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018話 問題児と優等生

スタートからの加速練習を再開すると、聡志と、1年生の女の子がそれに加わった。宮本真帆ちゃんだ。「よろしくお願いします」「あ、うん」聡志いわく、真帆ちゃんはインターハイ3位の期待の選手。最近はミキちゃんにくっついていろいろと教わっているらしい。 身長はあまり高くなくて、ちょんまげ頭なので引っ張りたくなるけど我慢する。ほとんどしゃべったこともないし、いきなりそんなことをしたら引っぱたかれそうだ。どことなく気の強い顔をしている。「星野さん。ちょっとそこいいですか」「はい?」「邪魔です」「あ、はい…」スタート地点をうろうろしていたので邪魔だったらしい。いや、それは邪魔って言われたからまあ分かったんだけど、星野さん呼ばわりのほうが気になった。もう、聡志のことをサトルって呼ぶのはやめにしよう。意外と傷付くものだ。「村上道場も門下生が増えたなあ、星野さん」聡志はうれしそうに笑った。「そうですなあ、ハギワラサトルさん」「それよりさ、今日飯食いに行かね?」「うん…、金ないや」「いいよ。たまには奢っちゃる」「え、マジで?」「マジで」「ありがとう、橋本聡志さん!」「どういたしまして星島望さん!あんま高いのは駄目だぞ」「じゃあ…、牛丼の特盛り?」「安上がりな男だな…」聡志は笑ったけど、それは概ね正しい。安上がりというか、僕は基本的に貧乏性なのだ。いや、貧乏性じゃないな。貧乏なんです…。聡志はいかにも今どきの大学生で、講義はあまり出ずに、部活のほかにバイトに励んでいて小金を持っている。もちろん(?)彼女はいない。趣味は洗車。学生の分際で8人乗りのでかい車で、暇があればしょっちゅう磨いているようだ。「ハンバーグにすっか」「おう。ドイツとの関係は最近どうなの?」「だからロシア人じゃねえっての!」聡志はどすどすと地団駄を踏んだ。加奈のクセが、移ってしまったようだった。「はい、遊んでないで」「あ」「すみません…」ミキちゃんの眉がすうっと動いたので、大人しく練習再開。練習を切り上げたのは7時前だった。着替えて、部室の外で聡志を待つ。別に中で待っていてもよかったんだけど、長距離軍団がいっぱいいたので、邪魔にならないように外に出たのだ。(ふう)僕が外の空気に触れたほんの数秒後。女子のほうのドアが開いて、水沢咲希が出てきた。地元の絹山女子高校出身のハイジャンプの1年生。切れ長の目が印象に残る中性的な美人だ。身長は175センチ前後。僕よりちょっと低いぐらいで、あからさまにモデル体形だ。二枚目で、ベリーショートだけどきれいな髪。女の子から圧倒的な指示を得ており、カリスマ的な存在として早くも学内で注目を浴びつつある。噂では、ファンクラブがあるとかないとか。だけど僕は水沢さんとはほとんど接点がなくて、あいさつぐらいしかしたことがなかった。宮本真帆ちゃんもそうだけど、入学してきたばかりだしね。「お疲れ様です」「あ、お疲れさま」避けようと思って左に動いたら、水沢さんも同じ方向に動いてぶつかりそうになる。なので、今度は右に動いたらまた水沢さんも同じ方向に動いた。例の、恥ずかしいパターンのやつだ。それで、何となく目が合った。水沢さんは、切れ長の目をますます細めて首をかしげた。軽く、微笑を浮かべるけどそれがまた二枚目だ。やばい。水沢さん、いいかも…。 「失礼します」水沢さんは会釈をして僕の横をすり抜けていった。うちの女性陣には問題児が多いけど、水沢さんは優等生のようだった。しゃんと伸びた背中を見送っていると、ドアが開いて部室から問題児Aが出てきた。女の子なのに、肩を落として背中を丸めて、いかにも疲労感が漂うだらしない姿勢だ。「うー。ハラヘッタ」杏子さんだった。言いながら僕を見て、それから歩いていく水沢さんの背中を見て、また僕を見た。「咲希としゃべってたの?」「え、いえ、別に」「ふうん…」杏子さんは僕をじろじろ見て、それからふんと鼻を鳴らした。「言っとくけど、あの子狙っても無駄だからね」「べ、別にそういうんじゃないんだから」「ならいいけど。あの子、レズビアンだから」想像を超えたことを言われて絶句していると、杏子さんは自分の鼻に人さし指を当てた。「内緒だよ」「え、あ、はい」僕は慌てて頷いた。女子高出身だし、いかにも女の子にもてそうな風貌だし。実際にいつも女の子に囲まれているし。今だって、長距離の1年生の女の子が慌てて追いかけていって横に並んだ。言われてみれば確かにそんな感じに見える。あれこれ想像して何だか無性にドキドキしてしまった。「そんじゃね」「あ、お、お疲れさまでした」杏子さんが千晶さんと一緒に帰っていって、それからすぐに聡志が出てきた。「お待たせ。いくべ」「お、おう…」「ん?なんかあった?」「いやいや、なんもないよ」思わずしゃべってしまいそうだが、内緒だ。内緒だが、しゃべってしまいそうだった。トラックを出て、駐車場まで歩いていって聡志の車に乗り、郊外にある小さなハンバーグレストランへ。よくあるチェーン店ではなく、ドイツ人のシェフがいる、個人経営の小さな店。たまに来るんだけど、かなり本格的な味のわりに、値段はライスとスープ、サラダ、ソーセージつきのハンバーグセットで880円と、お値打ち価格だ。「久々だなあ」呟きながら、木の床をごつごつと歩いていって席につく。メニューを見るけど、奢られるほうの立場は微妙だ。高からず安からず、適当なところを選択するのが難しい。「デートで来ればいいじゃん」運ばれてきた水を飲みながら聡志が言う。僕だって、可能ならそうしたいところだ。「誰とだよ」「えーと。ミキちゃん?」問題児Bね。「なんでミキちゃん?」「いつも楽しそうにしゃべってるじゃん」「あれが楽しそうに見えるのか」「いや。あんまり」「だろ」「まあ冷静に考えればそうだよな。星島ごときがあんな美人に相手にされるわけないか」「そうだよな。でも腹が立つのはなぜだろう」ハンバーグセットが出てきて、しばし食べるのに夢中になる。いつもコンビニやスーパーの弁当ばかりなので、牛丼以外の外食はごちそうだった。肉汁たっぷりのハンバーグもおいしいけど、この店のソーセージが無性にうまいのだ。太くてジューシーで、これだけでご飯が何杯でも食べられそうな感じ。肉万歳。白いご飯最高。炭水化物万歳。「でも、思い切って誘ってみればいいじゃん」何か魂胆でもあるのか、しつこく聡志が繰り返した。「何でそんなに勧めるんだよ」「いや、まあ相手は誰でもいいんだけど。加奈ちゃんは?」「何か問題児ばっかだな…」「じゃあ杏子さん」「じゃあっていうか、問題児の最たる人だろ」「誰だっていいんだよ。星島がうまくいったら、女の子紹介してくれってそれこそ堂々と言えるだろ」「いまいち意味が分からないけど、ロシア人の女の子に知り合いいないぞ」「ロシア人じゃなくていいから!いや可愛けりゃロシア人でもいいけど!」何のこっちゃ…。

017話 加速走エンドレス

5月上旬、関東インカレが開催された。我が絹山大学陸上部の主要メンバーは大活躍で、女子は総合優勝、男子は総合4位という成績を修めた。特に女子短距離は黄金世代と呼ばれていて、杏子さん、千晶さん、新見がそろっている限り、ほかの大学は敵ではない。ちなみに、3人の中で一番活躍したのは千晶さん。 個人種目では優勝がなかったけど、100m3位、200m2位、400m5位と得点を荒稼ぎ。そもそも3種目もエントリーしているのがすごすぎる。しかも4Kとマイルリレーの優勝にも貢献して、大車輪の活躍だった。こういうバランスタイプのスプリンターは、チームにいると非常に重宝する。なお、僕は終始スタンドで応援係。時々、マネージャーのミキちゃんや詩織ちゃんに頼まれて何か雑用をするくらいだった。来年はどうにか出たいところだけど、部内での争いが厳しいから微妙なところだ。とにかくレベルが高すぎる。(そのためにはとにかく練習だ)そして今日も絹山大学のトラックで練習。全体練習を終えて、個人練習に移ろうとすると、ミキちゃんが加奈を連れてやってきた。我が陸上部の誇る電子ピストルセットを持っている。普通の電子ピストルは5千円もあれば買えるが、これは5万以上する代物だ。違いがよく分からないけど、夏のような日差しを反射して、きらりと光る。う、撃たないで…。「一緒にやらない?」とミキちゃん。願ったり叶ったりだった。「やります」「じゃあ準備して。今日もポイントで20mまで」「はい」「そのあと30mね」「はい」加奈と一緒にスタートラインにつく。 加奈は慣れた手つきでカチャカチャとスターティングブロックを合わせた。1カ月前は使い方も知らず、スタートで「わちゃっ」とか言っていたんだけど、初心者は初心者なりに、少しはレベルアップしたというわけだ。まあ、誰しも最初のうちは伸びるしね。ここは、天狗にならないように鼻を折ってやろうじゃないの。「位置について。用意」だけど、電子音が鳴った瞬間、僕はぎくりとした。加奈の反応が僕より速くて、リアクションそのものは完全に負けていたからだ。 さすがに女の子には負けていられないので、巻き返して20mまで走って戻ってくる。驚いたというより動揺していた。まさか、リアクションだけとはいえ、加奈に負けるとは思っていなかったからだ。息を整えながらスタート地点に戻り、念のため、僕はミキちゃんに確認した。「今の、フライングじゃなかった?」「誰が?」「誰がって…」僕は横にいる加奈を見た。視線に気付いて、加奈はえっへっへえと笑った。視線を戻すと、ミキちゃんの眉毛が片方上がっていた。「星島君、真剣味が足らないんじゃない?」「そうですね…」本当、初心者に負けていられない。2本目からは真剣に取り組んだつもりだったんだけど、どうにも加奈の反応速度が良すぎて、何度やってもまるで歯が立たない状態だった。加奈のスタートは、天性のものがある。185センチの大女のくせに、やたらと反応がいい。少なくとも最初の一歩は完敗だ。10本、終わったところで僕は諦めて兜を脱いだ。「駄目だ。負けました」「えっへん!」加奈は腰に手を当てて堂々と胸を張った。いや、実際、大したものだと思う。「お前、すごいな」「そうでしょ!褒めて!」「…褒めただろ」「えっへん!反射神経には自信あるのだ!」「そうなのか」「キーパーやってたからね!」「ふーん」そういうものだろうか。よく分からないけど加奈に負けたことは事実で、ミキちゃんは眉毛を上げて露骨にため息をついた。「初心者に負けるなんてしょうがないわね」「おれ、後半型だもん」「理由になってないと思うけど」「はい…」人間が全力で走れるのは6秒前後だと言われている。なので、100m走ではどこかで力をセーブする必要があり、それにより前半型か後半型に分かれてくるわけだ。ただ、トップレベルの選手は前半も後半も関係なく、トータル的なレースマネジメントができているものらしい。それは筋肉の使い方だったりつなぎの走りだったり、何かいろいろ難しい技術があるわけで、ミキちゃんにしょっちゅうあれこれ怒られている。「スタート苦手なんだよな…」「スタートだけじゃないでしょ」ミキちゃんは表情一つ変えずに言った。相変わらず、手厳しいというかストレートだ。「それに、リアクションタイムはいいの」「うん」「大事なのは加速」「うん」「ちゃんと分かってる?」「リアクションより加速が大事」「そのままじゃない」少し、ミキちゃんの眉毛が持ち上がる。「速く反応しようと思わなくていいの。スムーズに加速していければいいの」「ははあ」「何よ、ははあって」「いや、思い当たることがあったもので」新見だ。 おそらく、リアクションタイムそのものでは新見より加奈のほうが上だろう。だけど、序盤でリードしているのはきっと新見だ。加奈なんかと比べるようなものではないけど、きっとそういうことだ。「ゼロヨンとかと一緒か」「ゼロヨン?」「いかにスムーズに素早く加速していくかという…、つまり加速が大事?」あれ。最初に戻ってしまった。ミキちゃんの眉毛は持ち上がったままだった。

016話 ぎこちない人

ミキちゃんの予想どおり、約2時間、19時ジャストに料理が完成した。メインは、野菜たっぷりの鍋物。それと、手軽につまめる具だくさんいなりずし。それだけで十分だと思うんだけど、から揚げとポテトサラダ、イカ納豆、キャベツの漬け物と大根のシャキシャキサラダ等々…。どれもこれも美味しそうでよだれが出そうになった。出来上がった料理をミキちゃんと一緒にリビングに運んでいくと、杏子さんが千晶さんにベタベタしていた。まだ正式に始まったわけでもないのに、加奈はもう終わってしまったらしい。真っ赤な顔で、ソファーにこてんともたれて眠っていた。 聡志とおしゃべりしていた新見が、鍋を置くスペースを確保してミキちゃんを見る。「ごめんね。全部やらせちゃって」「うん」「星島くんもありがとね」「おれはつまみ食いしてただけ」「何、星島、ミキのことつまみ食いしたの?」例によって下品に杏子さんが言ったけど、みんな苦笑するだけで何も言わなかった。「ミキ、星島はあたしのもんだからね!」ウヒヒヒと笑った杏子さんを、ミキちゃんがじろりと睨んだ。「浅海さん」「え、ん、え?」「いい加減にしてください」「あ。はーい…」ミキちゃんにしかられた杏子さんがたたずまいを直して、新見がパチパチと拍手をした。千晶さんが、杏子さんの頭を慰めるようにすりすりと撫でる。結局、誰であろうともミキちゃんにはかなわないということだ。タイミングよく、加奈がカクンと目覚めた。状況はつかめていないだろうが、寝ぼけ眼でクンクンと鼻を鳴らす。「ん。何、いい匂いする」「犬かよ」「あーっ、美味しそう!食べていいの?食べていいんですか?」「じゃあ、改めて乾杯しますか」「ん。じゃあ、千晶おめでとーっ、乾杯!」フライング気味かつ適当に杏子さんが言って、みんな慌ててグラスを持ち上げて千晶さんの誕生日を祝った。こんなふうに集まるのは初めてで、自分の誕生日でもないのにちょっとうれしかった。食べ始める前に、千晶さんにプレゼントを渡す。僕はアロマキャンドル、ミキちゃんはネックレス。新見はピンクのシャツで聡志は映画のDVD。杏子さんは質実剛健にランニングシューズだったけど、かなり高そうなやつだった。「あたしは、これですっ」加奈が買ってきた細長い品の正体は、トーテムポールの置物だった。「あ、ありがとう…」さすがに千晶さんも驚いていたが、加奈はうれしそうに説明した。「けっこうデザインが可愛いですよね」「そ、そうかもね、うん」「知ってます?トーテムポールって昔の人のお墓なんですよ。棺桶がついてることもあるんだって!」いや。悪意はないと思う。たぶん…。その後、泡の出るジュースを飲みながら、みんなでわいわいと食事をする。スポーツマンらしく、誰もが食欲旺盛だった。あっという間に鍋の具がなくなって、追加の具とうどんが投入される。それもぺろりと平らげて、やっとみんな落ちついたようだった。いくら人数がいるといっても、相当な分量だ。バースデーケーキは、パブロという喫茶店のチョコケーキ。女子はみんな大好きらしくて、僕も食べたけどほろ苦くて絶品だった。「ごちそうさまっ」加奈はとても満足そうだった。「お前、よく食べるなあ」「成長期だから!」まだ成長する気か…。「村上さん、料理上手なのね」千晶さんが、ミキちゃんからツナコーンから揚げのつくり方を聞いている。確かに、あれはうまかった。新見も、大満足の表情。「美味しかった!いいなあ!お嫁さんにしたい!」新見が言って、僕は思わずウンウンとうなずいた。ミキちゃんはぷいっとそっぽを向き、立ち上がって鍋を片付け始めたけど、杏子さんは僕を指差してぐるぐると回した。「星島は、お嫁さんにするなら誰がいい?」また、いきなりそんなことを言い出す。みんなの目が僕に一斉に注がれたけど、答えは決まっているようなものだ。「そりゃもう、杏子さんです」だってほかに答えようがないじゃないか。一種のお約束の問答なんだけど、それでも杏子さんの目じりはみるみる下がった。「だよね。エッチの相性いいもんね!」「してません。してませんからね!」そんな馬鹿話をしながら、しばらくわいわいと盛り上がる。だけどそのうち、明日早いということで、新見とミキちゃんは先に帰っていった。それからまた少し飲んだけど、千晶さんがかなり眠そうだったので、帰ろうかということになって、残りのメンバーで後片づけを始めた。加奈はまた眠っている。杏子さんはつんつんと加奈をつついたけど、ぴくりとも反応しなかった。どうもアルコールには弱いらしい。「寝せとくか。朝にゃあ起きるでしょ」「いいの?」「大人しく寝てるぶんにはね」杏子さんは毛布を持ってきて加奈にかけた。それから冷蔵庫からウーロン茶の缶を持ってくると1本を僕に手渡して、僕を座らせながらプルトップを空けた。「ライテックスの監督が、卒業したらうちに来ないかって言ってくれてるんだ」ライテックスホールディングスは、スポーツ用品部門で世界的に見ても大きなシェアを誇っている大企業だ。 オリンピックやワールドカップの最大手のスポンサーとして知られている。言うまでもなく超一流企業で、まず、知らぬ者はなかろう。陸上部も強くて、つまり、陸上選手としてはエリートコースなわけだ。「すごいじゃないですか」「でも、練習拠点が名古屋なんだよね」「名古屋はまずいの?」「星島と会えないもーん」ウヒっと笑って、ウーロン茶を飲むと、杏子さんはふうっと息を吐いた。肌が桜色に染まっていて、ものすごく色っぽかった。「一応、大学院も考えてるんだよねえ」杏子さんは呟いた。けっこう悩んでいるらしい。「大学院かぁ」「スポーツ科学専攻してさ。ほら、一生選手のままってわけにもいかないじゃない」「将来は指導者ですか」「分かんないけどさ。星島は何か考えてんの?」そう言いながら杏子さんは僕の頭を撫でた。しかし、僕は答えることができなかった。正直なところ、何も考えていないというのが現状だ。「いえ。今のところは」「そっか。まあ、まだいいか」「はい」「ま、まあ、今の調子で手抜きするんじゃないのよさ?」「よさ?」「最近頑張ってる…、頑張ってるらしいし?見てる人はちゃんと見てるような、多分ね、見てるからね?」励まそうとしてくれているらしい。だけど何だかぎこちない。「杏子さんって、人のこと褒めるの苦手?」指摘すると、ぎくっとした顔をする。「ち、ち、ちがわいっ」「だってめちゃくちゃぎこちなかった…」「う、うるさいうるさいうるさーいっ!」ポカポカと叩かれる。だけど気持ちは、ものすごくうれしかった。

015話 村上美樹、辣腕を奮う。

やがてリビングに姿を現したのは、新見とミキちゃんだった。ミキちゃんはそのままキッチンに来て、杏子さんの興味は新見に移ったらしい。羨ましいことに、横に座ってほっぺたにキスをしたり体をべたべた触ったりして、喜悦の声をあげている。新見も、杏子さんのお気に入りの一人なのだ。なんていうか、人にくっつきたがる人なんだよね。「ちあきーっ、こっち来て座んな」「え、でも」「あんた主役だろーっ?」もう、何かもうね。逆にすがすがしいです。キッチンに来たミキちゃんは、エプロンをつけて長い髪を束ねると、無表情のまま、千晶さんをしっしと手で追い払った。これは文字どおり、追い払ったのだった。「ごめんね。大丈夫?」「大丈夫です」千晶さんがリビングに向かって、キッチンには僕とミキちゃんが取り残された。丁寧に手を洗って、ミキちゃんは冷蔵庫をじいっと覗き込み、何か思案顔で食材の下ごしらえを始める。僕はただそれを見ているだけだった。 料理なんかできないけど、一応、聞いてみる。「何か手伝う?」「いい」ミキちゃんは振り返りもせずに答えた。邪魔かと思ったけど、追い払われないということは、つまり、このままいてもいいということだろうか。「何つくるの?」「適当に。から揚げとかサラダとか」「そっか…」いすに座って、何となくミキちゃんの料理姿を後ろから眺めた。ポニーテールがよく似合っていた。ミキちゃんが動くたびに、リズミカルに左右に揺れている。しばらく眺めて、それから近づいていって鍋の中身を覗き込むと、パスタがお湯の中で躍っていた。半分だけ、ミキちゃんが振り返ってそれからまた前を向いた。「ごめん。邪魔?」「別に」同時にいろいろつくっているらしい。タイマーが鳴って、鍋からパスタをあげると、フライパンで手早くソースをつくってパスタをからめる。そして丁寧に皿に盛りつけると、ミキちゃんはその皿を僕に差し出した。食べろということらしい。僕は驚いてミキちゃんを見たけど、相変わらず、仏頂面だった。「え。食べていいの?」「お腹すいてるんでしょ。2時間くらいはかかるから」「やった。ありがとう!」ミキちゃんがつくってくれたのは、ハーフサイズの、ほうれん草とベーコンのクリームパスタだった。さっそく、いただきますを言って一口食べたけど、文句なしに美味しかった。今までの人生で食べてきたパスタの中で、一番旨い。「うまーい!」「そう」「ミキちゃん、すごい上手だね」ミキちゃんは僕を一瞥したけど何も言わなかった。無言で大量のポテトサラダをつくって、少し冷ましてから冷蔵庫に入れる。そして、既に空っぽになっている僕の皿を見てちょっと眉を持ち上げた。「もう食べちゃったの?」「うん。美味しかった、ごちそうさま」「お粗末様」ぱっと僕の手から皿を奪い取ってシンクにつけると、再度、ミキちゃんは料理に取りかかった。いつの間にか、イカの下ごしらえが終わっている。さらに、から揚げをつくろうとしているところだった。そこには、リズムがあった。そしてミキちゃんは、そのリズムの上を流れる美しい旋律だ。いすに座ったまま、何となく見とれていると何度か目が合った。ミキちゃんは何も言わなかったけど、気になったのか、何度目かのときに口に出した。珍しく、少し穏やかな表情だった。「暇そうね」「ん?」「向こう行ってたら」「うん。でも、ミキちゃん淋しいかなと思って」「別に」「だよね…」こういう性格もあってだろう、ミキちゃんにはほとんど友達がいないようだ。いつも一人だし、誰かと仲良く話をしている姿もあまり見かけない。「ミキちゃんは、何で陸上部に入ったの?」試しに聞いてみたけど、反応はなかった。聞こえていなかったのかもしれない。それとも話したくないのかなと思っていると、少したってから、ミキちゃんはぼそりとつぶやいた。「昔、選手だったから」初耳だった。もっとも、ミキちゃんのことは何一つ知らなかったけど。「ふうん。長距離?」「短距離」「ああ。だから詳しいのか…」「星島君、高校どこだっけ」珍しく、会話が弾む。空気の抜けたサッカーボール程度に。「宮城県立、仲浜高校。聞いたことある?」「ないわね」「吹奏楽部が有名だよ。陸上はさっぱりだけど」「ふうん。全中で優勝したのに、声かからなかったの?」「高校?」「埼玉星明とか」埼玉星明は、名門中の名門だ。毎年、インターハイの総合優勝を争っているような高校である。「いや。話は来たんだけど、遠いなあと思って」「宮城から埼玉なら、全然遠くないじゃない」「まあ、今考えればそうなんだけど、地元でいいやって思ってさ」「もったいない」「今考えればね。個人競技なんだし、どこ行っても同じじゃんとか思って」「同じってことはないでしょう」「うん。調子乗ってたんだよね…」中学時代は、監督もコーチもいなくて、陸上のりも知らない世界史の先生が顧問でいるだけだった。だからずっと、練習はすべて自分で考えて適当にやってきた。スプリントもほとんど自己流だった。それでうまくいっていたので、高校生になっても大丈夫だろうと思っていたのだ。「今、うまくいってるからって、次もうまくいくとは限らないのよ」ミキちゃんの的確な指摘。「そうそうそう。それはね、高校時代に痛感した…」「それで、うちに入ったわけね」「うん。まあそんな感じ」もっとも、大学に入っても、それはほとんど変わらなかった。普通入学で陸上部に入る選手は、二軍とは言わないが一軍半くらいだろうと自分自身で思っていて、ずっと気後れしていたからだ。でも、今はミキちゃんが味方してくれている。おかげで少しは、錆びついていた歯車が回り始めているのだろうか。「でも、それで納得したわ」ちらりと振り返って、ミキちゃんは僕を見た。「え、何?」「あんなでたらめな走り方の理由」「そうですか…」「あれであんなタイム出すんだから、不思議よね」褒めているのかけなしているのかよく分からなかったけど、何だかうれしかった。僕のことをちゃんと見てくれている人が、少なくとも一人いることが分かったからだ。

014話 頭文字S

繰り返すけど、浅海杏子さんは美人なんです。胸はあんまりないけど。いい匂いがするし…。それが、首に手を絡めて30センチに迫ってきたら、そんなの、どきどきするに決まってるじゃないですか。「な、何?」「うひひ。お祝いしてあげる」例の、何かをたくらんでいる怪しげな笑い。「いえ。いいです、別に」「耳貸して」「え、何?」「いいから」ちょっと耳を近づけると、杏子さんは僕の頬にキスをした。「あははは。まあこのくらいかな」心底、うれしそうに杏子さんは笑った。この酔っぱらいがと思ったけど、僕もうれしかった。男なんて所詮、そんなものだ。「ま、たまにはね、サービスサービスっ!」杏子さんは、400mの選手らしい、しなやかな身体の持ち主だ。 ミニスカートから伸びたすらりとした素足が目の前にあって、僕はかなり動揺した。視線に気付いたのか、杏子さんはウヒヒヒと極めて下品に笑って、わざと大きく脚を持ち上げて組み直した。 見えました。白。「ほれほれ。もっと見たい?」残念なことに、杏子さんに慎みという概念はない。「こら。やめなさい」「あはは。キスのほうがいいか」今の日本、千晶さん以外に大和撫子はもういないのか。助けを求めてキッチンのほうを見たけど、誰もが壊れたラジオのように無反応だった。「星島、彼女いないんだよね?」僕の首に手を回したまま、杏子さんは続けた。「いないけど…」「じゃあいろいろたまって大変だろ」「な、何が?」「ナニがだよ。あたしがしてあげよっか」「にゃ、何を?」杏子さんは、僕の耳に吐息を吹きかけ、情感たっぷりに囁いた。「頭にセが付く四文字」杏子さんと、そんなこと、したいに決まっている。 だけど、きっとこれは罠だ。もしうっかりうなずいたりしたら、杏子さんはうれしそうな顔をして立ち上がり、くるくる回りながらキッチンまで走っていって、あることないこと吹聴するに違いない。「いや、いい、大丈夫」慌てて首を振る。「じゃあ千晶にしてもらう?あの子、ああ見えてかなり得意だからさ」「と、得意って…」「テクニックがすごいらしいよ」僕はぼんやりと想像した。千晶さん、大人しそうなのに…。「ああ見えて、毎日たっぷりやりまくってるらしいし」「ま、毎日たっぷり…」一瞬、ものすごい絵を想像して、僕は慌てて首を振った。「そ、そういうの、千晶さんに失礼!駄目!こら!」「え。何で?」「そ、そういうの、しかも他人のこと、わざわざ言いふらすようなことじゃないでしょ!」「あっはははは!何勘違いしてんの!」心底、うれしそうな表情の杏子さん。「あたしが言ってんのは洗濯だよ、セ・ン・タ・ク!洗濯物たまってるかと思ってさあ!」僕はがくりと肩を落とした。本当、この人は、もう…。「でも、星島がしたいならそっちでもいいよ」「な、何?」「だから、頭にセが付く4文字。二文字目が小さいツ!」「せっ、せ、せ、接待?」「惜しい!接吻!」むにゅーっと唇を突き出してきたので、手のひらで回避する。 まだ何かもごもごと言っていたが、ようやく千晶さんが来て助け船を出してくれた。おつまみにチーズとハムを持ってきてくれたのだ。「あまりいじめちゃ駄目ですよ」「はももももも」「星島君に嫌われたくないでしょ」「むー」ちょっと考えて、杏子さんがコクンとうなずく。やっぱり、杏子さんの扱いは千晶さんが一番うまい。千晶さんが戻っていったところで、タイミングよく玄関のベルが鳴った。僕の手をはがすと、杏子さんは僕のおでこに軽くキスをして、うひひと笑いながら立ち上がって玄関に出ていった。逃げるようにキッチンに向かうと、用もなくキッチンをうろうろしていた聡志が同情してくれる。「うらやましい…」違った。同情じゃなかった。指をくわえて僕を恨めしそうに見ている。「もう星島なんて、星島なんて、土管から出てきた花に食べられちゃえ!」「うん…、お前は何をしようとしてるんだ?」加奈が、僕の横に立って唇を近付けようとしていたのだった。超能力者じゃないけど、何をしようとしているのかは分かった。「あたしも、あたしも」体をくねらせるけどちっとも可愛くない。「いいから、そっち行って座ってろ」「あーん」「ほら、サトルも」「はいはい」加奈と、ついにサトルを受け入れた聡志をリビングのほうに追いやると、僕は一息ついていすに座った。千晶さんは軽く笑ってみせただけだった。

013話 大和撫子生誕記念

その後、僕と加奈はこっそり競技場を抜け出て、プレゼントを買いに行った。 監督に見つかったら大目玉なので、ご飯も食べずに急いで競技場へ戻る。プレゼントをバッグにしまってスタンドに向かうと、競技はだいぶ進んでいて、女子400mハードルが行われている最中だった。ゴール前のスタンドに、うちの陸上部が陣取っている。僕たちもそこに移動した。「お。どこいってたんだよ」ハギワラサトル…、じゃなくて橋本聡志が僕を見つけて言った。陸上競技は、基本、個人のスポーツ。出番はばらばらだから、固まって行動する必要はあまりないのだが、どこにも姿が見えないのでいぶかしく思っていたらしい。だけど、僕の横に座った加奈を見て、聡志はふんと鼻を鳴らした。「なんだ。いちゃついてたのか」「プレゼント買いにいってたんだよ」「ああ。何買った?」「秘密。ハギワラは?」「誰だよ、ハギワラって」「橋本のロシア語読み」「ロシア人では、アーリマセン!」びしびしと、聡志は僕の胸にチョップをした。ロシア人っぽく言いたかったらしいけど、そんな器用な物真似を期待してはいけません。不器用ですから…。「もうちょっとロシア人っぽく言えよ」言うと、聡志は顔をしかめた。「ロシア語取っとけばよかったか。ハラショーしか知らねえもんな」「第二外国語、何だっけ?」「ドイツ語」「一緒か」「星島、何かしゃべってみろよ」「グーテンターク!」「それだけ?」「グーテンターク。ダンケシェーン?グッバイ…」新見と千晶さんに笑われた。でも、ほとんどの大学生にとって、第二外国語はこんなものです。一通り、競技が終わったのは4時過ぎだった。稲森監督が全員を呼んで総括して、後片づけをし、それで現地解散となった。だけど、下っ端の僕らが大学まで荷物を運んで片付けることになって、僕と聡志とミキちゃんは1年生を率いて絹山駅に向かった。「うー。腹減ったな」結局、昼は何も食べていない。そればかりか朝も軽くしか食べていないので、お腹が空いて仕方なかった。「さっさと終わらせて行こうぜ、サトル」「だから誰だよ、サトルって」「ロシア語でおね」「…ピロシキ!」「今度まで勉強しとけ。な?」「おう…」電車に乗って二駅、金谷山駅で降りてキャンパスへ。小さな駅で、駅前にはコンビニが1軒と自販機が数台と大衆食堂しかない。郊外の山の上で、大学以外には何もないようなところだ。金谷山駅から坂を上っていくと、正面左手に講義棟やら学生協やらサークル棟がある。右手には野球場やらサッカーのグラウンドがあり、陸上部のトラックもある。陸上部のトラックは金谷山駅から見れば一番手前だ。アスファルトの道路から、階段を降りてトラックへ。記録会に出なかった選手たちが練習をしていて、そのうちの何人かが僕たちのほうに走ってきた。「新見はどうだった?」やはり気になるらしい。3年生の荒川陽次さんが息せき切って尋ねてきた。「追参でした。11秒09」答えると、荒川さんは驚いたようにぴゃっと両手を挙げた。何それかわいい。「11秒09!?」「11秒09」「マジでか!すげーな、見たかったなあ!」そりゃそうだ、普通、驚きます。日本記録が11秒23なんだから。「カメラ入ってましたから、あとで見れるかもしれないですね」「そか。しかし、11秒09かあ!」数名で、わいわい言いながら戻っていく。僕の結果を聞きたがる人間など誰もいない。悲しいかな、それが現実だった。荷物を部室に片付けて、ようやく僕たちもそこで解散になる。そのまま帰る者もあり、ついでに軽く練習していく者もあったが、僕と聡志と加奈は、千晶さんの誕生日会に直行することにした。トラックの入口の階段を上り、道路に出るとキャンパスのほうに坂を上っていく。日曜日の夕暮れ。学生の姿はまばらだが、どこか遠くのほうから演劇部の発声練習の声が聞こえてくる。「ね、準備とか大丈夫なのかな?」加奈が、大きな身体を曲げるようにして僕の顔を見た。「準備?」「ケーキとかさ」そんなこと、僕に聞かれても困る。「さあ。誰かするんじゃないの」「食べ物とか大丈夫かな?」「だからおれは知らないっての」繰り返すと、加奈は唇をとがらせてばたばたとアスファルトを踏みつけた。土煙が舞う。「何それ。無責任すぎ!」「そんなこと言われても誘われただけだもん」「なんでちゃんと聞いておかないの!」「お前から聞いたんだよ!」「…ああ!」バカ…。キャンパスを横切って、金谷山駅とは反対の北門から出て、大学のある山を歩いて下りる。15分ほど歩けば、杏子さんのマンションに到着だ。18階建ての高級マンションで、うちの安アパートとは大違い。金谷山駅からは2キロぐらいでちょっと遠いが、この辺は地下鉄の東西線が走っていてひらけている。しかも、杏子さんのマンションは駅近くなのだった。「いいとこ住んでるなあ」と、聡志がマンションを見上げる。もちろん、聡志のアパートなんかとも比べ物にならない。 「いいとこだよなあ。これ押すのかな?」「そうじゃね。押せ押せ」「お前押せよ」「お前が押せよ」「あたし押そっと!」「どうぞどうぞ」「なんか違うな…」エントランスでドアを開けてもらって、エレベーターで11階へ。隅っこにある1105号室が浅海杏子さんの部屋だった。もう、エレベーターホールとか通路とか、ホテルみたいで普通のマンションとは違う。だって、1階に郵便受けがあるだけの部屋(?)があるんだよ。そこだけでうちの部屋の何倍もあるんだもの。びしっと監視カメラが付いてて、チラシ配りなんかできる雰囲気じゃないし。「おーう。入って入って」玄関のドアを開けて出てきた杏子さんは、早くも少し酔っているようだった。いつも明るくて愉快な杏子さんだが、酔うとそれがさらに顕著になる。今日もさっそく、僕の顔を見るとにへらと笑った。「お泊まりセット持ってきた?」「何の話でせう」「あはははは。照れちゃって」要するに酒癖がよろしくない。杏子さんはウヒヒと笑いながら僕の顔を覗きこみ、歩いていくとオレンジ色のソファーにどすんと座った。中に入ったのは初めてだけど、やたらと広いリビングとキッチンだ。ベッドルームは別なのか、奥のほうに扉がある。キッチンでは、千晶さんがせっせと料理の準備か何かをしていた。自分の誕生日会のはずなのに…。おずおずとリビングに足を運ぶと、杏子さんが自分の横を手でバンバンと叩いた。「星島、こーこ」聡志と加奈は杏子さんを恐れてキッチンに避難した。的確な判断だといえよう。これは学生・社会人を問わず、飲み会での基本的な常識ともいえる。すなわち、酔った先輩のそばからは離れるに限るのだ。「はーやく!」「は、はい」だけど、名指しされてしまったので仕方あるまい。歩いていって、おそるおそる隣に座ると、杏子さんはぴたりと体を密着させてきた。これはちょっとうれしかった。「ちあきーっ、グラスと氷ちょうだーい」「はーい」「それと何かつくってーっ」「はーい」何かがおかしい。グラスと氷を運んできた千晶さんと目が合う。千晶さんは眉毛を動かして、軽く笑って戻っていった。こういう扱いには慣れているのかもしれない。「よーし。お姉さんがお酌してやるからな」指でぽいぽいとグラスに氷を入れると、杏子さんは手を伸ばしてブランデーのボトルをつかんだ。極めて雑に、どばーっと注ぐ。適当にかきまぜて、ブランデーが少しこぼれたのか、指を僕の口元に持ってくる。「舐める?」「いや…」「あははは。舐められるほうがいいってか」もう無視するしかない。 自慢じゃないけど、あまりアルコールは得意ではない。それはアスリートだからという理由ではなく、単に体質によるものだろう。匂いだけで酔ってしまう気がする。ビールとかならともかく、匂いがきついお酒は駄目なのだ。「星島、今日、自己ベストだったんでしょ」杏子さんに言われて、ちょっと驚いた。僕の自己ベストなんて誰も知らないと思っていたからだ。「よく知ってますね」「よかったじゃん」「あ、はい」「はい、じゃあ、乾杯」チンとグラスを鳴らす。僕はちょっとだけ飲んで、それから皿の上のカシューナッツをかじった。杏子さんはじーっと僕を見ていたけど、ふいに僕の首に腕を絡ませてきた。その距離、約30センチの超接近遭遇だった。

012話 ポッキーよりも簡単に

みんなと一緒にサブトラックでダウンをしながら、僕はぼんやりと新見のことを思った。彼女の走りが、僕の脳裏に焼きついていた。何度もフラッシュバックして頭から離れなかったけど、古いビデオみたいに、どうにも不鮮明であいまいだった。どうしたって、僕自身に技術的な裏付けがないからだ。「よーし。飯だ飯だ」ダウンが終わって、それぞれ食事なり応援なりに散っていく。「星島、メシは?」聡志に誘われたけど、僕は芝生の上にごろりと横になった。「んー。いいや」「また金ねえの?」「いや。まあ金もあんまないけど、まだいいや」「じゃあおれ行くぞ」「何食べんの?ピロシキ?」「お前、おれがピロシキ食べてんの一度でも見たことあるか?」「返しが普通でつまらん…」「うるせっ」騒々しく言って、聡志が柏木さんのあとについていく。みんなでわいわいと、ちょっと楽しそうだったけど、僕は一人、芝生の上の横になって流れていく雲を見つめた。自分の走り。新見の走り。重ねようとしても重ならない。だけど、今日は自分なりにいい走りができた。大丈夫、焦る必要などない。焦る必要などないのだ。焦らなくても大丈夫。焦ることはないんだってば…。(うー)トンネルを抜けたと思ったら早くもまたトンネルに突入して、20分ほど、うだうだしていただろうか。突然、ひょいっと僕の前に顔が現れた。当の新見沙耶が、僕の顔を覗きこんだのだった。「おっ」急に現実に戻されて、しかも驚いて、僕はぴょんと跳ね起きた。新見の笑顔は眩しかった。「寝てるのかと思った」「ぼんやりしてた」思わず、きちんと体育座りをする。横に座りながら、新見はくすくすと笑った。「11秒23切ったよ」「あ、うん。風なかったらよかったね」「なんでも言うこと聞いてくれるんだよね、確か」悪戯っぽく新見が言って、僕は戸惑った。足りない頭をくるくると回転させて、それから慌てて遮る。「え、それ違うよ」あれは加奈に言った…、んだよね?あれ?「11秒23を切ったやつの言うことは、何でも聞いてやるって言ってたじゃない」「いや、あれ、そうだっけ?」「何してもらおうかなあ。美味しいご飯でもおごってもらおうかなあ」新見が笑顔で言って、僕は思わず鼻息を荒くした。それはつまり、デートのことですか!「あれだ。あれだよ。せいぜい牛丼おごるくらいだよ」「ふうん。牛丼か」「その代わり、1年分」1年間、毎日デート作戦。どうだ。仲浜高校の馬謖と呼ばれた僕の深慮遠謀は!「あははは。そんなに要らないよう」あっさり看破(?)されたけど、やっぱり新見の笑顔を見ていると癒される。いつまでもじっと見ていたかったけど、そういうわけにもいかないので、僕はちらちらと横目で盗み見た。新見は笑顔を浮かべたままで、何だかすごく機嫌がよさそうだった。「星島君って、意外と面白いんだね」ひざを抱えて、突然、新見はそんなことを言った。意外と、っていうのが引っかかるけど、まあよしとしよう。「そうかな」「もっと感じ悪い人だと思ってた。冷たくてカッコつけてて」僕はがっくりと肩を落とした。そんなふうに思われてたのか…。「あはは。ごめんごめん」新見は楽しそうに手を振って否定する。「いいけどね…」「もてるからって調子乗って!とか思ってた」「いや、別に調子乗ってないし、それ以前にもててないし」「またまたあ。嘘ばっかり」「いやマジで」「ふーん。杏子さんと付き合ってるんじゃないの?」「いや全然」「隠れてこそこそ付き合ってたりしない?」「しないしない」「なんだ。そっかあ」「彼女いたらもっと調子乗ってます」「あははは」奥手なのかもしれない。女の子とはわりあいしゃべるほうだし、仲のいい子も少なくないけど、どうにも彼女ができる気配はない。 とにかくそういうことで、バレンタインデーも誕生日もない。もちろんクリスマスも何もないし、それ以前に電話番号知ってる子もいないのだ。そんなふうに説明すると、新見は憐れむような表情で僕を見た。「そっかあ。言ってくれたらチョコぐらいあげたのに」「欲しい欲しい欲しい欲しい。ちょうだいちょうだいちょうだい」「あははは。超必死」「そりゃあ、まあ…」男子はそんなもんです。天下の新見沙耶のチョコだし!「じゃあ、来年ね」「やった!ホワイトデーには牛丼を…」「あはははは」心底、新見は楽しそうに笑った。もしかすると、僕たちは相性がいいのかもしれない。僕は勝手にそう思った。新見はたぶん、好記録をマークしてちょっとテンションが上がっているだけなのだろう。だけど、思うだけなら僕の勝手だ。誰にも迷惑はかけていない…、よね?「好きな子はいないの?」ふいに聞かれる。焦って、僕はしどろもどろになった。「まあ、いるようないないような?」「誰?うちの学校の子?」「お、教えない」「いいじゃん。ないしょにするから」流れが来ている。今しかないと思った。どうせ、駄目でもともとだ。目の前を、長距離選手の一団が走っていったが、サブトラックは静かなものだった。僕は新見を見て、それから高い空を見て、最後に芝生を見た。100mのスタートのときより緊張して、あっという間に口の中がカラカラに渇いた。「意外と近くに、いるかも」どうにも緊張してしまって、声があまり出なかった。だけど新見には聞こえたようで、笑顔のまま、周囲の様子を伺いながらちょっと顔を近づけて囁いた。「近くって、陸上部?」察してくれてもよさそうなものなのに、新見は鈍感らしい。僕は静かに息を吸って、それからまた静かに吐いた。高い空から、強い風が僕の背中を押していた。言ってしまおう。僕は決心して、顔を上げて真っすぐに新見を見た。「ん?」結果的に言えば、それが失敗だった。新見の笑顔があまりにも眩しすぎて、それを直視したがために心が折れてしまった。もう、僕の心なんて、ポッキーなんかよりも簡単に折れるのだ。「な、内緒」無理だ。いくらなんでも、告白初心者にこのシチュエーションはハードルが高過ぎる。「なーんだ。いいじゃん、教えてよ」新見が笑って、それからぴゅうっと強く風が走り去ったときだった。「のぞむくうううううぅん!」前方から、加奈が大きく手を振りながらドタドタ走ってきた。新見は加奈を見て、僕を見て、それからちょっと笑った。「もしかして?」勘違いされては困る。僕は慌てて手を振った。「それはない。断固として」「そっか。邪魔しちゃ悪いから行くね」「違うってば」「あははは。千晶さんとご飯食べてくるの」「あ、そっか。いってらっしゃい」「うん」にこっと笑って、新見は立ち上がるとたたたっとサブトラックから出ていった。一気に緊張が解けて、僕の魂は口から抜け出て遠く1マイルの彼方まで飛んでいった。加奈が何か騒いでいたけど、耳には入ってこなかった。今のは、すごく惜しかったような気がする。言えない自分が悪いんだけど、新見も、もうちょっと粘り強く聞いてほしかった。それよりあの言い方で察して欲しかった。察して、お互いにパスがしやすい状況に持っていってほしかった。あんまり僕に興味がないんだろうか。ないんだろうな。皆無なんだろうな…。「ん。のぞむくん、どしたの?」「いや。何でもない」泣いてない。泣いてないよ。「でさ、どうかな?いいよね?」「何が?」「だからあ、今日の夜、みんなでご飯。ちゃんと聞いてよ!」加奈は唇をとがらせてどすんと地団駄を踏む。芝生を、大事に。「みんなって?」「ハギワラ先輩でしょ。杏子さんと千晶さんと、沙耶さん。あと…、村上さん」ミキちゃんのところだけ表情が曇る。よほど嫌いらしい。「ふうん。まあいいけど」「今日、千晶さんの誕生日なんだって」「ああ。そうなんだ」山田千晶さんは3年生の短距離選手だ。とてもまじめな性格。走る大和なでしこ。陸上部の良心とも言われており、いつもほのぼのしているのでみんなに可愛がられている。特に杏子さんは千晶さんにご執心で、いつもベタベタしている。よくパシリに使われているみたいで、ちょっとかわいそう。もう3年生だというのに…。「一緒にプレゼント買いにいこ?」「ん。あとで行くか」「えへへ。初デート」「やっぱやめた」「えーっ」加奈はまた唇を突き出して、それからじっと僕を見た。「のぞむくん、ひょっとしてあたしのこと嫌い?」「いや、まあ、嫌いってことはないけど」「よかった」ほっとした表情をして、加奈はえへへと照れくさそうに笑った。悪い気分はしなかった。