いて、選手たちの髪をかすかに揺らしている。静寂に支配された、ダークブルーのタータン。小柄な係員が選手たちの手の位置をチェックして、スターターに合図を送る。始まる。始まる…!「set」号砲。大歓声。花火のようなフラッシュ。それがほぼ同時だった。スタジアム全体が一気に燃焼する。 得意の、電撃スタート。耳をつんざくような声援の中、世界一の称号に誰よりも速く近付いたのは、加奈だった。弾丸のように前に出ると、ベッカーを置いて前に出る。僕らはもう全員、立ち上がっていた。杏子さんが抱き付いて何か叫んでいたけど、よく分からなかった。圧倒的な、パワー。ダスンとタータンを蹴り上げて、反動で巨体が前に進む。ぐわっと腕を振ると、反作用的に反対の脚が持ち上がる。1つの動作を行うたびに、ぐいっぐいっとスピードが上がる。「いっけえええええっ!」日本チームが沸く。序盤は、完璧に加奈のレースだった。しかし、このままいけるかと思った刹那、飛ぶように女王がやってきた。百戦錬磨。焦ることなく、加速区間でスピードに乗ると、加奈との差をじりじりと詰めていく。前のほうで加納コーチが何か叫んでいた。しかし加奈も懸命で、脚色に差はない。ベッカーがどうのというわけではなく、前をいく加奈の走りがよかった。それでも、1mほどあった差が徐々になくなっていく。両者が肩を並べたのは50m過ぎだった。10mほど、そのまま並走が続く。トップスピードでは両者互角といってもよかった。「まえはらああああああっ!」「ピョーッ!!」残り、50m。勝敗の行方は、後半のスピード維持にあると思われた。前半、もっとリードが奪えたらよかったかもしれない。後半はさすがにベッカーのほうが強いか。そんなふうに思った、そのときだった。「…っ!」その瞬間。誰もが、言葉を呑んだ。そこだけが、加奈の姿だけが、まるでスローモーションで切り取られたかのように見えた。ほんのちょっと、加奈の身体が上下にぶれたかと思うと、右足が大きく流れた。身体が大きく跳ねて、つんのめるようにして何歩か進む。そしてそのまま、加奈は慣性に耐え切れなくなって、ズデンと前に倒れ込んだ。9月の風が、加奈のふわふわの髪を静かに撫でていた。

200話 嵐の前

みんな落ち着きなく、無駄にサブトラをうろうろする。しまいには邪魔だとトレーナーに追い払われて、僕たちはふわふわした足どりでサブトラックを出た。たった一つのレースがこれだけ楽しみなのは、初めてのことかもしれなかった。「う、う、なんか、落ち着かない」唯我独尊の杏子さんまで、身体を左右に動かしてそわそわしている。「何時からだっけ」「21時45分。さっきも言ったでしょ」「あと何があんの?」「ほら、たまには自分でプログラム見なさい」「うー、文字が頭に入ってこない」その気持ちはよく分かる。 もうすぐ男子400mの準決勝がある。それが終わって7種競技の200m。表彰式のために少し間が空いて、女子400m決勝、男子110mハードル決勝。そして、女子100m決勝と立て続けにある。決勝種目まではあと1時間といったところ。「お腹空いた」と杏子さん。「何か買ってく?」「うん」神妙に、コクンとうなずく。珍しく可愛い。「何がいいかな」「美味しいの」「それが一番難しいな…」杏子さんと千晶さんと水沢さんと真帆ちゃんと亜由美さんと。つまりいつもの面々で、並んでいる屋台やファストフードの売店を物色する。どれもこれも高いし、美味しそうには見えない。いまいち心が惹かれなかったけれども、適当な店でミートパイを買ってあげた。夫婦だろうか。おじさんが料理をして、やけに陽気なおばさんが売り子をしている。 よっぽど、お腹が空いていたのだろうか。杏子さんがさっそくぱくついて、それから目を丸くした。「む…っ!」「美味しい?」「熱い!」「なんだ…」「いや、美味しいよ」夢中になって食べ終えると、油がついたのか、僕のジャージに手をごしごしこすりつける。いいところのお嬢様なのに、どうしてこんな子に育ってしまったのか…。「ちょっと、何してんの」「ほら、ミキだよ」「う」両手でぐりっと、合掌ひねりのように首をひねられる。目で姿を探すと、通路の向こうのほうから、ミキちゃんたちが歩いてくるのが見えた。おそらく、荷物番なのだろう。おべっか金子君の姿が見えないけど、知香ちゃんと、金髪宝生さんの姿も見える。落ち着かなくて、観戦どころではなかったらしい。3人とも、僕たちと同じようにふわふわしているようだった。「やー。やばいよ、超やばい。心臓が超やばい」知香ちゃんがちっとも具体的ではない騒ぎ方をしたけど、その気持ちはよく分かる。これこそが、スポーツの醍醐味だと思う。リアルタイムで素晴らしいパフォーマンスを見て、明日、ほんのちょっと元気が出るくらいのパワーをもらう。それが気のおけない仲間と一緒だったら、なお素晴らしい。「みんなと一緒に見たかったわ」ミキちゃんですら少し興奮気味な表情で、頬が赤かった。「来年は、トレーナーで代表に賛同させてもらえばいいさ」ぐびぐびとスポーツドリンクを飲みながら、杏子さんが答えた。「ま、星島が代表に選ばれるか分かんないけどね」「が、頑張りまう…」噛みまみた。「頑張りまう!」宝生さんが僕を真似てニコパと笑って、杏子さんがその頭を撫でた。「案外、みんな日本でテレビ見てたりして」「う。しゃれにならない…」「ま、来年のことは来年考えればいいか。まだシーズン終わってないし、世界陸上だって終わってないしね」「そりゃそうですね」「もいっこ買って」「ん?」「あれ」杏子さんが僕にパイをねだった、そのときだった。通路の向こうのほうから、やや急ぎ足に、さっきのはげ頭の記者がやってきた。探していたらしい。僕らを見つけて、猫を見つけたときの水沢さんみたいにまっしぐらにやってくる。「いたいた、やっと見つけたよ!」「はい?どうかしましたか?」即座に猫をかぶる杏子さん。見事だ。「ミキ・ハシェガーワに連絡を取ってほしいんだ。テレビ向けにコメントが欲しい。メールでも電話でもいい。ああもう時間がない、どうにかならないか?」ちらりと横を見ると、ちょっとだけ、ミキちゃんの眉毛が持ち上がっていた。「連絡も何も、ミキは目の前にいますよ」杏子さんが言うと、記者の目がシパシパと瞬いた。「え?ひょっとして、君がミキなのか?」「いえ、私はキョーコです。今、日本で一番ホットなスプリンター」おや。少し地が出てきたぞ…。「彼女ですよ、ミキは」「オーッ、本当に?ミキ・ハシェガーワ?」杏子さんに紹介されて、はげ頭の記者は大げさなアクションで両手を広げて驚いて、それから笑顔で握手をしようと右手を出した。だけど、ミキちゃんは仏頂面。じろりと杏子さんを見て、それからやっと記者を見た。記者の右手は、空しく宙に浮いたまま。これが政治の舞台か何かだったら、国際問題になるところだ。「何か御用?」いつもの、平坦なトーンの怖い声。その様子に、びびった宝生さんがささっと知香ちゃんの後ろに隠れる。記者は鼻白んだ様子だったが、それでも笑顔を崩さず、右手をゆっくりと戻して、ぽんと手を叩いた。「いや、君がカナッペを育てたと聞いたんで、ぜひともインタビューをと思ってね」「ノー」「一言、ほんの一言でいいんだ。5分でいいから」「ノー」「そうだ、本当はこんなことはしないんだが、謝礼も用意しよう。ポケットマネーなんであまり出せないが」「ノー」「カメラか?カメラが苦手なら、平気になる魔法を教えてあげよう。いいかい、まず大きく息を吸って、こう唱えるんだ」興味をそそられることを記者が言いかけたけど、最後まで言い切ることはできなかった。眉毛を持ち上げたミキちゃんが、記者に一歩詰め寄ってじろりとにらみつけたからだ。「ノー」それ一本で押し切ってしまう。ミキちゃんの怖さは、外国の人にも通じたようだった。口を閉じると、半歩、記者は下がった。固まった表情で、降参というふうに両手を軽く挙げて、小さく、ソーリーとつぶやく。助けを求めてちらりと僕らのほうを見たけど、もちろん誰も助けようとはしなかった。「先に戻るから。浅海さん、あとで話があります」日本語で、知香ちゃんと杏子さんに一声ずつ声をかけて、ずんずんと戻っていく。どんな表情をしていたのか分からないが、前から歩いてきた、腕にタトゥーを入れた数人のいかつい外国人が、さっと道を空けた。「参った。うちのワイフより怖い」ハハハと、取り繕うように記者が笑って、杏子さんも同じようにハハハと笑った。若干、杏子さんの笑顔も引きつっていた。

199話 喧騒

速報タイム、10秒89。正式タイムが表示されて、10秒89変わらず。すわ、日本人初の10秒台かと思われたが、追い風2.2mと表示される。参考記録になってしまったが、それでもすごいことだ。追い風条件下でも、日本人初の10秒台。大変なことになった。とにかく、大変なことになった。日本人初の10秒台が、いきなり10秒89だった。今シーズン世界1位が、女王クリスティアーネ・ベッカーの10秒82。そのくらいのレベルの記録である。それをマークしたのが、まるで無名の21歳の日本人。一気にメダル候補に躍り出て、現地はもう大変な騒ぎだった。世界中のプレスがとにかく情報を得ようと右往左往して、前にベッカーと一緒にいたはげ頭の記者が、サブトラックに行こうとしていた僕たちのところにまでやってきた。「ヘイ、ノジミン!」「う?」ノジミンって、それだともうどこの国の人って感じだけど。「彼女は、何だ?えーと、何者なんだ?」彼らも混乱しているらしい。何者なんだと聞かれても困るのだが、僕が答えに窮してあうあう言っていると、杏子さんがカメラを見て営業スマイルを見せた。「彼女はチュニジアからの帰国子女なんだけど、チュニジアではサッカーのクラブチームでキーパーをやっていたみたい。本格的に陸上を始めたのは大学に入ってからで、彼女の成長ぶりに私たちも驚いているわ」いや、それはそうなんだけど。杏子さんの猫のかぶり具合と、流暢な英語のほうがびっくりだった。「大学に入ってから?本当に?」「私も同じ大学なんだけど、最初のタイムトライアルでは14秒ちょっとだったのよ。でも、トレーナーのミキと、ミキは陸上部の1年先輩なんだけど、一緒に二人三脚でここまでやってきた。ミキを知ってる?彼女は中学生1年生で世界ユースの銀メダリストになったんだけど、そのとき高校生だったベッカーに勝ってるの(ニコッ)」「オウ!ミキ!?」メモを取りながら、はげ頭の記者がぴょんと飛び上がった。「あの、アジアの秘宝と呼ばれたミキ・ハシェガーワか!なんてこった!こんなところで彼女の名前が聞けるなんて!」「ミキはケガで走れなくなったんだけど、自分のスプリントの全てをカナに託したわけ」「こりゃ大変だ。いいこと教えてくれた、サンキューッ!」「ユーアーウェルカム」記者は握手をして慌てて戻っていったけど、もう、何かいっぺんにいろんなことが起こって、とにかく混乱してしまった。まず、一個ずつ解決していこう。とりあえず、あれだ。「何で杏子さんそんなペラペラなの?」聞いてみると、杏子さんはきょとんとした表情をした。「ん?英語?」「そう」「あたしくらいになると、何でもできるのよさ」…よさ?「子どものころから、もう嫌になるくらい、習い事習い事習い事。いまどき日舞なんか習って何の役に立つっての。ねえ?」杏子さんは心底、嫌そうな声を出した。あまりいい思い出ではないのだろう。それはともかく。全国の日舞の関係者の皆さん、及び伝統芸能を愛する方々、彼女に代わって謝罪します。どうもすみません。この人、いろいろおかしいんです…。「それはまあ分かった。でもなんであんなに猫かぶるの?」「うるさいな。女はいろんな顔持ってるの!」「それにしたってあれはない」「う、うるさいうるさいうるさーいっ!」じたばたと争う。杏子さんとはこの先もずっと、一生、こんなことをしていそうな気がする…。サブトラックには、既に加奈が戻ってきていた。真帆ちゃんが走っていって、わけの分からない踊りを踊り、ハイタッチをする。自分のしたことがどれほどすごいことか、分かっているのかいないのか。とにかく、いつもどおり、無邪気だった。「いやー、まいったまいった。いろいろまいった」新見がやってくる。僕は何となく声をかけづらくてモゴモゴしてしまったけど、千晶さんは大きく手を広げて新見とハグをした。「お疲れ様」「うん」新見が少し涙ぐみ、みんなにばしばし背中や肩を叩かれる。何か、ちょっぴりいいシーンだった。女子100mの決勝は、3時間後。新見と加奈がおしゃべりしながら身体を動かす中、何とかコメントをとろうと、世界中のプレスがサブトラックに張り付いていた。10社20社の単位ではなく、100社くらいいるかのように見えた。まるで、シンデレラガールだ。まるでってことはないか。実際、シンデレラガールだもの。「すごいな」本間君が舌を巻く。それくらい、この10秒89という数字には価値があるのだ。おそらく今ごろ、日本でも大騒ぎになっているだろう。日本人初の決勝進出がどうだとか。追い風参考じゃなかったら、どのくらいだったとか。メダルの可能性はどうだとか。アナウンサーがカメラに向かってしゃべっているのが、聞こえてくる。外国のメディアも、きっと似たようなことをしゃべっていると思う。「俊ちゃん、追い払ってきて!」杏子さんに言われて、後藤さんが首をかしげた。「んなこと言われても、英語もできんのに」「ウホウホいって胸でも叩けば、ゴリラが来たと思って逃げ出すんじゃない?」「ウホッ!」杏子さんと後藤さんが追いかけっこを始める。みんな、落ち着かないのかそわそわしている感じだった。表現が難しいが、何というか、知り合いが急に世界的な有名人になってしまった。気持ちがモゾモゾするのも仕方ないかもしれない。「金メダル、取れるといいですね」何の気なしに真帆ちゃんがそんなことを言ったので、僕は思わずびくんとしてしまった。不思議そうに、真帆ちゃんが僕を見る。「え?何?」「え、いや。別に」「金メダルを…」「わーわーわーっ」亜由美さんが大声で遮り、真帆ちゃんは首を傾けた。「金メダル?」「わーわーわーっ!」「キンメダイ」「やめろーっ!」亜由美さんがぐわしっと真帆ちゃんのちょんまげをつかみ、ぐりんぐりんと回した。「そんなこと言ったら、またあの子、ガチガチになる!」「あ、あう、本人の前では言いません…」「あたしの前でも言っちゃダメ!あたしの心臓に負担かけるな!」「は、はい!」亜由美さんの気持ちがよく分かる。サッカーのワールドカップで日本代表がPK戦になったとき、こんな感じだった。何だか、自分が走るときより緊張する。自分のレースは自力で頑張れるのだが、他人のレースには力が及ばないのでつらい。気分的には、赤ちゃんが生たまごを持って歩いているのを見ているような感じだ。あとはもう両手を合わせて祈るしかない。「やー、もう、心臓に悪い」千晶さんまでそんなふうに言う。「止まっちゃったらどうしよう」「千晶が死んだらあたしが困る!」と杏子さん。「千晶だって、処女のまま死にたくないでしょ」「…っ!」初めてみる、千晶さんがべしんと杏子さんに手を出してつっ込む姿。爆弾発言に、周囲の男子は、きっとあれこれ想像していたと思います。